テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
2059/02/13鼠と鴉、そして悪徳が蔓延るここネオンシティにおいて、食事だけは常に俺たちに幸福を齎してくれた。ハンバーグから溢れ出す肉汁に窒息しそうになり、安酒で喉を焼きながら笑い転げた夜のことを俺は覚えている。いや、それしか覚えていないと言った方が正しいのかもしれない。
「おえ……頭痛ェ…」
喉の奥にこびり付いた苦い熱とともに、獅子しし煉瓦れんがは目を覚ました。上半身を起こすと視界がぐらりと歪み、凄まじい頭痛が襲いかかる。何度も経験してきたこの不快感に、獅子は深く溜息を吐いた。
「…飲みすぎた」
確か昨夜はいつもの居酒屋で見慣れない酒を見つけ、度数も確認せず勢いで注文してしまったのだ。その結果がこれだ。周囲を見渡せばここは間違いなくラブホテルの一室。そして隣には見知らぬ女が眠っていた。長い黒髪の間からは尖った耳と角が突き出し、対照的にその肌は白く柔らかそうだった。
そんな観察はどうでもいい。俺はまさか、竜人の女と “ ヤった ” のか?
互いに服は着ている。だがラブホテルのベッドで共に眠っていたという事実はそれ以上の説明を不要にさせた。必死に記憶を掘り起こそうとするが、意識はあの酒をジョッキ半分ほど煽ったところで綺麗に途切れている。酒に強くもないくせに、見た目が格好いいからという浅はかな理由で注文した昨夜の自分を獅子は心底呪った。
「ん……あ、起きてる」
不意に響いた女の声に肩を跳ねさせ、獅子は勢いよく隣を振り向いた。
「何その顔……もしかして、覚えてない?」
「あー……綺麗さっぱり抜けとる。君、誰やっけ?」
女は獅子の反応を愉しむように、悪戯っぽく微笑んだ。対する獅子は女の顔立ちが想定よりも幼いことに気づき、未成年の可能性を危惧して嫌な汗を掻く。
「なあ……一応聞くけど、君いくつなん? えらい幼い顔しとるな」
「あは。私十八だよ。それより昨日の夜のこと、本当に何にも覚えてないの? 楽しかったのに」
十八歳───その響きに一瞬血の気が引いたが、現行法でギリギリ成人であることに獅子は安堵の息を漏らした。
「悪いな……ほんまに、なんも覚えとらんのよ」
獅子はハンガーに掛けていたジャケットのポケットへ手を伸ばし、財布から抜き取った数枚の紙幣を無造作にテーブルへ置いた。
「悪いけど、俺明日も忙しいんよ。……ほな、またね」
「待って」
場を立ち去ろうと身形を整える獅子を、女の言葉が引き止める。
「金、足りんかった?」
「違うけど…まさかここから安全に帰れると思ってるの?」
言葉の意図が掴めず、獅子は不審げに眉間に皺を寄せた。
「そろそろあいつらが私の居場所を見つけて、エントランスの前で待ち構えてると思うんだよね。もし神聖で純粋無垢であるはずの花嫁が知らない男とラブホから出てきたら、きっと獅子さん殺されるよ」
いつの間にか名前を握られている事実に獅子は再度酒を呪った。だが今は後悔に浸っている場合ではない。神聖な花嫁? あいつら?
