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「急に呼び出して悪かったな」
ダイニングテーブルに座り、義理母である智花が淹れてくれた紅茶をすすりながら、林は目の前に座る父親を見上げた。
「別にいいけど。緊急の要件って何?」
慌てて来たものの、別に具合が悪そうでもなければ、深刻な事件が起こったような顔もしていない父親を見て、林はひとまず胸をなでおろした。
「いや、その、なんだ―――」
言いながら父親が隣に立つ智花の顔を見る。
(――は?これ。もしかして―――)
「智花が妊娠したんだ」
「――――」
やっぱり。
林は息を飲んだ。
「今、4ヶ月。やっと安定期に入ったところで」
智花が嬉しそうに頬を赤らめる。
そういえば今までいつ何時たりとも、ヒラヒラのスカートしか履いてこなかった智花が、今日は楽で温かそうなイージーパンツを履いている。
(……そういうことか)
「おめでとうございます」
林が二人に向かって頭を下げると、父親は照れくさそうに智花を見上げ、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「それで、だ。相談なんだが」
父親は幾分言いにくそうに言った。
「急なんだが、1ヶ月間、県外の研修出張が入ってな」
「県外で?」
「ああ。都道府県が総力を挙げて高齢者の在宅を支援する活動が広がっていて。青森県でのケースがものすごく勉強になるからと言って、その取り組みや効果を見に行くことになってしまったんだ」
「はあ」
「安定期とは言え、妊婦を一人で家に残していくのは不安だろ?こいつはこっちに知り合いも親戚もいないし」
智花がまだほとんど出てきていないお腹を大切そうに撫でる。
「だから1ヶ月でいいから、お前、この家から通勤してくれないか?」
「は―――?」
林は驚いて智花を見上げた。
冗談じゃない。
妊婦とは言え、人妻とは言え、自分といくつも変わらない若い女と、二人きりで同じ屋根の下、過ごすなんて―――。
しかし父親も智花もそのことについて何の違和感も、危機感も覚えないらしく、二人して並んで頭を下げている。
そこまで、自分という人間を信頼してくれていることに、嬉しく感じないわけでもないが―――。
「頼む。お前が引き受けてくれないと、智花の北海道の実家に戻すしかなくなるんだが。飛行機も船も新幹線でさえ怖いといって聞かないんだ」
林は智花に視線を移した。
(―――まあ、父さんと智花さんがそれでいいって言うなら、いいか。1ヶ月くらい……)
林は一つ息をつくと、二人を交互に見つめてから首を縦に振った。
喜んだ両親が、今夜は特上の寿司をとってくれた。
父親が勧めるままに、珍しくてめったに手に入らないという甘口の日本酒をもらったら、養生の疲れもあってか、たちまち体中に酔いが回った。
話の合間に携帯電話をチェックするが、何の通知もない。
「でも、清司君に断られたらどうしようかと思ったわ」
自分はオレンジジュースを飲みながら、智花が柔らかく微笑む。
「彼女さんにでも反対されたら、しょうがないかなって思ってたの。ね」
言いながら年の離れた夫を見つめる。
「ああ。まさか俺たちのことで、清司の恋路を邪魔したんじゃ元も子もないからな」
言いながら父親も日本酒の入ったグラスを傾ける。
「お前もいくつになった?」
「―――もうすぐ27だけど」
「いい年だな」
父親が笑う。
「いい子はいないのか」
「―――あ、えっと……」
唐突に出てきた質問に、準備をしていなかった答えが浮つく。
「もしいるんだったら、その子も一緒に連れてきてもいいのよ?」
智花が言う。
(―――まさか、ここで紫雨さんの名前を出すわけにはいかないし……)
二人の顔を見上げる。
(ましてや男同士で付き合ってることをカミングアウトさえしていないのに)
父親の顔を見る。
息子のすることに文句を言ったり、制限を設けたりする男ではないが、県庁に勤めるだけあって、根っからの常識人だ。
同性愛者でもないのに、男性と付き合っていることに、手放しで賛成してくれるとは思えない。
しかも今は、紫雨との関係も良好とは言えない。
「―――そういう相手は、いないので大丈夫です」
いいながら、大トロを口の中に入れる。
「かっこいいのに。ねえ?」
智花が夫を見つめ微笑む。
「ハウスメーカー勤務だから給料も悪くないだろうしなあ?」
父親も智花を見つめる。
「―――――」
その、“ハウスメーカー勤務”というところさえ、今やいつまで続くのかも怪しい。
このままだと確実に首を切られる。
しかしそれ以前に、もうあの職場であの職種で、頑張っていける気がしない。
「父さんは―――」
酔いも手伝ってか、林の口からはいつもならできない質問が出てきた。
「仕事は、好き?」
「仕事―――」
父はもう一度グラスを傾け、飲み込むように口をぐっと絞めてから話し出した。
「好き嫌いで考えたことはないな。俺は」
父親はうんと頷くように言った。
「どちらかというと仕事は、家族を守るための手段だったから」
「―――」
林は隣に寄り添うように座る智花と、サイドボードの上に置いてある母の写真を見つめた。
「部局間の異動もあるし、明確なこだわりがあると逆にやりにくかったんじゃないかと思う。しかし私は家族のために働いていたから、どんな部局にいても、その先に、県民の暮らしが、生活が、家族があったから、モチベーションは維持できたかな」
そう言った父親の腕に、智花の細い手が優しく乗る。
「―――なるほど」
林は言いながら自分もグラスに入った酒を口いっぱいに含んで、一気に飲み干した。
「仕事のこと、悩んでいるのか?
