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陽翔は瞬きした拍子に睫毛にくっついた汗が目に沁みてしまい、散々眉を顰めてそれをハンカチで拭う。歩道のアスファルトからの反射光と、勢いを次第に強めていく直射日光の両方に熱を加えられて、何だかゆで卵になった気分だと呑気なことを考えながら歩いていると取引先の会社のビルの表記が見えてきて、小走りで彼はビルへと駆け込んだ。
(人を殺せそうな暑さだな)
蝉すら弱々しく鳴くに留まる今の状況に、子供の頃はここまで暑さが酷く無かったなとエレベーターの中でしばし懐かしむ。階数を知らせるベルが鳴って物思いから浮上した彼はオフィスのドアをノックしてから入る。こちらに向かって頭を軽く下げた、自分とさほど年齢が変わらなさそうな男性を見て、陽翔は頭の中で首を傾げた。
(確か担当が変わったんだったか? いや、そんなことよりもどこかで見たことあるような……)
後ろ髪を引かれるような感覚を振り払い、陽翔は名乗り、簡単に用件を伝える。そのまま彼にペットボトル入りの水が2つおいてあるテーブルのある面談室まで案内され、陽翔は自分の名刺を胸ポケットから取り出した。
「はじめまして、前任の竹下に代わり担当を務めさせていただきます|深山《みやま》と申します。お暑い中お越し下さりありがとうございます」
陽翔は彼の名刺を受け取る手が震えるのをすんでのところで我慢した。陽翔も彼にならい、簡単に自己紹介を済ませるが、その声に動揺の色が見えないかどうかが気がかりだ。
「こちらこそ、お気遣いありがとうございます。菱川製薬の東雲と申します。本日は宜しくお願い致します」
名刺の交換が終わって座っても、自分の大きくなっていく心臓の音をよそに、深山は爽やかな笑みを浮かべて軽い雑談をしながら資料を目の前に広げる。陽翔は名刺をそれらで覆わないように『深山弘樹』と書いてある名刺の位置を少しだけ動かした。
「本日はありがとうございました。これで新薬も問題なさそうですね」
陽翔にとっては何とも居心地の悪い時間が終わりを告げて、陽翔は頭を下げた。直帰しても良いと会社からは言われていたので、早く百子を迎えに行きたいのである。深山とこれ以上同じ空間にいたくないという思いももちろんあるのだが。今日出会って陽翔は確信した。深山の顔も声も、百子のくれたあのおぞましい浮気現場の映像の男と一致していたのだ。
「こちらこそありがとうございます。あの、東雲さん。よかったらこれから飲みに行きませんか? 近くに美味しいお店があるんです」
陽翔はこめかみをピクリと動かす。取引先なので断りづらいということもあるのだが、百子と過ごす時間が減るのが一番辛い。そして陽翔は深山が百子を手ひどく裏切ったために余計にご一緒したくないのである。しかし何かしら彼から探れる情報もあるだろうと思い、陽翔は断腸の思いで承諾した。家に帰るのが遅くなる連絡をしますと断ってから、陽翔はビルから出て百子に飲み会で迎えに行けない旨を送信する。
「もしかして彼女さんですか?」
爽やかな表情を崩さない深山に、陽翔は思わず困惑した。百子から聞いている彼は控えめに言っても人間の悪い所の寄せ集めのような感じであり、てっきり仕事ができない人間かとばかり思っていたために、今日出会って彼の印象がかなり変わったのだ。だからといって彼の百子にした極悪非道の所業を許す理由にならないが。
「ええ。彼女じゃなくて婚約者ですが」
本当は妻だと言いたかったのだが、まだ指輪もしていないので今回は我慢しておいた。それでも頬がどうしても緩んでしまい、深山はそれを察知したようだ。
「東雲さんは婚約者様が本当にお好きなんですね。そんな優しい顔をなさるとは」
「大学の頃から好きでしたから。偶然出会ってそこから付き合うことになったんですよ」
百子との幾年ぶりに出会った時のことを思い出して、渋面を作りそうになった陽翔だったが、彼が目当ての店を見つけたらしく、陽翔から視線を逸らして声を上げた。深山は割と人の表情を読み取るのに長けていると気づいた陽翔は、彼の前で眉根を寄せないように気をつけているのである。