「なんや、君……ヤバい連中か警察にでも追われとるん?」
「警察だったら嬉しいけどね。残念ながら私を追ってるのは宗教団体。聞いたことない? 『Velo Blancoヴェロ ブランコ』って名前」
その名を聞いて、獅子の脳裏に辛うじて浮かんだのはどこかの遊具の名前くらいだった。
「聞いたことないな。有名なん?」
「知名度は低いと思う。小さな団体だし、表向きは普通だからね」
女の説明は、まだ酒の抜けきらない脳みそで理解するには少々長くて複雑すぎた。要約すればこういうことらしい。
新興宗教団体『Velo Blanco』は四年に一度、信仰する神へ “ 花嫁 ” を捧げる儀式を行う。その条件は “ 純粋無垢な十八歳の乙女 ” であること。今回その大役に選ばれたのが目の前の女、缶ほとぎ硝子しょうじだった。
そして教団の定義する純粋無垢とは、すなわち “ 処女 ” であること。つまり記憶はないが彼女の純潔を奪った俺は、神聖な儀式を汚した不届き者として、教団から命を狙われるハメになったというわけだ。
話の真偽は定かではない。だが獅子はこのネオンシティにおいて「厄介な連中に目をつけられた」という事実だけは直感的に理解した。
「……なるほどな。俺、とんでもないことやらかしとるやん」
「そういうこと」
重苦しい沈黙が部屋に立ち込めた、その時だった。
突如として、鼓膜を震わせるほど激しく扉を叩く音が響き渡った。状況を確認する間もなく、ドアは強引に蹴り破られる。雪のような白い布に身を包んだVelo Blancoの教徒たちが数人なだれ込んできた。
彼らは一様に「花嫁様……!」と狂信的な声を上げ、缶へと執拗に手を伸ばす。その異様な執着は、生者の魂を啜ろうとする亡霊の群れのようだった。唯一の出入り口は教徒たちに塞がれ、獅子と缶は文字通りの袋の鼠となる。
「どいて」
缶は獅子を自分の背後へ突き飛ばすと、スゥっと深く息を吸い込んだ。直後、その口から猛烈な紅蓮の炎が吹き出される。そうだ、忘れていた。竜人は火を吹ける種族なのだ。獅子の思考がようやく過酷な現実に追いつく。
「逃げよっ!」
彼女に手首を引かれ、獅子は弾かれたように部屋を飛び出した。背後からは熱に悶える教徒たちの悲鳴が聞こえるが、振り返る余裕はない。非常階段を数段飛ばしで駆け降り、ホテルの外へ。しかし路上にも教徒の増援が待ち構えていた。花嫁と、彼女を連れ去る不浄な男を見つけた彼らは一斉に牙を剥いて追ってくる。
「はぁ……はぁ……っ」
逃走劇の途中で、缶の走る速度が目に見えて落ちていった。どうやら体力には自信がないらしい。
「君……えっと、なんやっけ名前。……まあええ、遅い!」
「えっ、ちょっと!」
獅子は迷わず缶を横抱きにし、再び地を蹴った。仕事のピザ配達と趣味のツーリングで、この界隈の路地裏はすべて脳内にマッピング済みだ。迷うことなく左右へハンドルを切るように曲がり、教徒たちを引き離す。突き当たりのゴミ集積所、その物陰に滑り込むように身を潜めた。
「花嫁様!」
「どこだ、どこへ行った!」
「必ず見つけ出すのだ!」
すぐ近くを教徒たちの怒号が通り過ぎ、やがて遠ざかっていく。気配が完全に消えたことを確認し、二人はようやく張り詰めていた糸を切らすように、地面へ力なく座り込んだ。
「はぁ、死ぬかと思ったぁ……」
「それはこっちの台詞やろ。巻き込みよって……ったく、面倒やな」
獅子は困ったようにボリボリと頭を掻き、隣で肩を揺らしている缶の顔を見た。
「まだしばらく、あいつらそこら彷徨いとりそうやな。……腹減ったやろ、ピザ食いに行かん?」
「え、ピザ?」
「なんや、腹減っとらんの? それともピザ嫌いな変わり者?」
「いや、好きだし、お腹も空いてるけど……今?」
缶は「こいつは何を言っているんだ」と言いたげに顔を歪ませた。
「俺な、この世で一番うまいピザ屋で働いとるんよ。あそこなら割と安全やし、なにより腹が満たされる。……ほら、行くぞ」
獅子は全力疾走の代償で悲鳴を上げる足を引きずりながら立ち上がり、缶に向かって無造作に手を伸ばした。
「立てるか? もう君抱えて走る体力、残っとらんで」
子供扱いされたことに腹を立てたのか、缶は頬を膨らませ、バシッとその手を掴み返した。
「別に歩けるし……っ」
「はは……ほな、行こか」
・・・
・・・
・・・
