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・ 二〇二八年 七月三十一日 午後七時二十分
・ 東京都 柄沢市・山中
ひやりと冷気を帯びた白髪が降り掛かる。
辺りは岩肌に囲まれ、明かりらしい明かりはない。ここは、どこかの洞窟と言ったところか。
寝かされた鋼一郎を、白江が覆い被さるように覗き込んでいた。
「ようやっと起きたか、お前さん」
「ここはお前の隠れ家か……?」
「まぁ、そんなところか。それよりも酷く魘されておったが、悪い夢でも見ていたのか?」
「……お前には関係ないだろ」
あれが夢ならば、どれだけ救われただろうか。
深い意識の迷濁の中、鋼一郎が見たのは過去の記憶。どっと押し寄せる後悔だけが今も尽きることのない、あの夜のことを思い出していた。
「むっ! せっかく助けてやったと言うのに。ここまで邪険にすることもなかろう!」
彼女は氷を作る妖術に長けた雪女。水没したムラクモのコックピットハッチを氷で覆い密閉することも、逆に氷を作り出す勢いで閉ざされたハッチを押し上げ脱出することも、容易なはずだ。
あとは梨乃が辺りを立ち去るまでを水没したコックピットの中でやり過ごし、適当なタイミングを見て浮上すればいい。
ここまでならば簡単に推察ができた。それでも、鋼一郎を水底から引き挙げるメリットなんてなかったはずだ。
あそこで自分が溺死していれば、白江を追う祓刃隊員だっていなくなる。
「どうして、俺を助けた? お前一人でどこへでも逃げちまえばいいだろ?」
「そうだったかもな。ただ、先に救われたのはワシの方じゃ。あの廃工場でお前さんはワシに応えてくれた」
「……あれはそういうのじゃなくて」
「ところで傷の方はどうじゃ? お前さんにとっては屈辱かもしれんが、例の〝医療きっと〟とやらも今は海の底じゃからの。ワシの妖術で傷を治させてもらったぞ」
そう言われてはじめて、鋼一郎は自身の身体が軽くなっていることを自覚する。着ていた隊服は脱がされ、頭と腹には包帯をきつく結ばれていた。
「お前、氷を出す以外はできないんじゃ?」
「ただ氷を出す以外が下手なだけで、できないわけじゃない。それにワシは独学で医療をかじっておるんじゃ。おかげでお前さんの腹から銃弾も取り出せたぞ」
ホテルで食らってからずっと脇腹に残り続けた白聖鋼の銃弾。体が軽くなった一番の要因はその弾を抜いてもらったことが一番の要因だろう。
鋼一郎は自分に巻かれた包帯の一部が、細く帯状に切られた自らの隊服であることにも気づく。清潔な布を傷口に当て、その上からカーキ色の細長い布で固定がなされていた。
「この包帯は……俺の隊服か」
「血塗れなうえにボロボロじゃったからの。ワシのような妖怪じゃ包帯さえ満足に手に入らんし、勝手に使わせてもらったぞ」
鋼一郎はポツリとつぶやく。
「…………ありがとう。だいぶ楽になった」
「妖怪相手にでも礼が言えるんじゃな」
「特別だ。……それにお前は他の妖怪たちと何か違う気がするんだ」
「そうか。ならワシもお前さんの感謝も素直に受け取ることにしよう」
白江の表情が柔らかなものに変わる。微かに頬を高揚させ、口元を緩めた表情は人間のものと変わらなかった。
「なんだよ、それ」
妖怪に対して抱いていた強い憎しみと、白江に抱く感情に若干のズレが生じていることを、鋼一郎自身が自覚していた。
ふと、包帯にされた隊服から徽章が消えていることに気付いた。
「なぁ……俺の徽章を知らないか?」
「徽章? あぁ、椿の方か」
「そっちじゃない! 焼け落ちた方だッ!」
困惑する白江を前に、鋼一郎は大きく取り乱す。
「落ち着け! コレのことじゃろう? 一応、こっちも預かっておったが……その焼けカスはお前さんにとって、それほどまでに大事なものなのか?」
「……大事に決まってんだろ……これは桃(もも)教官の形見なんだよ」
桃は私物らしい私物を持たないような人だった。凱機(がいき)の収納スペースに全部が収まる程度にしか嗜好品を持っていない。そして、自爆した凱機は跡形さえも残らなかった。
爆破跡から回収されたのも、辛うじて形を保っていたこの徽章と、今は鋼一郎のムラクモに装備されている夜霧の一本だけだった。
もっとも、夜霧を折られてしまった今。残された形見は彼女が一人の祓刃隊員であったことを示す、この鉄の塊だけになってしまったが。
「なぁ、お前さんが百千桃について話をしてくれたことは覚えているか」
彼女に静謐な声でそう切り出された。
「なんだよ、急に……」
「いいから。ワシは覚えているかと聞いているんじゃ」
「そりゃ覚えてるけど、それがどうしたんだよ」
白江はちょうどいい大きさの岩を鋼一郎の正面に腰かけた。彼女の真意はわからない。
「『誰かに護られるより、誰かを護れるようにならないか』──じゃったか? 今度は、あの時の話をもっと詳しく聞かせてくれないか?」
◇◇◇
当時の鋼一郎はとにかく荒れていた。
幼少期に両親を妖怪に奪われ、預けられた先の孤児院うまく周りに馴染めず。どこから噂が漏れたのか通っていた中学でも「親を妖怪に食われた可哀そうな奴」として腫れもの扱いをされていた。
B・Uさえあれば同年代の不良程度に負けはしない。憂さ晴らしのために喧嘩に明け暮れる日々が、鋼一郎にとっての日常だ。
