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第2節 千崎雄二『百の香り』―2―
やがて赤子は、まだほんのりと血をまとったまま、布へくるまれて雪絵の胸へとそっと乗せられる。
雪絵の腕が震えながら、その小さな身体を愛し気に抱き寄せた。
「……はじめまして。無事に生まれて来てくれてありがとう……」
かすれた声。
涙で濡れた頬。
その姿を見て、雄二はようやく実感する。
――産まれたのか。
胸の奥に、重たい何かが、静かに落ちる。
助産師からは、特に何も言われない。ぱっと見、異常はないということだろう。とりあえずは無事でよかった。
思ったのは、薄情なことにそれだけだった。
しばらくして雪絵の上から抱き上げられた赤子が、雄二のもとへやって来る。
白布にはところどころに血が付着していた。
(早く綺麗にしてやってくれ)
そう思いながら眺めていたら、助産師が穏やかに言った。
「お父さんも、抱いてみられませんか?」
雄二は一瞬、視線を逸らす。
「……いや」
あまりにも小さくて、頼りなくて……自分が抱けば壊してしまいそうだった。
だが、雪絵がかすれた声で言う。
「……雄二さん、お願い。抱いてあげてください」
命令でも、甘えでもない。
静かな依頼。
雄二はわずかに息を吐いた。
「ああ」
助産師に腕の形を指示され、ぎこちなく赤子を受け取る。
軽い。
思っていたより、ずっと軽い。
折れそうなほど小さいのに、体温だけはやたらと高く感じられた。
赤子、というけれど……まだどこか紫がかって見えるその肌の色に、本当に大丈夫なんだろうかと不安になる。
みどり児のまぶたはまだ腫れぼったく、目は閉じられていた。
だが、雄二が見ているのに応えるように、ほんのわずかに隙間が開いた。
黒い瞳。
まだ焦点も定まらない、だけど一点の穢れさえ混ざらない澄んだ光。
それでも――なぜか……一瞬、腕の中の嬰児の瞳が、こちらを射抜いたように感じてしまった。
胸の奥に、何かが走る。
電流のように。
見られているはずがないのに。
なのに、すべてを見透かされたような気がした。
こんな小さな命。
あまりにも無垢で、あまりにも弱々しくて、何も知らない存在。
(俺が守らなくて、誰が守るというんだ)
その感覚だけが、はっきりと落ちてきた。
――この子は、俺の娘だ。
***
数日後。
葛西組の息がかかった助産院の一室は静かすぎるくらい静かだった。
母子同室の室内で、雪絵が穏やかに娘を見つめている。
出産前よりふくよかになったように見える胸のふくらみが、彼女が母親になった証のように見えた。
「……あの、雄二さん……。少しだけ、席を外してもいいですか?」
雪絵が眠る娘を見下ろして、ぎこちなくベッドから立ち上がると、申し訳なさそうに言う。
「私がいない間、この子のこと、見ていてください」
「……分かった」
短く答える。
雪絵が部屋の片隅に用意された個室――トイレへ消えると、室内には雄二とコッドの中の娘だけが残った。
出産直後の紫がかった色味は薄れ、顔全体に広がっていたむくみも大分引いている。
思いのほか整った顔立ちだったんだな、と冷静に思う。
コッドの中で、娘が小さく身じろいだ。
「ふぇ」
小さくむずがって、ぱち、と目が開いた。
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黒い瞳。
まだ焦点も甘いはずなのに、まっすぐこちらを向いているように感じた。
この子と目が合うのは、これで二度目だ。
どく、と心臓が鳴る。
――百合香?
考えるより先に、その名が浮かんで自分でも驚いた。
百合香が生んだ子ではない。似ているわけがないのは分かっている。
だが、この目――。
静かで、澄んでいて、どこか強い。
全てを見透かされるような……なんとも言えない感覚。
「……」
馬鹿なことを、と思う。
(この子は俺と雪絵の娘だ。百合香とは関係ない)
それでも、胸の奥に芽生えた百合香の残像が消えない。
そう思った瞬間、天啓のように〝百香〟という名前が落ちてきた。
ガチャッと音がして、雪絵が個室から出てくる。まだあちこち回復しきっていないんだろう。足を引きずるようにこちらへ歩み寄って来る彼女を見て、雄二は雪絵へ手を差し伸べた。
雄二は雪絵を労わりながらベッドまで付き添うと、静かに行った。
「この子の名前だが、百の香りと書いて、モモカ……とかどうだろう?」
雪絵が拒否すれば別の名前にしようと思った。
だが、雪絵は「百香ちゃん……」とつぶやくなりにっこり微笑んだ。
「いい名前だと思います。気に入りました」
季節は折しも花々が咲き乱れる初夏。
雪絵は幸せそうだ。
コメント
2件
ゆきえさん、その名前はあかん!
いやあ……もう、胸がぎゅっとなりました。雄二さんが赤ちゃんを抱くのをためらうところ、あの「軽い」「体温が高い」って感覚の書き方がすごくリアルで、初めて我が子を抱く父親の戸惑いと、それでも芽生える守りたい気持ちがひしひしと伝わってきました。「百香」という名前に百合香の面影が重なるのも、雄二さんの過去を思うと切なくて……。この静かな幸せな時間が、物語の中でどう続いていくのか、とても気になります。素敵なエピソードをありがとうございました🌷