テラーノベル
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大抵のことは時間が解決すると言う。
振り返ってみればまったくその通りで、退社まで考えるほど馬の合わなかったひとつ歳下の弟とも、今となれば目を合わせるだけで大抵のことは伝わってしまう仲になった。
もちろん、それは当時の僕と奴の苦労があってこそのものだけれど。「……何?」
「……何も?」
たまたまぱちりと視線が合って、ヘチャンが怪訝そうな顔をした。目を逸らしたら負ける気がして眉だけを動かす。
ヘチャンは一瞬探るように目を細め、かと思えば次にはわざとらしく瞳をきらめかせて両手で自身の頬を包んでみせた。
「見たいなら見てどうぞ?」
鼻につくほど可愛こぶった声でそうするから、呆れて思わず笑った。胸焼けするほどの愛嬌をやってのけるヘチャンのそれは、職業的には素晴らしい才能だが、日々共に過ごす身からすると鬱陶しくて敵わないときがある。
上目遣いの視線がうるさくて肩を叩けば、ヘチャンは仰々しく痛がってみせて、それから可笑しそうに破顔した。こじんまりとして丸い口に前歯が覗く。細くなった目尻が溶けるみたいに垂れている。
ふとまたかちりと視線が交わった。その瞬間にヘチャンの目にいたずらっぽい光が宿る。まずいと思ったけれどヘチャンが口を開く方が先だった。
「あ。今かわいいって思ったでしょ」
したり顔を見せてすぐ、身を翻して去っていくヘチャン。
その背中を僕は黙って睨みつけた。何を投げかけてもきっとださくなるだけだし、上機嫌そうな奴の足取りを更に浮つかせることになりかねない。
最近ヘチャンは楽しんでいるようだった。まるで怖いもの見たさに薮をつつく子どもだ。
変化はこんなところにもあった。ピロリンとどこか間抜けな音を立てて開いたドアロック。本人から暗証番号を教えられたのだから開いて当然だが、どこか妙に感慨深かった。
「ビール買ってきてくれた?」
「うん」
「さすが〜」
ソファでだらけている家主は僕がビニール袋を掲げると大袈裟に拍手をした。
買ってきたものを冷蔵庫で冷やしてしばらくすると、ヘチャンが頼んでおいたらしい出前が届いて、それを適当に並べて二人で食べる。別に今日集まって夜ご飯を食べようと約束していたわけでもないのに、一人分にしては明らかに量が多い。首を捻った。
「僕が来なかったらこの量どうするつもりだったんだよ」
「だって今日、来そうな感じだったじゃん」
「どこが」
「退勤するとき、僕ともっと一緒にいたいって顔してた」
思わず噎せそうになって意地で耐えた。何を言い出すかと思えばこの男。気づいても、言っていいことと悪いことがあるだろう。睨む僕を他所に、ヘチャンは素知らぬ顔でおかずを口に運んでいる。
駄目と言われると余計にしたくなる、奴はその典型例のような男で、僕はいつもそれに振り回された。最近は特に酷くて、以前のヘチャンなら踏み込んでこなかったところまでずけずけと近づいてくる。案外秘密主義なところのあるヘチャンのマンションの暗証番号を知っているのは、奴の両親とマネージャーヒョンを除けばどうやら僕だけのようだった。
一番腹立たしいのが、引き際を見極めるのが上手いことだ。悪戯をするときも誰かを揶揄うときも、こうして僕がヘチャンとの適切な距離をはかっているときも。僕が口を開こうとすれば、焼酎を出してくると言ってヘチャンはそそくさと席を離れた。だから僕はいつもヘチャンへ向ける言葉を吐き出しそびれる。そのせいなのか、もう何年も放っておいている感情は、時を経て枯れるどころかより深く僕の中に根を這わした。こんなはずではなかったのだけれど。大抵のことは時間が解決するなら、この気持ちもそろそろどうにかなってくれてもいいと思わないか。
不意にテーブルに放ったらかしにされたヘチャンのスマホが震えて、パッと画面が明るくなる。通知のバナーの奥に自分の顔が見えた。あいつ、まだ変えてないのか。呆れを通り越して感心する。毎日飽きるほど僕の寝顔を見続けて、一体どんな気持ちなんだ。焼酎の瓶とグラスを手に戻ってきたヘチャンを睨んだ。
