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四角く切り取られた世界は、手が届くほど近いはずなのに、いつも、ひどく遠かった。
鳥籠のように、部屋と庭を区切る木の格子。雪見障子のガラスの向こうでは、園丁が丹精込めて世話をした牡丹が、大輪の花を咲かせている。
(あの花を見られるのも、今日が最後)
ガラスにそっと手を添え、二条華乃はほう、と愁いを帯びたため息をこぼした。
美しい少女だった。
頬を覆うように下ろされた、ぬばたまの長い髪。
長い睫毛に縁どられた漆黒の瞳は、深く沈むような愁いを帯びている。
だが、その儚さが、彼女の美しさを際立たせていた。身に纏うものが、粗末な着物にもかかわらず、だ。
「何をやっているのですか! 障子から離れなさい!」
鋭い叱責に、華乃ははっと振り向いた。
ちょうど、義母の美千代が部屋に入ってきたところだった。
まなじりを吊り上げ、華乃を睨みつけている。
「ああ、忌まわしい。誰かに見られてはいないでしょうね」
「……申し訳ございません」
華乃は慣れた様子で三つ指をつき、美千代へ深々と頭を下げた。
長い髪が肩口へと落ちると、白い頬にくっきりと浮かび上がった赤黒い染みが露わになる。
それを目にした美千代が、ヒッ、と引きつった悲鳴を上げた。
「は、早く『烙印』を隠しなさい! あやかしに目を付けられたらどうするのですか!」
「……はい」
華乃は慣れた手つきで、長い髪で頬を隠す。
と、美千代はその傍らに置かれていた黒塗りの膳に目を留めた。
「飢え死にでもするつもりですか」
薄い粥に、数切れの香の物。粗末な食事には、ほとんど手が付けられていない。
「恩を仇で返すのですね。お前のような疫病神を養ってやっていたというのに!」
「……」
違う。明日を思うと、食事が喉を通らなかっただけだ。
(でも、言ったところで……わかってはもらえない)
「仕方ありません、お母様。お義姉様は本当なら、いずれ帝に嫁ぐお人だったんです。粗末な粥など口に合わないのですわ」
陰鬱な部屋に不似合いな、明るい声。
美千代の後ろから現れたのは、義妹である日葵だ。もともと愛らしい顔立ちをしているが、今日は妙に着飾った姿をしていた。
(見たことのない着物。きっとまた、お母様の晴れ着を売ったのね)
華乃は虚ろに義妹を見つめた。もはや、咎める気力など残っていない。
すると、日葵はにっこりと笑って、
「どうしても食べられないのでしたら……ほら、こうすればいいわ」
粥の椀を手にしたかと思えば、その中身を華乃の頭上へこぼした。
「……っ!」
冷めた粥だ。火傷することはない。
だが、髪を、肌を伝い、着物を汚していくぬるりとした感触が、気持ち悪くてたまらない。
「うふふ、とってもお似合いですよ」
汚れた華乃を見つめ、日葵はうっとりと呟く。
「明日は大切な日。食事をしてお体を労わってくださいませ、お義姉様」
「まったく……」
美千代は、汚らわしいものを見るように華乃を見下ろした。
「今日は大切なお客人が来ることになっています。くれぐれも静かにしているように。もっとも、そんな姿では人前に出られないでしょうが」
「……はい」
無気力に頷いた華乃を満足そうに見やると、美千代と日葵は部屋を出て行った。
入れ違いに、使用人の女が食事の膳を下げに来る。
「ああ、ひどい。こんなに汚しちまって」
中年の女は、汚れた華乃には目もくれず、空いた膳を持ち上げた。
「ほら、これで掃除しな。あんたみたいな疫病神だって、それくらいできるだろう」
女は懐から布巾を取り出すと、華乃に投げつけて去っていく。
その足音が遠ざかったのを確認し――華乃は、ゆるゆると顔を上げた。
(日葵、機嫌がよかったわ。祝言が決まった?)
