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それからしばらくして、AMAGIは大きなコンペティションに参加することになった。
有名な外資系企業のキュリアス ジャパンが、都内に自社ビルを構えるに当たり、そのビルのセキュリティシステムを任せる会社を選ぶというものだ。
セキュリティだけでなく、PCやタブレットなどのデバイスに、各種設定やソフトウェアのインストールを行うキッティング、クローニングも任せてもらえるとあって、AMAGIは総力を挙げて取り組むことになった。
「AMAGIは国内でこそ業界トップと言われているが、海外での認知度はまだまだ低い。なんとしてもこのコンペを勝ち取り、世界への大きな一歩を踏み出したい。皆で力を合わせ、全力で挑もう!」
「はい!」
副社長の文哉の言葉に、会議室に集まったシステムエンジニアやプログラマー達が声を揃えて頷く。
そこからは怒涛の日々だった。
朝から晩まで、ひっきりなしに副社長室の電話が鳴り、会議も長時間行われる。
今が一体何時なのか、今日は一体何曜日なのかも分からなくなるほど、真里亜も文哉のサポートに追われていた。
「この資料、項目別にまとめておいてくれ。それから、すぐにミーティングを始める。集められるメンバーは全員会議室に呼んでくれ」
「かしこまりました」
手が10本は欲しいと思いながら、真里亜は受話器を肩と頬で挟みながら内線をかけ、同時にパソコンで会議室の手配をする。
住谷も、いつもの軽い口調は封印して、テキパキと真里亜を手伝ってくれていた。
コンペまではあと1ヶ月。
皆、ふらふらになりながらも休日返上でがんばっている。
真里亜も、出来ることは何でもやる!と、必死で毎日を過ごしていた。
「おい、もう22時だ。上がれ」
資料を見ながらカタカタとパソコン作業をしている真里亜に、文哉がぶっきらぼうに声をかける。
「あ、いえ。まだ途中なので…」
「夕べもそう言って遅くなった。今日はもう上がれ」
でも…と真里亜がためらうと、副社長命令だ、と冷たく言い放たれる。
仕方なく真里亜は片付けをして立ち上がる。
「それでは、お先に失礼させていただきます」
「ああ、お疲れ様」
パタンと真里亜がドアを閉めると、部屋が一気に静まり返った。
(はあ…。なんだか静かすぎて落ち着かないな)
いつの間にか、真里亜と一緒に仕事をするのに慣れてしまっていた。
静けさの中、一人でいると心許なくなる。
(いやいや、そんなことを考えてる場合か?この1ヶ月は勝負の月だ)
己に気合いを入れ直し、またパソコンを操作し始めた時だった。
(ん?なんだ?)
急に見慣れない画面が立ち上がり、文哉は首をひねる。
が、すぐにハッとして急いでキーボードに両手を走らせた。
(くそっ!ハッカーか)
誰かがハッキングしようとしているのを察知し、文哉は必死でブロックをかける。
何度も立ち上がるWARNINGの文字と格闘し、ようやく落ち着くと、ふうと息を吐いた。
(一体誰だ?コンペ前の大事な時期にハッキングなんて…)
そして、ふと嫌な気持ちが蘇った。
(コンペのライバル企業?まさか、産業スパイ…)
頭の中に浮かんだ真里亜の顔を、文哉は大きく首を振って打ち消そうとした。
「おはようございます」
「おはよう」
翌朝、いつものように出勤してきた真里亜の様子を、文哉はそっとうかがった。
(普段と何も変わらないな。やっぱり彼女がそんなことをする訳がない)
そう思いつつ、でも…という思いが頭をかすめる。
(見かけによらず、本当に優秀なスパイだとしたら?いや、それならとっくに情報を掴んで姿を消してるか。夕べのハッキングにしても、俺の留守中にパソコンをいじる方が早いし…)
「副社長?」
