レイチェルには家族はいなかった。
けれど、かつては確かに
「いた」という記憶がある。
母の髪の柔らかな感触。
父の大きくて温かな手。
幼い頃の記憶の断片が
時折ぼんやりと脳裏に浮かぶ。
しかし
思い浮かぶ顔は
何故かどれも恐怖に歪んでいた。
怯え
醜く顔を歪め
まるで化け物を見るような目で
自分を見下ろしていた。
何故あの時
あんな顔をされたのか⋯
レイチェルは
今でもその理由を知っている。
彼女は
誰にでも〝なれた〟─。
まるでカメレオンが
周囲の色に溶け込むように。
思い思いの人物像に
自分の姿を変えられた。
それは
幼い頃の無邪気な願いが引き金だった。
「お姫様みたいになりたい」
ある日
ふとそう願った。
その時の事は
今でも鮮明に覚えている。
鏡の中に映った自分の姿が
別人に変わっていた。
髪は艶やかな金に染まり
目は深い蒼に輝き
レースをふんだんに使った
華やかなドレスに包まれた姿。
まるで絵本で見た
理想の『お姫様』
そのものだった。
はしゃぎながら
母に駆け寄った瞬間
その顔が⋯醜く歪んだ。
「あっ……」
母の顔は恐怖に引き攣り
父が立ち上がる音がした。
次の瞬間
レイチェルの頬に鈍い衝撃が走り
床に叩きつけられた。
母は怯え
声も上げられないまま
レイチェルを指差して震えていた。
父は恐る恐る近づき
まるでそこに
得体の知れないものが
転がっている かのように
彼女を睨んでいた。
自分の娘が
目の前で突然
別人に変わったのだから。
それが家族の怯えの理由であると
レイチェルは今なら分かる。
あの日を境に
家族は彼女を避けるようになった。
父の冷たい目
母の震える声
兄が向ける嫌悪の視線。
暫くして
彼女は家を出た。
それからは
街を変え
姿を変え
行く先々で名を変えながら生きてきた。
最初は楽しかった。
目を引く美しい少女になったり
力強い青年になったり。
誰かと深く関わると
その人の姿に自然と変わってしまう。
何度も何度も変わり続けるうちに
レイチェルは気付いた。
─自分の本当の顔が⋯思い出せないー
気が付けば
子供の頃の自分の姿も
声も
記憶の中で霞んでいた。
思い出せない自分の顔が
そもそも女だったのか
男だったのかすらも
今となっては曖昧になり分からない。
鏡を見れば
いつも「誰か」の顔が映っている。
そんな生活が続き
レイチェルは自分が”何者”なのかさえ
分からなくなっていた。
「……こんなこと
世界中で私だけなんじゃ⋯?」
その疑念が頭を過ぎった時
心の奥にぽっかりと
穴が空いたように感じた。
誰にも相談できず
誰にも理解されるはずがない。
それでも
それでも⋯もし
何処かに答えがあるのなら。
このまま「自分」を見失う前に
せめてそれだけでも知りたかった。
だから彼女は
『喫茶 桜』の扉の前に立っていた。
藁にも縋るような思いで
その冷たい真鍮の取っ手に手を掛けた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!