華乃は布巾で濡れた顔と髪を拭き、畳を清めた。替えがないので、着物はそのままだ。
(それとも……私が明日、出ていくのが嬉しいのかしら)
年頃だというのに、髪も結えず、外にも出られず。
六畳一間の座敷牢だけが、華乃の世界のすべて。
だが、それも今日までの話だ。
明日、十八の誕生日を迎える華乃は、斎宮寮に送られることとなっている。
すべては、その身に刻まれた烙印ゆえに――。
「どこに行っても、変わらない。閉じ込められる場所が違うだけ」
華乃は自らの体を抱くと、不安を押し殺すように呟くのだった。
* * *
日ノ本は、莫大な霊力を持つ帝によって治められる国。
人々は古来より、平和をおびやかす異形のあやかしとの戦いを続けていた。
そして、人がその身に宿す霊力は、強ければ強いほど、あやかしに対抗するための力として珍重されていた。
名家の父と、霊力の高い母との政略結婚により生まれた華乃は、その身に宿す強大な霊力を次代に活かすべく、厳しい教育を施された。
いずれは時の帝の妻になることを期待されてのことだ。
(でも、つらいとは思わなかった)
不在がちの父に代わり、母は華乃を慈しみ、愛してくれた。
だからこそ、長女の責務を果たそうとして、華乃は幼い頃からひたむきに頑張り続けていたのだった。
だが――風向きが変わったのは、華乃が八歳の時。
最愛の母が死去し、父が、妾だった美千代と再婚したのだ。
その仲睦まじさは、華乃の母に対する態度とは大違い。娘の日葵も、華乃と違ってのびのびと育てられていたのか、天真爛漫そのものである。
加えて、父も家に帰ってくるようになった。
(今までは、お義母様のいる別宅にお戻りだったのね)
華乃と母に対して、父は欠片の愛情も持ち合わせていなかった、というわけだ。
父は日葵を溺愛し、華乃に対してはことさら厳しく当たるようになった。
「お義姉様、その簪、きれいね。貸してくださいな」
「でも、これはお母様の形見で……」
華乃が十歳の頃だっただろうか。
その頃の日葵はやたらと華乃の小間物を欲しがった。
「華乃、姉なのだから、それくらい日葵に譲ってやりなさい」
たまたま通りがかった父が、華乃をきつく叱責した。
「でも……」
最初の頃は、華乃も貸してあげていた。
だが、日葵は紛失したり、自分のものにしたりと、一度渡したものを絶対に返してくれない。
「華乃さんはいずれ良いところに嫁がれるのでしょう。あとでいくらでも買っていただけるじゃありませんか」
義母の美千代に訴えても、いっさい取り合ってもらえなかった。
(私の居場所は、この家のどこにもない)
華乃はますます学業に打ち込んだが、非の打ち所がないほどの優秀さとは裏腹に、欲しいものは得られないまま。
(私も、日葵のように……)
しんとした華乃の部屋にはいつも、誰からも愛される日葵の、賑やかな声が届いていた。
* * *
事件が起きたのは、華乃が十四歳のときのことだ。
日ノ本の国には、年に一度、あやかしの力が高まる『百鬼夜行』と呼ばれる日がある。
夜、赤い満月が空に昇ったら、家の戸を締め切り、決して外に出てはいけない。
あやかしの頭領である『酒呑童子』が配下を連れて町を練り歩き、目についたすべてを奪っていくからだ。
だが――。
「どうしよう。手鏡がない……」
夕刻、華乃はひどく焦っていた。
肌身離さず持っていたはずの手鏡を紛失してしまったのだ。
それは、華乃の手元に残った、ただひとつの母の形見。
「もしかして、女学校に忘れたんじゃ」
「あの手鏡なら、屋敷の外に落ちているのを見ましたわ」
狼狽する華乃に、日葵がそう教えてくれた。
「そんな……!」
今日は百鬼夜行の日。
もし、あやかしの目に留まれば、手鏡は二度と戻ってこない。
「今ならまだ間に合うわ。通用門の鍵を開けておくから、取りに行って」
「でも、そんなことをしたら、私だけじゃなく日葵まで叱られてしまうわ」
「ばれなければ平気よ。それに、わたしだってお義姉様のお役に立ちたいの」
悲嘆に暮れる華乃へ、日葵は健気に微笑んだ。
「……ありがとう、日葵。私、行ってくる」
華乃は通用門を抜け、屋敷の外へと出る。
幸い、鏡はすぐに見つかった。
「よかった……」
