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レイチェルは意を決して
取っ手に手を掛けた。
冷たい真鍮の感触が
指先に伝わる。
ぐっと力を込めて押し開けると
静かに扉が軋みながら開いた。
その瞬間
柔らかなピアノの旋律が
ふわりと耳に届いた。
店内は
温かな空気に包まれていた。
香ばしいコーヒーの香りと
何処か甘く優しい
菓子の香りが混ざり合い
まるで柔らかな毛布に包まれたような
安心感を抱かせる。
驚いたのは
その静けさだった。
喫茶店でありながら
外の喧騒が
まるで消え去ったかのように
無音だった。
音が消えたのではない。
扉が閉まった瞬間
まるで店そのものが
外界から隔離されたかのように
雑踏や車の音が完全に遮断されたのだ。
喫茶店では珍しく
防音措置が施されていた。
此処は⋯
特別な場所なのかもしれない。
そんな直感が
レイチェルの胸に走った。
「⋯⋯こちらへどうぞ」
低くぶっきらぼうな声に
はっと我に返る。
声の主は
店のウェイターらしき男性だった。
ダークブラウンの
癖のある気紛れに跳ねた髪。
琥珀色の切れ長な瞳は
何処か鋭さを感じさせるが
不器用ながらも
愛想良くしようとする気配が伺えた。
無愛想な仕草に隠された
誠実さのようなものが垣間見える。
「ありがとうございます」
ぎこちなく礼を言うと
彼は頷いて静かに席へと案内した。
レイチェルは言われるがままに
席へと腰を下ろし
ふと視線を奥へと向けた。
カウンターの内側に
もう一人の男性がいた。
黒褐色の長い髪を品良く一つに束ね
藍色の着物を纏い
たすき掛けをしている。
彼の鳶色の瞳は穏やかに細められ
何処か母親のような優しさを感じさせた。
立ち位置的に
彼がこの店の店主なのだろう。
レイチェルは
手元のメニューに視線を戻し
メニューの端に記された文字に
目を止めた。
─Special Drink─
噂に聞いた通りだった。
「これを⋯⋯お願いします」
恐る恐る手を挙げ
ウェイターの彼を呼ぶと
メニューを指で差す。
「⋯⋯スペシャルドリンク、ですね。
種類は?」
「⋯⋯あ、えと⋯コーヒーで」
ウェイターの男性はメモを取り
軽く会釈して立ち去った。
笑顔は⋯欠片も無かった。
レイチェルは
静かに息を吐いた。
このドリンクを頼んだ後に
強く心で願う。
それが噂で聞いた、手順だった。
レイチェルは震える手を
そっと握りしめる。
目を閉じ
胸の内で静かに願う。
(⋯⋯私は⋯いったい、何者なの⋯⋯?)
ーお願い⋯私を、助けて⋯っー
静寂の中
ふと目を開けた時
店内のある一席に
視線が吸い寄せられた。
そこに座るのは⋯⋯親子だろうか?
女性と
その傍らに寄り添う
幼い男の子。
女性の姿は
息を呑むほど美しかった。
腰まで流れる絹のような金髪は
窓から差し込む光を受けて揺らめき
白磁のように白い肌は
儚げに輝いて見えた。
伏せられた睫毛も
その髪と同じ黄金の色をしており
その双眸には
まるで燃え盛る炎のような
深紅の瞳が覗いていた。
彼女は
まるで人形のように微動だにせず
表情も変えないまま
ただ静かに座っていた。
傍らの男の子は
銀色の髪に
大きな山吹色の瞳を持ち
店内を静かに見渡していた。
その山吹色の視線が
自分の方へ向けられた瞬間
レイチェルは思わず身を竦めた。
だが⋯
背筋がぞくりと冷たくなったのは
その男の子が
全身を包帯に巻かれていたからだ。
顔の大半は晒されていたが
首から下は殆ど包帯で覆われ
手の甲や指先にまで巻かれている。
(⋯⋯皮膚の病気⋯かしら?)
