短編小説「死神と天使」
【前編】
灰色の空に、夕陽が揺れている。街は紅に染まり、そこを歩く人々の影は長く伸びていた。
その片隅、教会の鐘の音が響く。鐘楼の屋根に、黒い翼を持つ少女が座っていた。
「……また、あなたか。」
死神・ノクスは、空中を漂う白い羽に目を向ける。ふわりと舞い降りた天使——ルミエルが、微笑んでいた。
「ごめんなさい、ノクス。あなたを止めに来たの。」
ノクスはため息をつく。鎌が鈍く光る。
「何度謝れば気が済む? これは仕事だ。……邪魔するな、ルミエル。」
「でも、この子は——生きたいって思ってるの。」
ノクスの視線の先、ベンチに座る少女がいる。病院帰りの包帯が痛々しい。彼女に宿る希望の光を、ルミエルは見つめていた。
「生きたい、か。」
ノクスは立ち上がる。無機質な瞳に、ルミエルの必死な眼差しが映り込む。
「ルミエル、美しい言葉を並べたところで、私は死を司る者だ。」
「……それでも、私は——」
ルミエルが一歩踏み出そうとした瞬間、ノクスの鎌が彼女の胸をかすめる。
「近づくな。」
声は低く、ルミエルを拒絶していた。しかし、ルミエルは微笑み、再び囁いた。
「ごめんなさい、ノクス。」
その言葉は、彼女の願いそのもののようだった。
——君を止めてしまうことを許して。
——救いたいと思うことを許して。
ノクスはルミエルから視線を逸らし、静かに翼を広げた。
「……もう、好きにしろ。」
呟きながら、彼女は夕闇に溶けるように姿を消していった。
ルミエルは、立ち尽くしたまま、夕陽に染まる少女を見つめ続けていた。
【後編】
夜明け前の空は、紫色に染まっていた。
教会の鐘が静かに鳴る。静寂に包まれている。だが、中心—二人の姿だけが、凍りついたように動かなかった。
ルミエルは苦しげに息をしながら、膝をついていた。
「どうして……こんなことに……」
彼女の羽はボロボロに傷つき、翼は灰色に染まっていた。
一方、ノクスは黒い翼を広げ、見下ろしていた。鎌の刃先から、ルミエルを切り取るように淡い光が散っていく。
「お前は止め続けた……代償だ。」
ノクスの声は静かだった。怒りも悲しみもなかった。決められた運命を遂行する者としての冷たさがあった。
しかし、ルミエルはゆっくりと顔を上げる。
「……ごめんね。」
「また、その言葉か?」
ノクスは目を細める。
「違うの……ありがとうって……言いたかったの。」
ルミエルは震える手で、ノクスの頬に触れた。ノクスの瞳がわずかに揺れる。
「ノクス……私は、あなたの優しさをずっと見ていたの。死を司るあなたが、どれほど孤独だったか……だから、私は——」
「何も言うな……」
ノクスは彼女の手を振り払おうとするが、その力は弱々しい。
ルミエルの手は、しっかりとノクスの指を絡め取っていた。
「愛してる。」
その言葉が、夜明けの空に静かに溶けていく。
ノクスの心臓が、痛むのを感じた。死神である自分が、愛というものを受け入れることは許されないはずだった。それでも——
彼女の指を握り返していた。
「……愚かな天使だな。」
ノクスは微笑んだ。かつてないほど穏やかに、そしてどこまでも優しく。
そして、ルミエルの体が光に包まれ、ゆっくりと消えていく。
ノクスはその最後の瞬間まで、彼女の手を離さなかった。
夜が明け、世界に新しい光が差し込む。
ノクスの黒い翼には、一本の白い羽が静かに舞い降りていた。
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