その日も三年生十人余りを相手に大立ち回りを繰り広げたあと。連中に奪われた同級生の財布を奪い返し、人目に付きにくい校舎裏を立ち去ろうとした矢先。
何の前触れもなく、彼女は突風のように現れた。
「──噂通りの荒れっぷりだね、克堂鋼一郎くん」
濡羽色の髪と、訓練生の制服に身を包んだ当時の百千桃だ。
後になって、彼女は訓練生ながらに特例として、隊員と同等の職務や第一世代モデル凱機のテストパイロットを務めたことを聞いた。
だが、それを知るよしもない鋼一郎には「他校の生徒が噂の不良を見に来たんだろう」くらいにしか考えることが出来なかった。
この手のタイプは絡まれれば面倒だと、鬱陶しげに手を払ってあしらう。
「なんだよ、アンタ? この辺りじゃ見ない制服だが」
「おやおや、随分な口の利き方だね。これでも私の方が歳は上なんだけどなぁ」
桃は鋼一郎へと歩み寄ってくる。喧嘩の直後で過敏になっている鋼一郎の視覚はその挙動もスローモーションで捉えていた。
彼女の動きはひどく緩慢なものに見える。だからこそ、自分が彼女に投げられたことを理解するのに数秒を要した。
手首を掴まれ、次の瞬間には完璧な背負い投げが決まっていた。視界が反転し、背中に鈍い痛みが走る。
「…………は?」
「んー。ざっくり言っちゃえば、私が君の上位互換だから。私の目はすべてが止まって見えるし、身体だって君より速く動くんだ」
いや……そう説明されたって意味が解らない。
「ちょーっと、ごめんね」
「うっっぐ!?」
困惑する鋼一郎の腹へと、彼女は腰を下ろす。
「悪いけど、君のことは勝手に調べさせてもらったよ。幼少期にB・Uを発症。異常な動体視力を獲得したんだったよね」
「ッ……意味わかんねぇよ。……つーか、退けよ!」
鋼一郎の抗議にも聞く耳を持たず。その場で足を組み交わした彼女は言葉を続けた。
「ねぇ、鋼一郎くん。いきなりで悪いんだけど、私と一緒に祓刃になってみる気はない? 私はそこの訓練生なんだ」
「……祓刃……それって、たしか妖怪対策局の」
「そっ! 君の才能を生かさないんじゃもったいないよ。君はきっと強くなる。君なら誰かに護られるより、誰かを護れるようになれるはずさ」
その言葉は深いところへと刻み込まれた。
彼女はもう一度、同じ言葉を繰り返す。
「誰かに護られるより、誰かを護れようになれ。そうなれば君はもう何も失わないはずだから」
◇◇◇
白江の真意を図りかねながらも、桃との出会いを語る表情は無意識に柔らかいものへと解れていた。だが、それも途中で渋いものへと変わってしまう。鋼一郎は遂には 口を閉ざし、押し黙ってしまった。
「どうしたのじゃ?」
「いや……俺はいま、何をやってるんだろうなって思ってな」
総身から力が抜けていくのを感じる。本当に自分はいま何をやっているのか?
桃に誘われ、訓練校に入った。第二、第三の「奇才」を育成する「セカンド・百千プロジェクト」に抜擢され、教官になった彼女の元でひたすらに強くなろうとした。
誰かに護られるより、誰かを護れようになる。
他の誰でもない、鋼一郎自身がそうなりたいと願ったから。もうこれ以上、大好きな誰かを失いたくはなかったから。
だが、百千桃は死んだのだ──
自分はその現場に居合わせながら、何もできないまま立ち尽くすことしかできなかった。
仇を討とうともした。妖怪を全て縊り殺そうと彼女と同じ一級戦闘員にまで上り詰めた。
それなのに一時の感情に流され妖怪を助けた挙句、今はその妖怪に傷の手当を受けてしまっているという在り様だ。
「由依の奴には心配かけてばっかで、その癖に誰も護れちゃいない。……妖怪を全部ぶっ殺して、桃教官の仇を討とうとしてたはずなのに、今はその妖怪に助けられてるなんてな」
結局のところ、不良相手に憂さ晴らしをしていたあの頃と何も変わっていない。大切な人を失った喪失感と、弱い自分への苛立ちを妖怪にぶつけていただけに過ぎないのだ。
そこに大義なんてなかったことに今更になって気づいてしまった。
「もう、いっそ笑ってくれよ」
鋼一郎から、ひどく乾ききった自虐的な笑みが漏れる。
「笑わない。ワシは笑わないとも……お前さんがあのホテルで一つ目の凱機に立ち向かったときも。撃たれたワシを庇おうとしたときも。ワシが正体が妖怪だと分かっていながら、梨乃から助けてくれたときだってそうだ。──我が身も顧みず誰かを護ろうとするお前さんを、誰が笑えるだろうか?」
「ははっ……まさか妖怪に慰められるなんてな」
鋼一郎は苦笑いを浮かべた。そう。白江と鋼一郎の間にはどうしたって、妖怪と人間という絶対的な境界線が存在するのだ。
「のう」
痛烈な声を押し殺すよう、また白江に切り出された。彼女は唇をきつく結び、鋼一郎に頭を下げる。
「ワシはお前さんを巻き込んで、増してお前さんが抱く千百桃への思いを利用するような言葉で騙してきた。本当にすまないと思っている」
「もう構わない。助けてもらったんだ。お前が俺を貶めようとしてるわけじゃないってことも、なんとなく分かったからな」
だが、その真意を聞かなければ納得は出来ない。
「なぁ……雪女。お前は何を企んでるんだ?」
「そうだな……それを語らねば筋も通らない。けれど、それを語る前に少し昔話に付き合ってはくれぬか?」