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「キノコのカニたちは、自らの作り出す胞子を使い、個体の数を増やしている。しかし胞子は繁殖に使うだけが全てじゃない。様々なことに使われるんだよ。例えば――」
バッと全身を開いたウィルは、全てを振り乱し回転すると、滞留する穴底の空気に被せるよう、身体中から怪しげな煙状の霧を散布した。
指示されるまま顔周辺に結界を張り準備していたエミーネは、漂い始めた薄ら白い煙に眉をひそめながら「なんなのこれ」と呟いた。
「あの日の僕は、どこかで彼らのことを《たかがカニ》と思っていた。しかし彼らから逃げ惑ううちに気付かされたのさ。彼らは始めから、執拗に、周到に、僕を追い込んでいたのさ。広大なダンジョンを逃げ回っていた僕は、ずっと彼らから逃げていると思っていた。しかし実際は違っていた。気付かぬうちに僕は、追い詰められていたのさ。知能が低く、群れなければ何もできないと馬鹿にされているキノコのカニにね」
霧のように広がった怪しい煙は、穴底全体を覆い隠し、見通しの悪い白んだ空間へと変えていく。
しかし嗅覚が発達したベアーに目くらましは無意味で、ウィルの場所が手に取るようにわかるのか、攻撃精度が落ちることはなかった。
「確かに単体の能力はとても低いよ。数値にすればGランクに毛が生えた程度のものさ。しかし彼らが徒党を組み、知恵を出し合ったならどうだろうか。策を練り、知略を出し合い、念には念を入れ、用意周到に敵を迎え撃ったなら。そう、あの時の僕らがしたように――」
いつかの攻防を思い出しながら霧を濃くしたウィルは、攻撃を受けないことだけに集中し逃げ回った。いつしか相手の姿かたちすら見えなくなるほど霧が濃くなり、ウィルの姿は完全に霧に紛れた。
「まずは視覚を奪うこと。霧で視覚を失い方向感覚が狂った相手は、視覚を捨て、別の力に頼り始める。これがまず、最初の一歩」
嗅覚だけを頼りに突っ込んでくるベアーの動きは単調になり、凝視を使えるウィルの優位さが場を制し始める。
ベアーは執拗に匂いだけを頼り爪や鼻先をかち上げてみるが、ウィルは容易く攻撃を避け続けた。
「そして二つ目。キミが無防備に吸い込んだ白く薄い胞子の粒は、次第に相手の肺に入り込み、奥深く吸着される。そして全身に回った胞子の毒により、キミの頭は少しずつ迷い始めるのさ。もちろん、効力はほんの僅かだけれど、確実にキミの平衡感覚を奪っていく」
ウィルの言葉を肯定するように、初めてベアーの攻撃が斜めに逸れ、バランスを崩し、そのまま壁に激突した。どこか覚束ない足元を隠しながら、ベアーはさらに無闇に鋭い爪を振るった。
「そして最後。キミが吸い込んだ小さな胞子たちは、いわば僕の分身。……その意味がわかるかい?」
高い壁の縁にしがみついたウィルは、いよいよよろめき平衡感覚を失ったベアーを眼下に置き、ちょいちょいと合図を出した。
指示をされるまま、耳打ちのとおりエミーネがウィルの足元に氷の足場を作り出した。
ウィルはそこに飛び乗ると、ベアーの真上を陣取った。
「僕がいるのはここだけじゃない。放たれた胞子の数だけ無数に存在しているのさ。ここにも、そこにも、そして、キミの中にも――」
パチンと指を鳴らしたウィルは、氷に手を付き魔力を込めた。
そしていつかのように見えない力でベアーの脳を掴み、手のひらで潰すように覆い尽くした。
「敵は倒すだけが全てじゃない。相手が同じ思考を持つ仲間ならば、そこにもう争いは生じない」
離間でベアーの脳を握ることに成功したウィルは、暴れて抵抗するモンスターの身体を内部から抉っていく。
直接頭を握られるような感覚に陥ったベアーは、その場でのたうち回り、手につく全てを破壊した。
「何が起きてるの。何もしていないのに、ベアーが苦しんでる……?」