急に声をかけられ、顔を上げると目の前に真里亜が立っていた。
「うわ!え、なんだ?」
「あの、コーヒーをお持ちしました」
「え?ああ、ありがとう」
置いてくれたコーヒーをひと口飲み、ホッと息をついていると、真里亜が控えめに口を開く。
「あの、副社長。顔色も悪くてお疲れのようです。少し隣のお部屋で休まれてはいかがですか?」
「いや、大丈夫だ」
「ですが、1時間だけでも…」
「大丈夫だと言っただろう!気にするな」
突っぱねるように冷たく言うと、真里亜はうつむいて自分の席に戻る。
そして、少し席を外しますと言って部屋を出て行った。
(もしかして、また傷つけたかな…)
強い口調で拒絶してしまったことを後悔していると、5分程で真里亜が戻って来た。
「副社長。せめてこちらを召し上がってください」
え?と文哉が驚いて顔を上げると、真里亜はデスクにレタスサンドイッチと野菜ジュースを置いた。
「片手でも食べられますから。パソコン作業のついでにどうぞ」
「あ、ありがとう」
面食らいながら、文哉は真里亜が封を開けてくれたサンドイッチとジュースを口にする。
(美味しい…)
気づけばあっという間に完食していた。
(ふう、うまかった)
ホッとしてまたコーヒーを飲んでいると、こちらを見て微笑んでいる真里亜と目が合う。
慌てて下を向くが、文哉は妙に顔が熱くなるのを感じていた。
「智史、今話せるか?」
真里亜が昼休憩に入ってから、文哉は住谷に電話をかけた。
「ああ、大丈夫だ。どうかしたのか?」
「うん、その…。彼女のことなんだけど」
「彼女?お前、いつの間に彼女出来たんだ?」
「ちがっ!何言ってんだ?」
「あはは!分かってるよ。真里亜ちゃんのことだろ?」
「ああ」
「それならそうと、真里亜ちゃんって言えばいいのに」
「言えるか!そんな気安く…」
「おおー。お前、マジだな」
「なにがだ!お前なあ、俺が真剣に…」
「はいはい、分かったよ。それで?真里亜ちゃんがどうかしたのか?」
うん…と、文哉は声を潜める。
「智史。やっぱり彼女はスパイなのかな?」
「…なんでそう思うんだ?」
「それが実は…。夕べ彼女を帰らせたあと、ハッキングされそうになったんだ」
えっ!と住谷が言葉を失う。
「なんとか免れたけど、コンペ前の大事な時期だ。情報を盗まれたり、乗っ取られたりしたら大変なことになる。なあ、智史。やっぱり彼女はうちの情報を狙うスパイなのか?」
「お前はどう思うんだ?」
「俺は…。彼女がそんなことをするとは思えない」
文哉がきっぱり言い切ると、電話の向こうで住谷がふっと笑みをもらすのが分かった。
「文哉、お前が正しい。真里亜ちゃんはスパイなんかじゃないよ。お前のことを必死でサポートしてくれる有能な秘書だ。いや、正確には秘書ではないがな」
どういうことだ?と訝しむ文哉に、住谷は全てを打ち明けた。
文哉が冷血な余り、女性秘書が全員配置換えを申し出たこと、仕方なく人事部の真里亜がその場しのぎに秘書となり、なぜそんなに皆が文哉から逃げ出すのかを探るよう言われたこと、そして後任が決まれば、いずれ真里亜は人事部に戻ることを。
「じ、人事部?彼女は人事部の人間なのか」
「ああ。だから秘書課の名簿に名前がなかったんだ。人事部の名簿を見てみろよ。ちゃんと載ってるよ、阿部 真里亜ちゃん」
「なっ…そ、そんな」
驚き過ぎて言葉が出てこない。
「だからな、文哉。お前の思った通りだよ。真里亜ちゃんはスパイなんかじゃない。信頼出来るお前の大事な片腕だ」
「俺の、片腕…」
文哉はポツリと繰り返す。
「ああ。秘書でもないのに、お前の為に一生懸命がんばってくれてる。大事にしろよ、彼女を。じゃあな」
電話が切れたあとも、文哉はしばらく呆然としたままだった。
(まさか、そんな。人事部から?)
