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ガッと鈍い音が夕暮れの喫茶店に鳴り響き、整然と並べられたテーブルとイスが激しく飛び散った。幸い他に客はいなかった為、大きな騒ぎにはならなかった。
テーブルとイスを巻き込みながら仰向けに倒れた典晶は、血の味のする唾液を飲み込みながら立ち上がった。
文也に預けたバッグから、イナリがコンコンと吠える。
「何度言ったら分かるんだ! 玲奈は死んだんだぞ!」
「だから、その死んだ玲奈さんに頼まれたんですよ!」
もう一度振られた拳を典晶は両手で受け止める。怒りに満ちた信二の顔が眼前に迫る。
「赤木君! ちょっと、君……!」
禿頭の優しそうな店長がおろおろとしている。店長は荒れる信二を止めようとするが、とても店長では信二を止められそうにない。それほど、信二は怒気を全身から発散していた。
「玲奈の死を冒涜するな! アイツは、アイツはな! レギュラーを取る為に、毎日遅くまで頑張っていたんだ! 誰もアイツの悪口は言わせない!」
「玲奈さんは、先輩に見て貰いたがっています! 信二先輩に、泳ぎを見て貰いたいと願っているんです! 今でも! ずっと!」
典晶が吠えた。典晶も負けてはいなかった。信二が怒る気持ちも分かるが、それよりも典晶は玲奈の気持ちが痛いほど分かる。イナリの言った通り、彼女に明確な自我は無い。だから、ひたすら練習を繰り返し信二が来るのを待ち続けている。この先何年も、何十年もずっと。あの場所にプールがある限り、永遠と泳ぎ続ける。そんな玲奈が可哀想で、惨めで仕方なかった。独り善がりな感情かも知れないが、何としても玲奈を解放してあげたかった。終わりのない無限ループから、抜け出させてあげたかった。
「玲奈さんは言ってた! 先輩は三年生最後の大会前、レギュラーになれるか微妙なところでしたよね? 先輩と一緒に玲奈さんも練習したと言っていました! その練習の帰り道、先輩から好きな洋楽を教えてもらったって!」
信二の体から怒気が引いていくのが分かる。よすがを失ったかのように、信二の上体が揺らいだ。彼はテーブルに片手を突きバランスを取った。
「先輩が玲奈さんに教えたのは、マルダというバンドですよね? 玲奈さんは、先輩から教えて貰ったバンドのアルバムを全部買ったって言ってました」
「なんで、お前がその事を?」
掠れた声が信二の口から絞り出された。典晶は肩で息をつき、切れて腫れ上がった唇を手の甲で拭った。
「昨夜、玲奈さんから聞いたんです。先輩とのエピソードは、その二つしかないって言ってました」
喫茶店は静まりかえっていた。店長は何処からか取り出したモップを手にしながら、口を開けてこちらの様子を伺っていた。あれで暴れる信二を叩こうとしたのか、それとも、信二を惑わせる典晶達を叩き出そうとしたのだろうか。
典晶は揺れる信二の瞳を見つめた。焦点の合わない瞳から、彼の動揺が伝わってくるようだ。
「これで信じろというのは無理かも知れない。だけど、玲奈さんが先輩を待っているのは事実なんだ。都合のいい事かも知れないけど、今日の夜、学校のプールで待ってます」
典晶は文也を見た。文也は親指を突き上げOKのサインを寄越した。
「では、俺達は此処で失礼します」
ぺこりと頭を下げた典晶と文也は、まだコンコンと吠えるイナリを強引にバックに押し込むと、グチャグチャになった喫茶店を後にした。