テラーノベル
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レイチェルは、意を決した。
震える指先で
真鍮の取っ手にそっと触れる。
その冷たさは
まるで彼女の迷いを
押し返すかのように無機質で──
しかし確かに、現実の感触を伝えてきた。
ぐっと力を込めると
重厚な木製の扉が軋む音を立てて
静かに内側へと開かれる。
──その瞬間。
ふわり、と。
まるで 春風が
彼女の心へ直接吹き込んだかのように
柔らかなピアノの旋律が耳に届いた。
温かい空気が肌を包む。
香ばしいコーヒーの香りに
ふわりと混ざるのは焼き菓子の甘い匂い。
それは
どこか懐かしく、優しい記憶を撫でるような
柔らかな香りだった。
(⋯⋯なんて、落ち着く匂い)
そう思う間もなく
扉が背後で静かに閉じる。
──その刹那、世界が変わった。
喧騒が、消えた。
街のざわめきも、車の音も、鳥の声さえも──
一切が、聞こえなくなった。
音そのものが奪われたような静寂。
だが、耳が塞がれたわけではない。
ただ、それほどまでに──
この空間は、外界から隔てられていた。
(⋯⋯ここは、特別な場所)
そんな直感が、雷のように胸を打つ。
「こちらへどうぞ⋯⋯」
突然の低い声に
レイチェルはびくりと肩を跳ねさせた。
振り向いた先に立っていたのは
店のウェイターらしき男。
跳ねた癖のあるダークブラウンの髪に
切れ長の琥珀色の瞳。
無口そうな顔立ちと鋭さを湛えた目元には
どこか人と距離を置いたような
気配があった。
だが、それでも彼は──
不器用ながらも
誠実に対応しようとする空気を纏っていた。
「ありがとうございます⋯⋯」
ぎこちないながらも
頭を下げるレイチェルに
男は無言で頷き、静かに歩き出す。
促されるままに店内を進み
案内されたテーブルに腰を下ろす。
木製の椅子は手入れが行き届き
座面には薄く陽の温もりが残っていた。
ふと、視線が店の奥に向かう。
そこに立っていたのは──
もう一人の男。
黒褐色の長い髪を一つに束ね
藍色の着物を纏い、胸元に襷を掛けた姿は
時代が混じり合ったような
不思議な風格を纏っていた。
彼の鳶色の瞳は穏やかで
どこか母性さえも感じさせる。
(⋯⋯あの人が、この店の店主かな⋯⋯?)
カウンターの中で
丁寧に器を並べるその所作は
静かで、正確で、まるで茶事のようだった。
レイチェルは
そっとテーブルの上のメニューに
視線を落とす。
美しく整えられた文字の中──
端に、何気なく書かれた一行に
目が止まった。
──Special Drink──
(⋯⋯あった)
噂に聞いた通り。
思わず息を呑み、手を挙げる。
「これを⋯⋯お願いします」
恐る恐る、スペシャルドリンクを指差す。
「⋯⋯スペシャルドリンク、ですね。
種類は?」
「⋯⋯えと⋯⋯コーヒーを、ホットで」
ウェイターの男は何も言わず
手元のメモにペンを走らせ
軽く頭を下げて立ち去った。
笑顔は──なかった。
だが、それが彼の素なのだと
何となくレイチェルにはわかった。
(⋯⋯噂通りなら
このドリンクを頼んだ後、強く願えば──)
静かに目を閉じ、胸の奥に潜んだ問いを
そっと浮かべる。
(私は⋯⋯いったい、何者なの⋯⋯?)
その願いが言葉になると
胸が締め付けられるように痛んだ。
(お願い⋯⋯助けて⋯⋯)
微かに震える唇が
言葉にならない声を吐いた時──
ふと
視線が自然とある席へと吸い寄せられた。
硝子で仕切られた、その特別な席。
そこに座っていたのは
一組の親子らしき二人。
──否。
その空気は、もはや人間というよりも
何かもっと異質な
〝完成された造形物〟に近かった。
女性は
腰まである金髪をゆるやかに垂らし
白磁のような肌は
窓からの光を反射していた。
伏せた睫毛も金色。
そして、燃えるように深い紅の瞳。
彼女は、一切表情を動かさないまま
静かに、そこに〝存在〟していた。
その傍らには
全身を包帯で巻いた幼い男の子。
銀髪に山吹色の瞳。
その目がこちらに向いた瞬間
レイチェルの背筋に冷たいものが走った。
(⋯⋯病気⋯⋯?)
だが、次の瞬間には
その考えを自ら振り払っていた。
視線を逸らしたいのに
なぜか目が離せない。
その席は、まるで舞台の上。
光を浴びながらも、音も動きもなく
ただただ美しさだけが凝縮された空間だった
──店主が動く。
藍の着物の裾が滑らかに揺れ
黒褐色の髪が風もないのに柔らかく揺れる。
手に持たれた銀のトレイは
まるで空気に溶け込むような滑らかさで
運ばれていた。
そして
女性の前に置かれた一杯のコーヒー。
彼女の唇が触れ、喉がわずかに動く。
それだけの所作に──
レイチェルは、目を奪われていた。
(⋯⋯綺麗な人⋯⋯)
無意識に浮かんだその言葉。
だが。
(──殺してやる)
その一言が、雷のように脳を貫いた。
「⋯⋯え?」
思わず声が漏れた。
それは、自分の心の中から聞こえた。
けれど、自分の意思ではない。
誰かに憑かれたかのような
ぞわりとした感覚。
恐る恐る視線を上げると──
カウンターの中
あの店主の鳶色の瞳が、こちらを見ていた。
それは、怒りでも問いでもなく──
静かで、深くて
どうしようもなく哀しい目だった。
「⋯⋯どうぞ」
不意に差し出された声に
レイチェルは我に返った。
ウェイターが
自分の前にカップを置いていた。
テーブルの上のその黒い液面には
自分の顔が映っている。
「あ⋯⋯ありがとうございます」
礼を言い、カップを手に取る。
──その時。
目に入ったのは
ソーサーの上に丁寧に折り畳まれた
白い小さな紙片。
(⋯⋯え⋯⋯ま、まさか⋯⋯)
指先が震えながら、それを広げる。
『あなたの仲間は近くにいる』
丁寧な筆跡で
たったそれだけが書かれていた。
(⋯⋯仲間?)
理解が追いつかず、呆然と顔を上げた
──その瞬間。
目の前に、彼がいた。
包帯で全身を覆われた、あの男の子。
「──わっ!?」
驚きに声が漏れる。
だが、恐怖はなかった。
その顔──
包帯の隙間から覗く口元が
ふわりと綻んでいた。
「これ、あげる!」
ころん、と音を立てて
テーブルの上に転がされた赤い飴玉。
それが光に透けて、宝石のようにきらめく。
「食べて、食べて!」
無邪気な声が弾んだ。
視線の先に
母と思しき女性はまだ硝子の中。
動かず、微動だにせず。
けれど──
拒んでいる気配はなかった。
「⋯⋯じゃあ。いただくね?」
レイチェルは
そっと飴玉を拾い上げ、 口に含んだ。
甘さがゆっくりと、心を溶かしてゆく。
「ありがとう!」
そう言った瞬間
男の子の山吹色の瞳が、ぱあっと輝いた。
笑顔は
包帯越しでも分かるほど、あたたかくて──
まるで太陽のようだった。
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美しい光景は一転、悪夢へと堕ちる。 抗えぬ衝動に支配され、少女の手は血に染まる。 「なぜ──」 静かに告げられた最後の言葉が、心を深く抉る。 逃れられぬ運命の歯車が、今、動き始めた──。