半信半疑のままパソコンのマウスを操作して、人事部の名簿をクリックする。
名前の順の一番上に『阿部 真里亜』とあった。
新卒で入社3年目の24歳。
飾らない真っ直ぐな瞳の顔写真。
文哉は画面を見つめたまま、胸に熱い想いが込み上げて来た。
(逃げ出した秘書の代わりに?秘書課でもなく、人事部にいたのに?秘書の仕事なんてやったこともないはずなのに、あんなにも細やかに俺のサポートを…。俺に無理矢理恋人のフリをさせられたり、冷たくあしらわれたのに、さっきもそんな俺の身体を心配してサンドイッチを…)
「それなのに、俺は彼女をスパイだなんて…」
うつむいて、唇を噛みしめる。
「…すまなかった」
誰もいない部屋でポツリと呟き、文哉はグッと涙を堪えた。
コンペの準備は大詰めを迎えていた。
「この資料に色を加えて見やすくしておいてくれ。あと、図も分かりやすく大きめに」
「かしこまりました」
真里亜は共有フォルダから、文哉がラフに作った資料を開いて、仕上げの作業をしていく。
コンペでは、実際にAMAGIが自社ビルに導入している独自のセキュリティシステムをプレゼンする予定だった。
10年前から導入し、少しずつ改良を加えてきたこのシステムで、これまでトラブルなく社員の安全と会社の機密事項を守ってきた実績を強調する。
ビル内は、たとえ来客者でも受け付けで手続きをして、セキュリティカードを受け取らなければ入れない。
来客者用のセキュリティカードは、社員と落ち合うロビーに入る為だけのものだ。
会議室などへは、社員と一緒でなければ入れないようになっている。
そしてもちろん、社員も全員がIDカードをかざしてセキュリティゲートを通るシステムなのだが、そのカードさえあればどの部屋にも入れる訳ではない。
ビル内は、セキュリティのフェーズによって、主に3つのゾーンに分けられている。
まずはほとんどの社員が働くエリア、ブルーゾーン。
社員の約80%が、このブルーゾーンのみの入出権限を与えられている。
続いては、機密事項を扱うエンジニアやプログラマー、そして役員達のオフィスがあるイエローゾーン。
このエリアは、エレベーターのボタンもIDカードをかざさなければ押す事は出来ない。
フロアのあちこちに防犯カメラも多く設置され、IDカードが使われる度に警備室の端末に名前と顔写真が大きく表示される。
警備員は、その名前と防犯カメラの映像を見ながら、24時間常にモニタリングしている。
更に、エンジニア達が作業する部屋は、顔認証と指紋認証も導入されていた。
そして最も警備が厳重なのが、レッドゾーン。
社長、副社長のいるフロアだった。
ここももちろん顔認証と指紋認証が必要で、社長室は社長と社長秘書、副社長室は文哉と真里亜、住谷がそれぞれ顔と指紋を登録していた。
真里亜はプレゼンで使う資料に、このセキュリティフェーズの仕組みを分かりやすく載せようと試行錯誤していた。
(うーんと、レッドゾーンの権限があるIDカードを説明するとして…。例えば私が出勤しようとすると、まずは社員用のエントランスに入ってセキュリティゲートをカードを使って通過するでしょ?上層階用のエレベーターを呼ぶ時もカードをタッチ。更には行き先階ボタンもカードをタッチしながら。エレベーターを降りて廊下を進んだら、外扉のドアをカードで開ける。最後に副社長室の前で、顔認証と指紋認証をしてロックを解除。ようやくドアが開くってプロセスよね)
つまりカードタッチだけでも4回必要だ。
プルーゾーンの権限しか与えられていないカードでは、上層階用のエレベーターを呼ぶことすら出来ない。
(んー、これをパッと見た目で分かりやすくするには…)
真里亜はイラストやカラーをふんだんに使って、何度も練り直しながら資料を作っていた。
(あとは、万が一社員がIDカードを盗まれたり紛失した場合は…)
これもプレゼンでは重要なポイントになる。
(まず、気づいた時点ですぐに24時間体制の警備室に連絡。と同時に、自分のスマホを使って社員アプリのマイページにアクセス。自分のIDカードを無効化する)
頭の中で整理しながら、真里亜はカタカタとパソコンに入力していく。
(そして無効化されたカードでゲートを通過しようとすると、アラームが鳴り警備員が駆けつける)
