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「最後の一部屋ですから、選べませんでした」
真横にすっと立つ朝倉くんが、色気を含んだ眼差しで私を見下ろしてきた。
私は一気に青ざめる。
(この色気……この展開……よくない、よくないっ!)
さっきまで「朝倉くんは紳士だから大丈夫」と自分に言い聞かせていたのに、目の前にダブルベッドがあるだけで、急にその自信が揺らいできた。
『僕からは手は出しません』そう宣言していた、朝倉不可侵条約。
その条約が、早くも怪しく感じられる。
(いやいや、落ち着いて。朝倉くんは何もしないって言ったじゃない)
そう思い直そうとする。
けれど、こんな密室で、同じベッドを使うことになるなんて……。
会社の上司と部下。
しかも私は、つい昨日まで彼のことを「ちょっと怖い部下」くらいに思っていたのだ。
それが今では、こんな状況になっている。
(誰か、私を助けて……!)
私はすぐさまバスルームに入り、バスタオルを一枚手に取った。それを細長くクルクルと丸める。
そして、ベッドの中央に、ビタンッ!と勢いよく置いた。
これでいい。
陣地には、明確な境界線が必要なのだ。
私は腰に手を当て、朝倉くんを振り返った。
「ここからお互いに出てはいけません!」
「なんですか、急に」
朝倉くんが目を丸くしている。
構わない。こういうことは初手が肝心なのだ。
最初にルールを決めておけば、きっと大丈夫。
「ルールを破ったら、私はコンプライアンス室にハラスメント被害者として訴えにいく!」
息を切らしながら、私は堂々と宣言した。
しばらく呆けていた朝倉くんだったが、やがて口元を緩めた。
「それ、野々宮さんの真似ですか?」
「え?」
「めっちゃ既視感あります」
「ちゃ、茶化さないで!」
顔が一気に熱くなる。
「これは、お互いに貞操の危機感を持つってことよ!」
私は必死に訴えた。
けれど、それが余計におかしかったらしい。
ついに朝倉くんから、くすくすと笑い声が漏れた。
「あははっ。瞳子さんって、こんな面白いこともするんですね」
「面白くないわよ! 私は真剣なんだから!」
「すみません」
そう言いながらも、彼の顔にはまだ笑みが残っている。
そして、落ち着きを取り戻した朝倉くんは、私がベッドの中央に設置した境界線をひょいっと取り上げた。
「えっ!」
タオルはあっさりと彼の肩にぶら下げられてしまった。
「ちょっと、それ……!」
「僕は温泉で冷えた体を温めてきます」
何事もなかったような顔で言う。
「瞳子さんも一緒にどうですか?」
いつもの、あの柔らかな笑顔。
私はその姿を見つめたまま、目を開くことしかできなかった。
(境界線であるタオルを奪うとは……ものすごい神経の持ち主)
しかも、本人には悪気がまったくない。
(私、全然勝てる気がしないんですけどっ!)
「ひ、一人で行ってきてっ」
「では、お先に」
朝倉くんは本当にそれだけを言うと、部屋を出ていった。
パタン──扉が閉まる音と共に、部屋が一気に静かになった。
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりとベッドに腰を沈める。
柔らかなマットレスが身体を受け止める。
「……どうして、こんなことに」
思わず小さく呟いた。
今夜、私たちはどうなるのだろう。
朝倉くんが「手は出さない」と約束したから、大丈夫なはず。
きっと、大丈夫。
(ただ、私が彼の催眠術にかからなければ……)
あの柔らかな笑顔。
あの綺麗な横顔。
あの距離感。
考えれば考えるほど、余計に頭が混乱してくる。
私は額に手を当て、ぎゅっと目を閉じた。
今週は色々なことがありすぎた。
龍彦に振られて、泣いて、朝倉くんに助けられて。
仕事では大きな案件が動いて。
そして今は、山の上のペンションで部下と二人きり。
(疲れた……)
このまま何も考えずに眠ってしまいたい。
そう思ったときだった。
瞼の裏に浮かんだのは、可愛い弟の顔だった。
まだ幼かった頃の李人。
私の後ろをついて歩いていた小さな背中。
泣いたときは、私が抱きしめてあげた。
怖がっているときは、私が大丈夫だと言ってあげた。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
「ああ……李人に会いたい」
口から、自然と言葉がこぼれた。
私は弾かれるように顔を上げる。
「そうだ、今日は帰宅できないことを伝えないと」
慌ててスマートフォンを手に取った。
「えー、足止めで帰れないの? もう避難しているんだよね」
電話の向こうから、李人の声が聞こえる。
「宿にいるから安全よ。李人こそ、一人で平気?」
「子供扱いしないでよ。戸締まりも確認したよ」
「夕飯は?」
「これから五目チャーハン作るんだ。僕の得意料理なんだよ」
「そう。それならよかった。最後に火の元の確認だけ忘れないでね」
「わかってるって」
その声を聞いているだけで、私の胸の中が少しずつ落ち着いていく。
やっぱり李人は、まだまだ手の焼ける小さな弟。
こうやって私が守ってやらないといけない。
そう思っていた。
だけど。
「姉さんも、怖かったら誰かに守ってもらうんだよ」
「え?」
思いがけない言葉に、私は固まった。
「本当は姉さんのほうが怖がりだもんね」
「……」
あの李人が、私の本当の姿を知っている?
思わず、呼吸をするのを忘れた。
どっくん、どっくん、と心臓が大きく跳ね返るのがわかる。
「僕がいないと、姉さんがダメなんだよね?」
だから、留学に賛成してくれないんだよね?
そう指摘されるのかと思った。
促迫する鼓動に手を添えて、落ち着け、と自分に暗示をかける。
「……何、言っているのよ。今日は一人で羽を伸ばして過ごすつもりよ」
声が震えそうになる。
駄目、李人に心配させてはいけない。
最後まで、いつも通りに頑張れ、私!
「そうだ!」
李人の声が明るくなる。
「お給料が入ったから、姉さんを鳳凰ホテルのラウンジに連れて行ってあげる!」
「ああ、例のスイーツだっけ」
「そう! あと、留学の話も!」
「……そうだったわね」
「じゃあ、時間はメールで入れておくからね! 明日は気を付けて帰ってきてね」
「うん。李人も気を付けてね」
「はーい!」
通話が終わる。
私はしばらく、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
やがて、静かに電話を切る。
「……李人も気づいているのね」
このままでいたくて。
あの子の成長を認めたくなくて。
私はずっと、李人を「守らなければいけない弟」のままにしていた。
だけど、あの子はもう、立派な成人だ。
一人で戸締まりをして、自分で夕飯を作って。
そして今度は、私を守ろうとしている。
「……いつの間に」
込み上げてくるものを、なんとか飲み込んだ。
目を強くつぶる。
認めたくない。まだ、私が守ってあげたい。
だけど李人はもう、私が思っているほど小さな弟ではない。
そのことを、私は思い知らされていた。
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夏目莉央
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