父親が微笑みながら、智花がつまみに準備したたたききゅうりとキムチの和え物を口に入れる。
「うん……」
林は俯いた。
「これは俺が大学の恩師から卒業の際に言われた言葉だが」
そう前置きしてから父親が語りだした。
「就職して社会に出ると、夢見ていた職業と違うかもしれない。憧れていた職種と違うかもしれない。思っていた会社と違うかもしれない。それでも―――。3年は我慢して続けてみろ。見えるものもあるかもしれないし、わかることもあるだろうし、自分を変える出会いもあるかもしれない」
林は父親を見上げた。
「もちろん何もなく、失意と絶望の3年間を過ごすことになるかもしれない。しかしこれだけは言える。入社してたった3年も続けられない人間、次の企業は欲しがらないぞ、と」
「――――」
「お前はもう4年間も、この仕事で頑張ったんだ。一度、見つめなおすのにはいい機会かもしれない。職種のこと、会社のこと、自分のこと」
父親は顎をぐっと引いて林を見つめた。
「そこは本当に、お前の生涯身を置くべき居場所か?」
◆◆◆◆◆
軽くシャワーを浴び終わると、林よりもアルコールが弱い父親は、ソファに横になって眠っていた。
その上に毛布を掛けながら智花が、申し訳なさそうに苦笑いをする。
「私は止めたんだけど、清司君の部屋、この人が書斎にしてしまって。実はベッドもないの」
「ああ、いいですよ、別に。好きに使ってもらって」
言うと、
「和室に布団を敷いたから、そこに寝てくれる?」
「はい。妊婦さんにそんなことをさせてしまい、すみません」
林は髪の毛の水滴をタオルで拭きながら言った。
「明日からは自分で敷くので大丈夫です。夕ご飯や朝ごはんも、適当にやるので、智花さんは、ご自身の身体を一番に考え、ゆっくりなさってくださいね。必要な時は買い物でも送り迎えでもやりますので、遠慮なく頼ってください」
「―――ありがとう…」
智花が目を細める。
紫雨に出会う前、
この女性に少しばかり恋心を抱いたことも確かにあった。
白くきめ細かい肌に胸が騒ぎ、胸や臀部の柔らかい曲線に、眠れない夜もあった。
それが今は、何も感じない。
ただただ、新しい命が宿ったことがめでたいのと、自分の弟だか妹だかに、できることはしてあげようと、照れくさいような情を感じるだけだ。
林は智花に就寝の挨拶をすると、1階の和室に入った。
しんと静まり返った和室は、奇しくも書院造のそれだった。
凛とした香りが、心を沈めてくれる。
かつて、紫雨が岩瀬と名乗る男に、暴行を受け、強制的に保護した時に、彼が泊まった部屋だ。
あのときは溢れる感情をうまくコントロールできなかった。
自分がされた仕打ちと、それとは対極にあるような彼の篠崎への純粋すぎる恋心に、納得ができなくて、ただただイラつき、怒りをぶつけるように、恨みを晴らすように、彼を求め傷つけた。
彼を”どうにか手に入れたかった”。
それが、“どんな手を使おうが彼を守りたい”に変わった。
さらに、“できるなら彼に自分を受け入れてもらいたい”に変わり、
今は―――。
”どうしても紫雨に見捨てられたくない”。
“切り捨てられたくない”。
つまらない奴、と。
使えない奴、と。
要らない奴、と。
携帯電話を見る。
通知はない。
「―――」
林は倒れこむように布団に崩れ落ちた。