だが――刹那、空に月が昇る。血のように赤い満月が。
同時に、遠くから祭囃子が聞こえてきた。
(これ、は……)
体が総毛立つのがわかる。おそらく、生まれ持った霊力ゆえの敏感さに。
恐ろしさのあまり動けないでいると、祭囃子は、華乃に近付いて――。
「おや、珍しい。このようなところに女子(おなご)がいるとは。よほど命が惜しくないと見える」
声は、背後から聞こえた。低い、男性のものだ。
おそるおそる振り向いた先には、人影。華乃が見上げるほどに背が高い男性だった。
顔はよく見えない。が――その頭部には、二本の角が突き出ている。
異形。それが意味するところを察し、華乃はさあっと顔色を変えた。
「我はあやかしの頭領、酒呑童子と名乗る者。今宵は我が略奪の刻と知ってのことかな?」
「い……いやぁっ……!」
華乃は転げるようにその場から走り、屋敷の通用門へ取り付いた。
だが――開かない。しっかりと施錠されているのだ。
「どうして! 日葵、いないの? 鍵を開けておいてくれるんじゃ」
「逃げる子兎を追うのも、また一興」
振り返ると、すぐそばで酒呑童子が華乃を見下ろしていた。
「ひっ……」
腰を抜かした華乃を見下ろし、異形はしたり顔で笑う。
「ふむ。お前は極上の霊力を持つようだ。ここでただ食らうにはもったいない」
「嫌、嫌ぁっ!」
逃げられない。
酒呑童子の唇が、華乃の頬へ触れる。途端、鋭い痛みが走った。
「その烙印が全身を覆う頃、お前を迎えに来よう。熟れたお前を楽しみにしているよ」
鬼の哄笑が遠ざかっていく。
恐怖のあまり、華乃は気を失い――。
以来、その顔には消えることのない、酒呑童子の『烙印』が刻まれることとなった。
赤黒い烙印は人間の体を侵食し、絶え間ない苦痛と共に、その霊力をあやかしの力の源である妖気へと変じさせた。
つまり、華乃の血肉を喰らえば、どんなあやかしも強い力を得ることができるのだ。
華乃はその身を酒呑童子のみならず、様々なあやかしに狙われ、穢れた娘として座敷牢に軟禁されることとなった。
* * *
華乃は懐から、あの日、取り戻した手鏡を取り出した。
己の顔を映すと、頬の烙印がまた広がった気がして、恐ろしくなる。
(けれど……すべては、私の愚かさが招いた結末)
ただひとつ残った母の形見を、華乃は手放したくなかった。
その結果がこれだ。
誰からも疎まれ、忌み嫌われて。
(愛されない私には、お似合いかもしれないわね)
自嘲するように、華乃は微笑む。
烙印を得てから、父とはろくに顔を合わせていない。
きっと、名門・二条を穢した娘とは、会いたくないのだろう。
(お父様にとって、政略結婚で生まれた私は、ただの道具にすぎない。せめて、最後のお役目だけは、きちんと果たさなければ)
そのとき、華乃の部屋の外がにわかに騒がしくなった。
「透瑠様、お待ちください、そちらは……」
聞こえてきたのは、日葵の慌てた声。
それから――。
「邪魔するぞ」
忙しない足取りで室内に踏み込んできたのは、見知らぬ黒衣の青年だった。
「だ、誰……?」
華乃が呆気に取られていると――青年は、静かに彼女を見下ろして。
「ひどいな」
その一言で我に返った華乃は、汚れた着物の裾で、さっと顔を隠した。
(烙印を、見られた……!)
恥じらいと嫌悪に、華乃の体がぶるぶると震える。
髪を下ろしているとはいえ、広がった烙印はそう簡単に隠し切れるものではない。
だが。
「隠すな。見せろ」
青年は華乃の腕を掴むと、その顔を強引に暴く。
「あ……」
華乃と青年は、お互いを見つめ合った。
まるで吸い寄せられるように、目が離せない。
(なんて、美しい方)
年の頃は、二十を過ぎたほどだろうか。
黒い髪と、彫りの深い、端整な顔立ちをしている。
強い光を帯びた切れ長の瞳は、夜明けの光にも似た金色。
「これだけ侵食されてなお、命を長らえているとは。二条の中でも格別の霊力を持つという噂は本当だったか」
骨ばった大きな手が、華乃の頬に刻まれた烙印を撫でた。
途端――常に体を苛み続ける烙印の苦痛が、ほのかに和らぐ。
こんなことは初めてだった。
「あなたは、いったい」
呆然と問う華乃に、青年は薄い唇を笑みの形に持ち上げた。
「お前を奪いに来た、烙印の娘」
(1話・終わり)