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花野は夜になるといつも私の部屋にやって来る。今日もそうだった。今日も、お母さんが完全に寝ついた深夜の真っ暗な部屋に、いつもと同じように窓を叩く音が鳴った。カーテンを開けると、私の部屋のベランダに、花野が立っていた。そこまでは普段と変わらなかった。
花野は、何故かフルートを持っている。花野がフルートを吹いていることは当然知っていた。だけど、こんな夜中にフルートなんて吹いたらまずお母さんにバレるだろうし、もしばれてしまったら……フルートなんて吹けるはずがない。
不可解なのはそれだけではなく、花野は他にも何かを持っていた。それは茶色い紙袋で、中に何が入っているのかは分からなかった。
そして花野は、持ち物について何か触れるわけでもなく、いつものようにさらりと私の部屋に侵入して、いつものようにベッドに腰掛ける。
それでも、花野はやっぱり少しそわそわしている。
「菊」
何か質問しようとする前に、上擦った声で花野が私の名前を呼んだ。
「うん?」
花野が立っている私を上目遣いに見つめる。星のように綺麗な色をした目に私は見つめられる。
「フルートを吹いてもいい?」
そんなこと言われても、と思った。お母さんに私たちの密会がばれたら、全てが終わってしまう。綺麗なフルートの音色で起きたお母さんは、私の部屋にいる見知らぬ少女を見て、何を感じるだろう。この子は私にとって大切な人なの、といくら説得してもお母さんはきっと聞いてくれない。花野と会えなくなるかもしれない。そんな恐ろしいこと、想像したくもない。
「だめだよ」
「お願い。すごく小さい音でするから」
「でも、お母さんが起きちゃったらどうするの……」
私の震える声とは反対に、花野は強い力を持った瞳でこちらを見つめてくる。私は「なんで」とか細い声で疑問を口にする。
「菊に聞いてほしいの」
そう言うと、花野は膝の上の茶色の紙袋の中から突然タッパーを取り出した。蓋を開けると、中から小さなパンケーキが出てくる。その表面には、チョコレートソースのよれよれの字で、「菊 16歳おめでとう」と書かれていた。ああそうか今日は私の誕生日だったのだとそのとき初めて気がついた。
「ごめん、料理するの初めてだったから、下手だけど」
呆然としている私をよそに、タッパーを私に押し付けた花野は楽器ケースの中からフルートを取り出して、私に「座って」と促す。私がのろのろとした動作でベッドに腰掛けたのを確認すると、花野は立ち上がってフルートを吹き始めた。とても小さく、ハッピーバースデートゥーユーの歌が部屋を満たしていく。
今日は私の誕生日だった。だから、花野はパンケーキを作り、フルートを吹いてくれている。
ぼーっと、緊張した面持ちでフルートを吹く花野のことを見つめていた。誰も知らない関係。誰も知らない私だけの花野。十年近く、蜜月を続けてきた。花野はいつも私のありとあらゆる感情の一番大きくて鋭いところを独占していた。私が痛烈に何かを思うときは全て、必ず花野なのだった。きっと花野にとっても私はそういう存在なのだ。
それをお互いに伝え合わずに、長い年月が過ぎた。お互いのお互いに対する感情は見え透いているのに、伝えると今までのような、小さくとも必ず救いになっていた時間がばらばらになってしまって、二度と戻れないような気がした。そうやって、胸の中で勝手に諦めることを繰り返しすぎて、私はいつしか花野と、彼女に付随するあまりに大き過ぎる感情たちを持て余していた。
月明かりに照らされる暗く冷たい部屋に、場違いなほどに暖かく優しいメロディが鳴っている。
演奏が終わると、花野はゆっくりとフルートを下ろして不安そうに私を見つめた。花野の目はきっと世界で一番綺麗なのだ。そして私は、花野が今日私にしてくれたことが、今までの出来事の中で一番嬉しいのだった。
「ありがとう」
私が微笑むと、花野は安堵してほっと息をついた。タッパーを花野に差し出す。「一緒に食べよう」と言うと、花野はとてもとても嬉しそうに頷く。
花野に初めて出会ったのも、真冬の深夜だった。そのときも、花野はフルートを持っていた。向かいのマンションのベランダに突っ立っていた花野は、12月なのに下着姿で、フルートを小さな両手で握りしめながら、顔をぐしょぐしょにして泣いていた。気づくと私はベランダの柵に足をかけて、子供の短い手をめいいっぱい広げ花野に手を差し伸べていた。
半分に割ったパンケーキをおいしそうに頬張る花野の横顔を見つめた。視線に気付いた花野がおんなじ風に私を見つめ返した。見つめあったまま、ゆっくりと、静かな時間が流れてゆく。口や体を重ねるのが正しい関係なのかどうかは分からない。でも、泣いている花野に手を差し伸べたあの日から今まで、私はずっと花野のことしか考えていないのだ。