しかしベアーだけでなく、ウィルも額から多量の汗を流していた。
強く目を瞑り、ベッタリと手のひらを氷の足場につけたまま、真下で蠢く猛獣を屈服させるべく、必死に足掻いていた。
「この単細胞め。キミの頭の中は、このダンジョンを牛耳ることしかないのかい。だけどその分、目的に対する執着が強くて、なかなか離間で意識を剥がせない!」
経験を糧に内部からベアー攻略を目論むも、相手も簡単に屈服してはくれなかった。
それどころか、時間をかければかけるほど、次第に抵抗する圧力が高まり、スキルを使っているウィルのスタミナが消耗し続けていた。
残り僅かの欠片を切り離そうと足掻くも、ついにベアーはウィルの見えない手を振り解いた。
全身を回転させ七転八倒したベアーは、穴底の壁へと派手に突っ込み動きを止めた。
「まさか離間を弾くなんて……。やっぱり人とモンスターじゃ頭のデキが全然違うってことなのかな」
ベアーが暴れて新たな横穴が開いたことで、周囲を覆っていた胞子の霧が急速に吸い込まれ薄れていく。踏んだり蹴ったりだねと苦笑したウィルは、鼻息荒く半狂乱状態で忙しなく前足を動かすベアーの正面で額を掻いた。
直接的な攻撃は一切無効。内部破壊も不発となれば、もはや打つ手がなかった。
新たに試すスキルや魔法が尽きてしまえば、圧倒的体力で勝るベアーに勝ち目はない。
しかもベアーは逆上し興奮状態マックス。もし不用意に攻撃を受けようものなら、まず致命傷は避けられない。
「困ったね。しかも彼は手を出したらどこまでも追っかけてくるんだっけ?」
煮えたぎるような鼻息をプゥと吐き、ベアーが再び突進を開始した。
スピードはこれまでの比ではなく、本気を出した全力の姿がそこにあった。
氷の足場が消え、逃げ場のない二人は、どうにか逃げ道を模索した。
もしそんな場所があるとしたら上しかないと、エミーネはウーゲルの入った荷物を拾い、壁伝い、階段状に氷の足場を作り上げていく。
「ウィル上よ、早く!」
「ダメだよ、エミーネ。キミだけが逃げるんだ。僕はどうにかアイツを足止めしてみせる」
「そんなの無理よ、今は逃げるしか!」
「いいから急いで。あのスピードだ、二人で逃げてもすぐに捕まってしまうよ。それなら、キミだけでもウーゲルを連れて逃げるんだ。そしてどうにか強い冒険者を集め、アイツを倒す術を考えてほしい」
「ウィ、ウィルは……、ウィルはどうするつもりなのよ?!」
「僕のことはいい。だから早く」
「でも――」
『いいから早くッ!』
背中を押されたエミーネは、グッと瞳を閉じてから、意を決して走り出した。
「すぐに仲間を呼んでくる。それまで絶対死なないで。絶対に死んじゃダメなんだからね!」
氷の足場を駆けていくエミーネの姿を見上げ、ベアーがそうはさせじと大口を開けた。
その隙をみてベアーの腹下へ潜り込んだウィルは、思い切り拳を固め、脇腹に攻撃を叩き込んだ。しかし分厚い筋肉に護られたベアーの身体は硬く、目標を変えたベアーの一撃がウィルの肩口を襲った。
「んんいぃい、しゅ、集中すれば、お前の攻撃ぐらい耐えられるんだからな。舐めるなよ、趣味悪い色しやがって!」
吹き飛ばされながら攻撃に耐えたウィルは、空中で激しく回転しながら体勢を整え、壁を蹴り、再び勢いよく飛び上がった。
ベアーがいる穴底を離れ、数秒前にエミーネが駆けていった氷の階段に着地したウィルは、不敵に笑みを浮かべた。
そして走り去るエミーネの背中を見つめ、声にならない声で「頼んだよ」と呟きながら、唯一の逃げ道である氷の足場を破壊した。
これでたとえウィルがやられても、エミーネが逃亡する時間を稼ぐことができる。
ふわりと地面に降りたウィルは、また怪しげなカニのポーズをとってから、冷や汗混じりのどっちつかずな表情で、いつもの軽口を叩くのだった。
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