現在時刻午前二時。 街が深い眠りにつく時間帯でも、その店だけは煌々と光を漏らしていた。看板にはネオンライトで『ダーレーアラビアン』の文字が光り、その傍らにはピザを頬張る馬のシュールなロゴが鎮座している。
「あれ、獅子やん。今日夜勤やっけ?」
レジカウンターで暇を持て余していた店員が、客として現れた獅子に気さくに声をかけた。
「今日はプライベートなんよ。ここ今暇やろ? マルゲリータ一枚頼むわ」
気心の知れた友人に頼むような軽い調子で注文を済ませる。店内の客は、獅子と缶の二人だけ。事実上の貸切状態だ。二人は適当なボックス席に腰を下ろし、焼き上がりを待つことにした。
「どしたん? なんか緊張しとるん?」
先ほどから、缶の様子が妙に落ち着かない。図星を突かれた彼女は気恥ずかしそうに口元を綻ばせながら視線を逸らした。
「実は私、チェーン店なんて人生で二、三回しか入ったことなくて。それに、ピザも食べたことないんだよね……」
あまりに浮世離れした告白に、獅子は思わず「は?」と声を漏らした。
「マジか……そんな奴おるん? 相当やばいなそれ。ほな、今日が人生初ピザってわけやな」
「はい……」
缶の意外な食事情で盛り上がっていると、先ほどの店員が大きな平皿に乗ったピザを運んできた。
「お待たせ。マルゲリータ一丁」
卓上に置かれたピザから立ち昇る香ばしい匂いに、缶の瞳がキラキラと輝きだす。その様子に小さく苦笑しながら、獅子は一切れを手に取った。
「……そんな見つめられとると食いにくいんやけど。ほら、食べ」
我に返った缶は慌てて視線をピザへと落とした。恐る恐る、一番近いピースを手に取って一口齧りつく。
「おいしいっ……!」
感動がそのまま言葉となって溢れ出た。
「はは、やろ? でも最初にここ知ってしもたら、もう他所のピザじゃ満足できんかもな」
獅子は愉快そうに笑った。缶は誰かと会話を楽しみながら食事をすることの尊さに、不意に目尻が熱くなるのを感じた。もし花嫁なんて運命を押し付けられなければ、こんな風に、平凡で温かい日常を歩めていたのだろうか。
「足りんかったら追加したるわ。優しい俺からの奢り」
追手の恐怖を束の間忘れ、二人は夢中でピザを平らげた。
「あー、美味しかったぁ! もうお腹いっぱい」
「それは重畳。……さて」
満足げに息をつく缶だったが、ふと我に返ったように表情を曇らせた。獅子がそれを見逃すはずもない。
「よし、作戦会議といこか。俺と君で、どうやってあいつらから逃げ切るかって話や」
「私のこと……助けてくれるの?」
「はあ? 助けるに決まっとるやろ。もう巻き込まれとるんやしな」
缶はどこか納得いかない様子で獅子を睨んだ。
「……なんや」
「……あいつらは、どこまでも私を追ってくる。だったら私をあいつらに差し出して、自分だけ逃げた方が獅子さんにとっては合理的じゃないの?」
まだ幼さの残る十八歳の少女の言葉に、獅子は大袈裟な溜息をついてみせた。
「幼いなぁ……ガキかよ。助ける言うたら助けるんよ。相手かて同じ人間やろ、逃げよう思たらいくらでも手はある。……まあ、俺はこの街に居座るつもりやから、君を遠くへ逃がしたることくらいしかできんけどな」
獅子は氷の溶けきった水を飲み干し、口内を潤した。
「ここ新豊シンフォンに未練ないんやったら隣の明水ミンシュイか……ちょい遠いけど南街ナンジェまでなら送ったる。どうする? 一人で逃げるか、俺に便乗するか」
缶はしばらく沈黙し、意を決したように口を開いた。
「南街に知り合いがいるの。……だから、そこまで送って。お願いします」
膝の上で拳を握りしめ、座ったまま深く頭を下げた。獅子はそれに「了解」と短く応じた。
「ほな、今すぐ行こか。南街へ」
「えっ、今から!?」
「言うたやろ。俺は明日もここで仕事なんよ。忙しいんや」
獅子は席を立ち、迷いのない足取りで店を出た。缶は慌ててその広い背中を追いかけた。
・・・
・・・
・・・
「じゃじゃーん!」
獅子は街灯の光を鋭く反射させる漆黒のマシンを前に、大袈裟に両腕を広げた。
「これ俺の愛車、ドゥカティのパニガーレV2。かっこええやろ? 排気量は955cc、最高出力155馬力やで」
バイクの知識が皆無な缶にとって、その数字が何を意味するのかは全く理解できなかった。しかし勢いに任せて自慢げに語る獅子の熱量を削ぐのも無粋に思え「へー」と適当な相槌を打つ。
「それに二人も乗れるの?」
