ーこれは一人の少女の物語ー
『蝉は鳴いていた。』
眠れない。
少女は慎重にベッドから降り、暗闇を進む。
両手を手すりに乗せ、体重を預ける。一歩進んでは手すりに、一歩進んで手すり……という風にして着実に前に行く。
他から見れば、ぎこちなく見えるかもしれない。
だが、昔の彼女を知る者からすればきっと、信じられない光景だろう。まあ、知る者がいればの話ではあるが。
十何分か経って、少女は部屋から十メートルくらい離れた位置にあるトイレに着いた。
そして、少し呼吸を正してから、来た道を同じようにして引き返す。
一歩、二歩、三歩。上手く進む事ができて少女は嬉しく、笑った。
四歩。
その時、膝から力が抜け、脚も腕も、身体の全部が使えなくなって、少女はその場で倒れた。
急な事ではあったが、少女はすぐに起こったことを理解し、そして唇を噛んだ。
それは決して、痛かったからでは無い。
少女はただ悔しいのだ。自分が他者と同じように歩けない事が。
だから、こうやって練習して頑張るのだ。
しばらく天井を眺めていると、タッタッタッと足音が近づいてきた。
「ダメでしょ。部屋から出る時は誰かと一緒じゃないと」
「……はーい」
看護師さんに見つかってしまって、少女は不服そうにそう答える。
「ほら、行くよ」
看護師さんが手を差し伸べ、それを少女は掴み立ち上がる。もう片方の手で手すりを掴んで、少女は歩く。
この時間帯の病院というのはとても静かだ。そのうえとても暗いから、ここに来たばかりの頃は『お化けがでるー』なんて風に叫んで暴れたっけ。懐かしいなあ。
でも、あの日から変わった事はそれくらいだけで、未だまともに歩くこともできない。
それでも、きっと何か変われていると信じて、少女は看護師さんに言った。
「今日はね。途中までは上手に歩けたんだよ」
看護師さんは笑顔で明るく言った。
「……凄いね!! この調子ならきっと治るわよ!」
だが、少女は笑わずに下を向いたままだ。
「うん。そうだね」
少女は詳しい事はわからなくとも、今までの看護師さん達の態度で何となくわかっていた。
私が歩ける日は来ないのだと。
私は生まれつき、身体が弱いらしい。だから、上手に歩けないし、病気になりやすいから外にも行けない。
物心ついた時にはここにいて。
ママとパパと遊んだ記憶もない。
看護師さんが言うには、二人ともお仕事が忙しいらしい。まあ、嘘なのだろうが。
『『『ミンミンミンミンミンミン』』』
『『『『ミンミンミンミンミンミン』』』』
ああ、まただ。蝉の声がする。
少女は突然ふらふらとし始めて、看護師さんの方に倒れた。
看護師さんは少女を受け止め、大事には至らなかったはずだ。
だが、看護師さんはこの時、とてつもない狂気を感じた。
少女の目はバッチリと開いた。その姿はまるで、何か恐ろしいものを、そこに捉えているかのようだった。
「蝉……、蝉が鳴いてる……」
少女は唇を震わせながら言った。
看護師さんは少女を抱きしめ、優しく言った。
「大丈夫……大丈夫……」
看護師さんは内心、恐れながらも少女に寄り添った。
少女は看護師さんの服を掴み、そして泣き出した。
「ママ!! パパ!!」
少女の声は次第に大きくなる。
「嫌だ!!! 嫌っ!!!! やめて!!!!!」
そして最後には、もはや声では無くなり、少女は音を叫んだ。
「「わ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”ーーーーーーー!!!!!!」」
その音は、この静かな院内でよく響いた。
少女の手から徐々に力が抜けていき、音もしなくなった。
看護師さんはゆっくりと少女の顎を傾け、顔を見る。
少女は既に眠っていた。
*
少女をベッドの上に寝かせ、看護師さんは微笑む。
今日は月がよく見える。本当に綺麗に。
こんな夜こそ、彼女の名にピッタリだ。
「おやすみ。月夜ちゃん」
丑三夏帆はそれだけ言って、部屋を後にした。
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