その無躾な考えを振り払うように
視線を外そうとしたが
どうしても目が離せない。
親子らしき二人が座るその席は
店内で唯一
硝子で仕切られていた。
他の席とは異なり
その空間はまるで
ガラスケースの中に飾られた
ショーウィンドウのようだった。
淡い光に照らされ
物言わぬまま静かに座る二人の姿は
まるで精巧な
人形のようにさえ見える。
着物姿の店主が
硝子張りの席へと
静かに歩み寄った。
その姿は⋯⋯
実に、品があった。
藍色の着物が滑らかに揺れ
長く束ねられた黒褐色の髪が
歩く度に肩の辺りで
柔らかく揺れる。
背筋は凛と伸び
彼が手にした銀のトレイの上で
漆黒色のコーヒーが
揺れる事は無かった。
テーブルに着くと
店主は姿勢を崩さぬまま
コーヒーカップを
女性の前にそっと置いた。
女性は
一切の動作に反応する事無く
伏せたままだった双眸を
僅かに開いた。
深紅の瞳が
静かにカップを見つめる。
白磁のような白い指が
カップの取っ手に優雅に添えられ
口元へゆっくりと運ばれた。
その動作に
何の迷いも無かった。
まるで
それが決められた
舞の一部であるかのように
機械的で
無駄のない所作だった。
⋯⋯なのに、美しかった。
唇がカップの縁に触れ
漆黒色の液体がゆっくりと傾く。
ごくり、と
わずかに喉が動いた。
それだけだった。
それだけなのに
彼女は絵画の中の女神のように
儚く
けれど確かに其処に在る。
(⋯⋯ほんと、綺麗な人⋯⋯)
レイチェルは
無意識にそう思った。
だが⋯⋯
(⋯⋯殺してやる)
脳裏に響いたその言葉に
レイチェルの思考は止まった。
「⋯⋯え?」
自分の心が
紡いだ言葉とは⋯思えなかった。
けれど
確かに自分の中から
湧き上がった声だった。
混乱に顔を強張らせたレイチェルは
無意識に視線を動かした。
その先でー⋯
店主が
此方を見つめているのと
視線が合った。
鳶色の瞳は穏やかに見えたが
何処か
深い哀しみが滲んでいた。
それが何に対するものかは
分からない。
ただ
まるで静かな
痛みのようにも感じられた。
「⋯⋯どうぞ」
不意に横から声がして
レイチェルは肩を震わせた。
ウェイターの男が
レイチェルの手元に
静かにコーヒーを置いていた。
「あ⋯⋯はい。ありがとうございます」
ぎこちなく礼を言い
カップを手に取る。
その時
ふと目に留まった。
ソーサーの上に
小さな紙が折り畳まれている。
(⋯⋯え⋯まさか⋯っ!)
心臓が早鐘のように鳴る。
噂では
スペシャルドリンクを頼んだ後
心で強く願えば
答えが貰えると聞いていた。
そんな馬鹿な話が
ある訳が無い。
半信半疑だった⋯⋯のに。
指先が震えながら
紙を広げる。
『あなたの仲間は近くにいる』
たったそれだけの文字が
丁寧な筆跡で書かれていた。
「⋯⋯仲間⋯?」
理解が追いつかず
ぼんやりと紙から顔を上げた。
その瞬間
レイチェルの目の前に
先の硝子張りの席にいた
男の子が立っていた。
「わっ!?」
思わず声が漏れた。
いつの間に
という驚きよりも
その無邪気な笑顔に目を奪われた。
彼の全身は包帯に巻かれていたが
包帯の隙間から覗く口元が
にっこりと綻んでいた。
包帯越しでも分かる
心からの満面の笑みだった。
「これ、あげる!」
小さな手が
テーブルの上に
飴玉をコロリと転がした。
透き通った赤い飴玉。
光に透けて
宝石のように輝いていた。
「食べて、食べて!」
レイチェルは思わず
視線を彷徨わせた。
視線の先には
硝子張りの席に座る女性がいた。
彼女は
男の子が其処に居ない事を
気に止めてないかのように
無表情のまま
じっとコーヒーを見つめていた。
(⋯⋯この子の親、なのよね?)
彼女が何も言わないのなら
拒絶されている訳では
無いのかもしれない。
「⋯⋯じゃあ。いただくね」
レイチェルは
小さな手の温もりが残る
飴玉を口に入れた。
甘さがゆっくりと口の中に広がり
心の緊張が
少しだけ解けるのを感じた。
「ありがとう!」
そう声を掛けると
男の子はさらに満面の笑みを見せ
包帯の隙間から見える山吹色の瞳が
まるで太陽のように輝いた。