「カウルの一部をピリオンシートに付け替えたら一応乗れるで。けど、スポーツバイクやから乗り心地は最悪や。シートも狭いし、ちゃんと掴まっとらんと加速で振り落とされて大怪我するからな」
獅子の無自覚な脅しに缶は顔を顰めた。だが、あの不気味な教団から逃げられるのなら、走るバイクにしがみつくくらい造作もない。
獅子は手際よくタンデム用のセッティングを済ませると、予備のジャケットとヘルメットを抱えて戻ってきた。
「ほら、これ着とき。本当はもっとプロテクター入った格好させたいんやけど……まぁ今回はええわ」
獅子は慣れた手つきでグローブを嵌め、自身のジャケットのジッパーを上げる。缶もそれに倣ってジャケットに袖を通した。
「次はヘルメットやな。前に使っとったやつやけど、まだ現役やから。……ほら、じっとしとき」
俯き加減だった缶の顎を、獅子は自然な動作でクイっと持ち上げた。至近距離で視線を合わせながら、丁寧にフルフェイスを被せていく。
「痛ないか?」
「んぅ……」
初めて体験するヘルメットの窮屈さに、缶は呻き声のような返事をした。そのどこか幼い反応に獅子は鼻で笑う。顎紐を締め、内側に髪が挟まっていないかを確認して準備は完了した。
「よし」
短く言って、獅子はパニガーレに跨った。しかしバイクに触れたことさえない缶は、どうやってその背後に収まればいいのか分からず立ち往生している。
「えっと、これどうやって乗るの? てか私、乗れるかな。座る位置が腰より高いんだけど」
「俺の肩掴め。左足のステップに体重乗せて、そのまま一気に跨がれ」
「えぇ……」
逡巡したのち、缶は意を決して獅子の肩に指先を食い込ませた。不安定な足場に戸惑いながらも、その長い脚を大きく振り上げる。
「わっ」
「ナイス。ほな、そのまま前ならえや」
「何?」
意図が分からず、缶はとりあえず獅子の背中に当たらないよう腕を前に突き出した。獅子はその細い腕を取り、自分の腰を抱きかかえる形に固定させる。
「思ったよりスピード出るで。振り落とされんように、しっかり掴まっとれよ」
獅子が低く身を構えると、背中に少女の柔らかな重みが密着した。缶が恐怖で強張っているのを感じながら、右親指でスターターボタンを押し込む。
瞬間、ドォンッ! と腹の底を直接揺さぶるような重低音が爆発し、955ccのLツインエンジンが咆哮を上げた。缶はその爆圧にびくりと体を震わせ、獅子の腰に回した腕により一層の力を込めた。
「いくで」
獅子がギアをローに叩き込み、クラッチを慎重に繋ぐ。直後、凄まじい蹴り出しと共に世界が歪み、景色が後方へと弾け飛んだ。
「ひっ……!」
缶の小さな悲鳴は猛々しい排気音とヘルメットの遮音壁にかき消される。内臓を置いていかれるような強烈な加速に、彼女は振り落とされまいと必死で獅子の腰にしがみついた。
「あははっ! 大丈夫かぁ?」
爆音の隙間から降ってきた獅子の余裕たっぷりな声に、缶は精一杯の声を張り上げる。
「速すぎっ……!」
「でも気持ちええやろ? ちょっとだけでええから、横見てみ」
促されるまま、缶は恐る恐る顔を横へと向けた。そびえ立つビル群、行き交う人々、ネオンライトの毒々しいピンクやブルー。それらすべてが光の帯となって後ろへ流れ、全身を叩く風がいつしか心地よいものへと変わっていく。
「ど? ええやろ。見惚れるんはええけど、腕の力だけは緩めんなよ」
「……うん」
獅子の操るパニガーレは澱みなく車列の隙間を縫い、奇跡的に続く青信号の波を滑走していく。缶は獅子の背中から伝わる確かな体温を感じながら、消えていく見知らぬ景色を静かに見つめていた。
「獅子さん……」
赤信号に捕まり、一時的にエンジンがアイドリングの鼓動に落ち着いたところで、缶が小さく口を開いた。
「ん、どしたん」
「ありがとう。巻き込んじゃったのに、色々してくれて。……私、本当はすごく怖かったの。このまま殺されるのかなって。全部、終わっちゃうのかなって思ってたから……」
「そっか。……はい、進むでー」
再びスロットルを開けてしばらく走った頃、獅子は最近給油していなかったことを思い出しインジケーターに目をやった。デジタルメーターの燃料残量は心もとなく、目的地まで走り切るには心許ない。二人は通り沿いのガソリンスタンドへ寄り、給油ついでに休憩することにした。
「お尻いたぁい……」