実際にそれで、IDカードを盗んだライバル会社の社員が捕まった事もあった。
思いのほか時間がかかったが、なんとか資料は形になり、真里亜は一度文哉に見せてみた。
「このようなイメージでいかがでしょうか?」
文哉はじっとプリントアウトした書類に目を落していたが、やがて大きく頷いて顔を上げた。
「完璧だ。これで頼む」
「はい!ありがとうございます」
真里亜はパッと顔を明るくさせて、嬉しそうに頭を下げた。
いよいよコンペ1週間前となり、社長や役員達の前でプレゼンのリハーサルを行った。
分かりづらい部分や補足説明などのアドバイスを受け、それをまた持ち帰って練り直す。
毎日それを繰り返し、ようやく前日に全員のOKをもらえた。
「みんな今日まで本当によくやってくれた。あとは明日、全てを相手にぶつけるだけだ。俺達の思いをしっかり伝えよう」
「はい!」
文哉の言葉に、コンペに関わった全員が力強く返事をする。
(いよいよ明日…)
真里亜もはやる気持ちを抑えながら、気合いを入れて拳を握りしめた。
そして迎えたプレゼン当日。
真里亜は副社長室で、朝から何度も必要な書類やパソコンの確認をしていた。
プレゼンを頭の中でシミュレーションしながら、使用する書類を順番に確かめていく。
部数やページ数、落丁等がないかも丁寧にページをめくってチェックした。
(あとは予備の資料とタブレットと…。うん、これでオッケー)
「真里亜ちゃん、準備出来た?」
時間になり、住谷が副社長室に顔を出す。
「はい、大丈夫です」
荷物を手に真里亜が頷くと、よし、行こうと文哉が立ち上がった。
車2台に分かれて、エンジニアやプログラマーのリーダー達と先方のオフィスに向かう。
案内された会議室でそれぞれポジションにつき、準備が整うと、文哉はメンバー全員を見渡して大きく頷いてみせた。
「それでは、我々AMAGIコーポレーションが御社に提案させていただきますセキュリティシステム、並びにネットワークサービスについてご紹介いたします」
文哉のよく通る声で、会議室の雰囲気が一気に引き締まる。
真里亜はそんな文哉を見つめながら、プレゼンの進行に全神経を集中させていた。
数日後。
副社長のデスクに置いてあった仕事用のスマートフォンが鳴る。
画面の表示を見た文哉が、一気に緊張したのが分かった。
今日、キュリアス ジャパンからコンペに参加した企業に、連絡が来ることになっていた。
真里亜と住谷は、固唾を呑んで見守る。
「お世話になっております。AMAGIコーポレーションの天城でございます。はい、はい。こちらこそ、先日はお時間を頂きましてありがとうございました」
やはりコンペに関する連絡なのだろう。
(それで、結果は?!)
真里亜は住谷と前のめりになりながら、文哉の次の言葉を待つ。
「…え?はい」
そう言ったきり、しばし文哉は無言になる。
(ひょっとして、だめ…だったの?)
真里亜はもはや祈るように両手を組んで文哉を見つめていた。
と、次の瞬間、見たこともないくらい明るい表情で、文哉が目を輝かせながら真里亜達を振り返った。
「本当ですか?!ありがとうございます!はい、はい。もちろんです。全力でお手伝いさせていただきます。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
わあっ!と、真里亜は住谷と手を取り合い、声にならない喜びを伝える。
「それではまた改めて。はい、失礼いたします」
通話を終えるとひと呼吸置いてから、文哉は、やったぞ!と喜びを爆発させた。
「わー、やりましたね!副社長」
「さすがだな、文哉!」
三人で肩を抱き合い、興奮しながら喜びを分かち合う。
「あー、マジで緊張した。ホッとしたなあ」
「本当に。良かったですねえ」
「いやー、しびれたわ。この達成感!堪らんなあ」
ひとしきり三人で盛り上がり、興奮冷めやらぬまま、まずは社長に報告した。
「本当か?でかした!文哉!」
受話器から社長の大きな声が漏れ聞こえる 。
すぐさまコンペのチームリーダーにも伝え、こちらは、うおー!という皆の雄叫びが真里亜の耳にも飛び込んできた。
興奮、安堵、達成感、そして仲間との絆。
色々な想いが込み上げてきて、真里亜は幸せな気持ちに酔いしれていた。