「それ、いい加減やめろよ」
「何?」
「スマホのロック画面」
「ヒョン、僕の生きがい知ってる?」
「碌なことじゃないっていうのだけは」
「そうまさに今のそれだよ。ヒョンの嫌がる顔を見ること」
ため息をついてみせれば、お前はひどく満足そうに頬を膨らませ、何も知らない子グマみたいにきゃるると笑う。昔からこんなときばっかりヘチャンは純粋そうな顔をした。だからどれだけ悪戯をされたって、僕はヘチャンを遠ざけることができなかった。体の内から込み上げる熱は酒のせいだけではない。
黙ったままヘチャンを見る僕に、ヘチャンが首を傾げた。
「何?」
「……」
お前のことだから気づいているんだろう。そうやってひだまりじみた笑みを見せるたび、気絶しそうな想いがこの胸を破ろうとして、お前に触れたいとそれだけを僕は願っていた。
じいとその黒い瞳を見つめれば、ヘチャンが僅かにたじろぐ。近づくだけ近づいておいて、こっちから行けば途端に怖気付くのだからたまったもんじゃない。
「……それ、やめてよ」
「……何を?」
「目が。ヒョン、おかしいもん最近。おれまでおかしくなりそう」
笑みを引っ込めて憎々しそうに、けれどそれにしては熱っぽいドンヒョクの目が苦しそうに歪んだのを見て、目眩がした。何かを察したらしいドンヒョクがはっと口を抑えたけれど、もう遅い。
「待って。今のなし……」
「おかしくなったらいい。こっちはもう待ちくたびれた」
ドンヒョクの息を詰める音がした。触れようとしている。これまで形を確かめずにいた、付かず離れずの僕たちの間に確かに存在していたそれに、今。
ドンヒョクはわかりやすく動揺していた。珍しい、普段は取り繕うのが上手いのに。
「むかつく。おれにだって色々考えがあるんだけど。勝手に話進めようとしないで」
「むかついてるのはこっちだよ。思わせぶりなこと散々しておいて、僕には勝手に話進めるなって? お前が進めさせてるのがわからないのか?」
「それは。それはヒョンが、先に思わせぶりな目するから」
「だったら知らないふりしてればよかっただろ。お前だったらいくらでもできるはずじゃん」
「できるわけない!」
勢いよくテーブルを叩く音。感情を剥き出しにした顔をして、苦しそうに、ドンヒョクは小さく呟いた。どうやって我慢しろっていうの。そう言ったきり、ドンヒョクは俯いて黙り込んだ。いつもはいやに回転の速い頭も今ばかりは上手く回っていないようだった。
「我慢できないならすることはひとつだろ」
「……なんなのさ、本当」
「覚悟を決める」
ドンヒョクがこちらを睨み上げた。身を乗り出して、鼻と鼻が触れ合うくらい近づく。焦点が合わなくなるほど近くにいるのに睨んだままでいるから、らしいなと思った。顔を傾ける。ドンヒョクは微動だにしない。目くらい閉じたらいいのにと思うけれど、僕も閉じるつもりはないからお互い様だった。
テーブルに乗り出した体を戻してから、見つめあったままのドンヒョクがふっと息を吐いたのを見て初めて、これまでにないくらい胸が熱くなっていることに気がついた。全身に向かって心臓が一生懸命血を送っているのがわかる。わけもなく切ない気持ちになる。
好きだなんて今更口にするのは野暮だろうけど、長く傍にいすぎていつも言葉の足りない僕らには丁度いい気がして呟けば、お前は垂れがちな目をまるくして僕を見つめ返した。ついにおかしくなっちゃったの? 見てよ鳥肌。そう言って半端に笑いながら腕を差し出してくるお前の耳の色が濃くなっていることくらい、鈍いと言われる僕でもわかるのだ。熱くなったその耳を親指と人差し指で挟んでさすれば、お前はついに無理な笑顔を引っ込めて黙りこくった。かわいいやつ
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ぐっちょぶ