ステップから足を降ろした途端、缶はヘルメットを脱ぎ捨てて地面にへたり込んだ。
「南街まではまだ距離あるんやから、頑張ってもらわんと困るよお嬢さん」
獅子はノズルを給油口に差し込みながら、子供をあやすような、どこか柔らかな声で言った。
「……ちょっとトイレ行ってくる」
「んー、行ってき」
・・・
・・・
油断していた。
掃除が行き届いているとは言い難いトイレから一歩踏み出した瞬間、待ち構えていた影が缶を襲った。抵抗しようにも相手は屈強な男たちの集団だ。さらに、火を吹かせないよう、猿轡を嵌めるかのように口元を強引に押さえつけられる。獅子に気づいてほしい、助けてほしい。必死に喉の奥で声を上げ、身をよじって抵抗したが多勢に無勢だった。
教団の車へ力任せに押し込まれる間際、缶の視界に信じられない光景が飛び込んできた。
給油機の傍らで、獅子が地面に組み伏せられていた。背後から突き立てられた刃物が鈍い光を放ち、彼の側頭部は無慈悲に踏みつけられている。アスファルトの上には、獅子のものと思われる鮮血が点々と不吉な模様を描いていた。
それを見た瞬間、彼を巻き込んでしまったという激しい後悔が缶の全身から力を奪った。
「命が惜しければ、大人しくしていろ」
頭を抉るように踏みつけながら、一人の男が獅子に低く吐き捨てる。喉元にまで刃が迫り、いつ命を刈り取られてもおかしくない絶体絶命の状況。獅子は歯を食いしばって耐えることしかできず、ただ缶を閉じ込めた車のドアが閉まる無機質な音を耳にするしかなかった。
「そうだ、それでいい」
踏みつけていた重みが不意に離れ、教徒たちを乗せた車は急加速してネオンの濁流へと消えていく。獅子は眩暈でぐらつく頭を押さえながら、ゆっくりと、這いずるように立ち上がった。ふらつきながらも、視線を去りゆく車のナンバープレートに固定する。尾灯が闇に溶け、姿が見えなくなってからもなお、彼はその場所を凍りつくような冷徹な眼差しで睨み続けていた。
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
20██/██/██
「まま、私あれ着たい!」
幼い日の缶が指差したのは、ショーケースの中で街灯を浴びて輝く純白のウェディングドレスだった。左手を繋いでいた母親は、娘の無邪気な言葉に目を細め優しく微笑む。
「ショウちゃんにはまだ少し早いかな。あれはね、大好きな人と結婚する時にだけ着られる特別な服なんだよ」
「じゃあ私結婚する! あれ着たいもん!」
結婚という言葉の意味さえ知らない缶は、ただドレスへの憧れだけでそう言い放った。母親はそんな愛娘の背伸びした発言を慈しむように見つめる。
「どうしても着たいなら、お母さんがショウちゃんのためにお願いしてあげようか?」
「お願い? 誰に?」
「神様にだよ。ショウちゃんがいつか、世界で一番素敵な人のお嫁さんになれますようにって」
「私も、私もお願いする!」
月が穏やかに微笑む夜空を見上げて、小さな缶は懸命に祈った。大人になったら素敵な人のお嫁さんになって、あの綺麗なドレスを着られますようにと……。
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
壁も床も天井も、逃げ場のない白に塗り潰された空間。缶はその中心に、まるで標本のように閉じ込められていた。無機質な扉の向こうからは、女たちの重なり合う歌声が湿り気を帯びて響いてくる。
Velo Blancoの教義において、これは浄化の儀式と呼ばれていた。冷たい椅子に縛り付けられるように座り、終わりなき賛美歌を脳内に流し込まれながら、缶はただ音もなく涙を流していた。
“ 神の花嫁 ” になるということ。それは自らの意志を殺し、ただの器として一生を地下施設で過ごすことなのか。あるいはもっと直接的な死を意味する生贄なのか。正体の見えない恐怖が、首を絞めるように思考を侵食していく。
幼い頃、月明かりの下で願った「いつか素敵な人のお嫁さんに」という純粋な夢。その欠片さえ、このおぞましい合唱が踏みつぶしていく。自分たちの信仰を満たすためだけに少女を追い詰め、それを救済だと謳う狂信者たちの声が、吐き気がするほど忌々しかった。
次第に扉の隙間から乳白色の煙が入り込み、部屋をさらに白く染め上げる。意識を朦朧とさせる薬物か、あるいは香か。
獅子さん、助けて。まま、どこにいるの?
結婚なんてしたくない。神様なんてもういらない。
意識が混濁していく中で、缶はただ心の中で叫び続けた。獅子の頭を踏みつけていたあの冷たい靴の音、アスファルトに散った赤い血の跡が、白一色の視界に鮮烈にフラッシュバックする。 私のせいで、彼を傷つけてしまった。
ごめんなさい。でも死にたくない。
助けて。
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
2059/02/14
純白と呼ぶに相応しい、柔らかな布が肌を優しく撫でる。それはかつて幼い少女が憧れ、夢にまで見たウェディングドレスそのものだった。目の前には、広いテーブルを埋め尽くすほどの豪華な料理が並んでいる。香ばしいステーキにチキン、彩り豊かなスープやサラダ。それはまさに最後の晩餐と呼ぶに相応しい贅を尽くした宴だった。
しかしドレスに袖を通した缶は、それを感情の失せた冷めた目で見つめることしかできなかった。
「花嫁様、一口だけでもよろしいのです。どうぞ召し上がってください」
「こちらのスープはいかがですか? まだ温かいですよ」
両隣に控える女たちが、うわべだけの慈しみを込めた声で食事を勧めてくる。食欲など微塵もなかった。それに、何が混入されているかも分からない不気味な供物を口にするほど、缶の判断力は鈍っていない。それが、かえって彼女の絶望を色濃くさせていた。
並べられた高級料理を眺めていると、ふと昨夜食べたあのマルゲリータの味が脳裏をよぎった。最期に食べるならあのピザがいい。獅子さんと一緒に、笑いながら食べたかった。そんな叶わぬ願いが胸を締め付ける。
「……では、せめてワインはいかがでしょうか」
女の提案に、缶の眉がわずかに動いた。花嫁が反応を示したことが嬉しいのか、女の声が弾んだように高くなる。
「こちらは最高級のヴィンテージ。花嫁様のために特別にご用意した、聖なる酒でございます」
アルコールを流し込んで、いっそ思考ごと溶かしてしまえば、この吐き気のするような恐怖から逃げ出せるのではないか。缶はそう考えた。差し出されたグラス。注がれた赤ワインは、昨夜のアスファルトに散った鮮血と同じ色をしていた。
缶は恐る恐る、その縁に唇を寄せる。初めて体験するアルコールの刺激に、思わず顔を顰めた。だがこの苦みが自分をこの地獄から解放してくれる唯一の手段だと信じ、彼女は一気にそれを煽った。
最後の晩餐が終わると、缶は女たちの手によってされるがままに化粧を施され、髪をセットされていた。視界がぐらぐらと揺れる。最初は酒に酔ったせいだと思っていたが、どうやら勝手が違う。倦怠感があるわけではないのに、指一本動かすことさえ酷く億劫で、肉体は浮遊しているように軽いのに、思考だけが鉛のように重い。きっとあのワインに何か入れられていたのだろう。いや、おそらくワインだけではない。あの並べられたチキンにも、温かかったスープにも、逃れられないための毒が仕込まれていたに違いない。
装飾が終わり、女たちが純白の大きなベールを運んできた。それを頭から被せられると、せっかく磨き上げられた顔も結い上げた髪も、すべてが白い膜の向こう側へと消えた。缶という個性を塗り潰し、ただの神の所有物へと変えるための重いベール。幼い日の私が今のこの姿を見たらどう思うだろう。憧れを抱いて目を輝かせるだろうか。それとも、変わり果てた姿に「あなたは誰?」と問いかけるのだろうか。
「花嫁様。こちらを」
恭しく差し出されたのは一束の花束だった。清廉な白い百合に、鮮やかなオレンジのカーネーション。震える指で花びらに触れると、造花の硬質さとは違う、生きた花特有の瑞々しさが指先に伝わった。きっとこの日のためだけに、多額の金を投じて用意されたものなのだろう。
抱えられた花束からは、胃の底がせり上がるほど、吐き気がするほどに甘く優しい香りが漂っていた。
・・・
・・・
・・・
女たちに曳かれ、缶はチャペルの重厚な扉の前で足を止める。
「花嫁様、ここから先は私たちが同行することは叶いません」
「どうか、神との素敵なひと時をお楽しみください。私たちは花嫁様の永遠の幸福を願っております」
何が素敵なひと時だ。何が幸福だ。この儀式のどこにも私の意志など存在しない。だが、もはや薬物で自由を奪われた身体で抵抗しても無意味であることは、残酷なほどに理解していた。
缶が諦めを含んだ深呼吸をひとつ落とすと、目の前の大扉が重低音を立ててゆっくりと開かれた。視界に飛び込んできたのは、高く聳える天井と、ステンドグラスから差し込む冷ややかな月光。そして、整然と並ぶ長椅子には白いローブに身を包み、血のような赤いロザリオを下げた男たちが、恍惚とした表情で祝いの拍手を捧げていた。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます。聖なる花嫁様」
降り注ぐ拍手の雨。狂信に満ちた祝辞の嵐。その中を、花嫁は一歩、また一歩と、死出の旅路を行くような足取りで進んでいく。バージンロードに敷かれた白布をドレスの裾が静かに撫でる。一歩進むたびにベールが儚く揺れ動き、その神秘的な光景に教徒たちは溜息を漏らし、瞳に熱を帯びさせた。
花嫁は震える足で祭壇へと続く階段を見上げた。そこには純白の仮面を被った教祖らしき男が、両腕を広げて待ち構えている。百合の香りに混じって、焦げた蝋燭の匂いが鼻を突く。
一歩進むごとに、あの騒がしいネオンの喧騒が遠ざかり、代わりにどこまでも冷たく静かな死の色が彼女を包み込んでいく。
ついに、缶はバージンロードの終着点、祭壇の最上段へと辿り着いた。教祖がその冷たい手で彼女のベールに触れようとした、その時。静寂を、そして神聖な賛美歌の余韻を、乱暴に扉を叩く音が無慈悲に切り裂いた。
「Mサイズのミートドミナのお届けでーす。配達先、ここで合っとる?」
あまりに場違いな声。困惑と怒りに染まった教徒たちが、儀式を阻む闖入者を排除せんと一斉に振り返る。
「ピザなど頼んでいない! 儀式の邪魔をするな、不浄の者が!」
「あれ……おかしいなぁ。確かに配達先はここなんやけど……」
教徒が扉の前に立つ同胞に追い出すよう命じようとした、その時だ。命令を受けるはずの教徒たちが、すでに全員物言わぬ骸のように転がっていることに気づいた。しかし、その戦慄が脳に届くより早く、配達員は手にしたアツアツのピザを一番近くの教徒へ向けて豪快に放り投げた。
「ぎゃあああっ!?」
顔面からピザを浴びた男が、溶けたチーズとソースの熱さに悶え、無様にのたうち回る。その隙を見逃すほど獅子煉瓦は甘くなかった。彼は腰のベルトからレザーカバーを被せたままの重厚なナタを引き抜くと、ピザ塗れの男の顎を正確に打ち抜いた。鈍い衝撃音とともに、男の平衡感覚は完全に崩壊し地面に崩れ落ちる。
「花嫁は俺が貰う。そいつには色々迷惑かけられとるしな。この街のマナーや、迷惑料きっちり回収するまで帰らんで」
獅子は乱雑ながらも確実に急所を狙い、ナタを振るって教徒たちをなぎ倒していく。その怒号と、何より懐かしい声を聞いた瞬間、缶の瞳に正気が戻った。彼女は忌々しい花束を投げ捨て、迷わず祭壇の階段を駆け降りた。
「花嫁様っ、お待ちを!」
教祖が焦燥に駆られた手で缶の細い手首を掴み取る。缶は顔を覆っていたベールを荒々しく剥ぎ取ると、自分を縛り付けていた男の顔面へ、至近距離から猛烈な火炎を放射した。
もう神の花嫁になんてならなくていい。生贄になんてされなくていい。
あの男が、獅子が、地獄の淵から私を連れ戻しに来てくれた。
「獅子さん!」
その名を叫び、彼女は獅子の姿を花嫁から隠す教徒に火を放ちながら、弾かれたように彼の胸へと飛び込んだ。
「怖かったよお……っ! 私、本当に殺されるかと思ったんだからぁ!」
「うわ、っと……! びっくりした。分かったから泣くなって。せっかく可愛い顔しとるのに台無しやろ」
胸元にぐりぐりと顔を埋める缶を片腕でしっかりと支え、獅子は燃え盛る教徒を背に駆け出した。男たちの叫び声を置き去りにして、表に放置していた車両へと辿り着く。
「……これに乗ってきたの? あのかっこいいバイクは?」
目の前の乗り物を見て、缶は涙も引っ込むほどに驚愕した。そこに停まっていたのは昨日見た漆黒のドゥカティではなく、実用性の塊のような三輪のピザ配達用バイクだったからだ。後ろの大きなデリバリーボックスにはあのシュールなロゴの馬が、またしても能天気にピザを頬張っている。
「俺の愛車、君が攫われた時にあいつらに傷入れられてな。今ショップで治療中や。狭いしサツに見つかったら即アウトやけど……贅沢言うとる場合やない。これで逃げるぞ」
配達員一人とピザを運ぶためだけに設計されたバイクに無理やり二人で跨がる。パニガーレのような咆哮こそないが、実直なエンジン音を響かせて二人はネオンの街を疾走した。
追手の気配が完全に消えるまで走り続け、ようやく人里離れた場所で二人はバイクを止めた。
「はぁ、疲れた。……大丈夫か?」
ピザバイクのサドルに力なく座り込む缶に、獅子は気遣わしげな声をかけた。
「もう、あいつら追ってこないよね? 大丈夫、なんだよね……?」
今にも零れ落ちそうな涙を溜めた瞳で缶が問いかける。獅子はまだ大人になったばかりの少女が膝の上で固く握りしめていた手に、そっと自分の掌を重ねた。触れた彼女の手は驚くほど小さく、そして震えていた。
「追って来たらまた助けたる。せやからもう泣くなよ。……俺、女慰めるの致命的に下手なんよ」
握りしめられた拳を解きほぐすように、その手を包み込む。伝わってくる体温とぶっきらぼうな優しさに、缶は強張っていた心を溶かし、獅子の手をぎゅっと握り返した。
「私ね……獅子さんに謝らないといけないことがあるんだ」
「ん、何?」
「実はね。あの日、ホテルに行った日……私たち、何もしてないんだよ」
予想の斜め上を行く告白に、獅子は思わず「ん?」と間抜けな声を漏らした。
「酔っ払った獅子さんが路地で吐いてて、あまりにも苦しそうだったから休める場所を探したの。それで、たまたま見つけたラブホに入っただけ。受付のやり方はよく分かんなかったけど、獅子さんがフラフラしながら済ませてくれて……部屋では普通にお風呂に入って、そのまま寝たの」
「えーっと……つまり缶は、その……まだ “ 純粋無垢な女の子 “ のままってわけか?」
「そう」
彼女の短い答えを聞いた瞬間、獅子は安堵と呆れが混濁した深い溜息を吐き出した。
「何やってんだよ俺……。記憶なくしとるくせに勝手に勘違いして、めっちゃアホやん。……あーでも、缶が傷ついとらんなら良かったわ。うん、良かった良かった。……はぁ」
頭を抱えて項垂れる目の前の男に、缶はもう一つ、心に決めていた言葉を投げかけた。
「ねぇ、獅子さん。私と結婚してくれない?」
「はぁ!?」
思わず夜の静寂を切り裂くような大声を出してしまい、獅子は慌てて自分の口を押さえた。
「ごめん……ちょっと情緒が追いつかん。結婚? 本気で言っとるん?」
「だって私を助けてくれるんでしょ? ならずっと一緒にいてよ。また誘拐されたらどうするの? 今度は本当に殺されるかもしれないよ?」
獅子が絶句して目を泳がせていると、缶はその顔にぐっと自分の顔を近づけ、逃がさないと言わんばかりに畳みかけた。
「私、もう帰る場所がないの。これ嘘とかじゃなくて本当に……。結婚じゃなくてもいいから、一緒にいてよ。もう一人になるのは、怖いよ」
縋るような切実な響きに、獅子は三度目の溜息を吐いた。今度は観念したような溜息だった。
「分かった、分かったよ……。毒食らわば皿まで、やろ。腹括るわ。でも俺の家めっちゃ狭いぞ?」
「毒だなんて酷い! ……部屋が狭いのは全然いいよ。じゃあ、ずっと一緒にいてくれるってことでいいの?」
「ええよ。その代わりニートは許さんからな。ちゃんと働いてもらうで」
「んふふ。分かった」
缶は抑えきれない喜びをぶつけるように、獅子の胸にもう一度飛び込んだ。そして、今度は幸せそうに、悪戯っぽく微笑む。
「ありがとう、獅子さん。大好き」