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「自殺、だってさ」

木下琴子(きのした ことこ)が車を回している間に追加情報が入ったらしい。狭間(はざま)は運転席に乗り込むなりため息をついた。

「臭わないといいなあ。俺の経験では、自殺の遺体は八割方臭いから」

そう言いながらギアを入れて発進させ、ハンドルを操り、脇道に車を滑り込ませた。

タイヤが雨を弾く音が響く。


刑事部捜査一課に配属されて五日。夜八時を過ぎていた。

慣れない報告書を手探りで書き終わり、琴子が鞄を肩にかけた瞬間を見計らったように、電話が鳴った。

市街のマンションで男性の死体が見つかったのだ。

今日は非番の刑事が多く、現場に向かうのは琴子と、去年捜査一課の課長として配属された狭間の二人だ。

「いやぁ、“30代人妻、不倫の代償に自らの人生に幕を引く”とかならちょっとぐらい胸も浮き立つけどさ、アラサー男の首吊りなんざ見たくないよね」

この男は40代も終わりに差しかかろうとしているバツイチで、最近再婚したそうだが、根っからの女好きが直らず、しょっちゅう署の女の子に手を出すので評判はすこぶる悪い。

「天気も悪いしさ。俺、気圧の変動に敏感なんだよね」

ワイパーで水を掃きながら舌打ちをしている。

「ガラス工芸家の咲楽(サクラ)って知ってる?」

答える暇もなく狭間が続ける。「俺も知らないんだけどさ。若い“自称芸術家”の自殺なんて、ありがちな話だよね。どーせ、ブクブク太ってさ、ワキガのむさい男に決まってるよ」

ひどい言い様だ。

“自称芸術家”の自殺。

狭間の反応をみるに、さほど珍しいことでもないのだろうか。

三日前に起こった、多国籍レストランの外国人労働者による三万円の窃盗事件と同じテンションで現場に向かう課長を横目で見ながら思った。


狭間は数回にわたる欠伸のせいで出てきた涙を拭いながら言う。

「まあ、発見者と関係者に話聞いて、変なとこがなければすぐ終わるよ」

「変なところというと」

「んーだから、今回で言えば首吊りらしいんだけど、首についた痕が吊ったもんじゃなく、絞められたもんだったとか。

ほら、縄のあとや鬱血の仕方が違うからさ。あとは部屋に争った痕があるとか。もし抵抗したら、クロスに傷の一つくらいつくからね。あとはまあ見ればわかるよ。今回はすでに、鑑識と警官たちが現場行って、自殺だろうってことだから、緊張しなくていいよ。関係者には俺が話聞くし」


郊外の街灯も乏しい道路に数台の警察車両が横付けして停車している。見上げると、二十階建てのマンションに、まばらに明かりが灯っている。

シフトレバーをパーキングに入れた狭間がにんまりとこちらを見て笑った。

「手取り足取り俺が教えてあげるからさ」




エレベーターに乗り三階へ上がる。306号室が現場だった。

開け放たれたドアに貼られたテープを潜ると、香やアロマの類だろうか、なんとも言えない妖艶な香りに包まれた。

歩を進めると、玄関、廊下、キッチン、ダイニング、リビングと、無数のステンドグラスランプで溢れており、そのすべてに光が点り、部屋全体が煌々と明るい。

ひらけたリビングダイニングの中心に、毛布をかけた物体がある。

傍らには小さな円形のダイニングテーブルが置いてあり、見上げると、可動式スポットライトのバーに革ベルトの切れ端が残っている。どうやらこのテーブルに上り、バーにベルトをかけ、首を吊ったらしい。


「お疲れ様です」

二人の警察官と三人の鑑識がほぼ同時に会釈する。

「仏さん、勝手に下ろしたんだ。ベルトも切っちゃったの?」

咎めるように狭間が綿手袋を取り出しながら聞く。

「第一発見者の方が、通報する前に下ろしたみたいで」

軽く合掌した後、狭間の手でおもむろに毛布が捲られ、仰向けに寝かされた男の姿が露になる。

反射的に琴子は口元を押さえた。

吐き気を覚えたわけではない。

思わず遺体に対してとんでもなく不謹慎な言葉を吐くところであった。

綺麗だと。


首吊り死体と聞いて覚悟していたのが杞憂に終わった。

確かに血の通わない肌は青白く、延びた首には赤黒い痕が痛々しく残っているが、それでも彼は美しかった。

長身で小さい顔、主張しすぎないがスッと通った鼻筋、ほんの少し開いた口から見える薄い唇の内側はうっすら赤く、シャープな顎には髭の気配さえ感じさせない。

髪はサイドを刈り上げトップだけ長めでパーマを当てていてアッシュの色がよく似合っている。

全体的に線は細いが、肩幅はあり、華奢な印象は受けない。

ネイビーのストライプのシャツに、七分丈の目の荒いカーディガン、薄いグレーのスラックスは捲られて、白い足首が見えている。



一見するとファッションモデルのような青年。

きっと女性からの人気も相応にあっただろう。

しかしどんなに魅力的であっても、彼が目を開けることは二度とない。


「死亡推定時刻は、今のところ、アトリエを出た午後4時から発見された午後8時の間。

本名、櫻井秀人(さくらい ひでと)。29歳。ガラス工芸家。

東北美術大学四年のときにガラスアーティスト咲楽(サクラ)として作品を発表したのが事実上のデビュー。

それ以後、23歳に発表した「ナデシコ」が2013年ベネチア美術祭で大賞をとり、一躍有名となる。そのガラスの球体でできた花の造形は、後に発表された「ラベンダー」「グラジオラス」「エリカ」とともに、フラワーオーブシリーズとして人気を博し、日本のガラスアートの礎を築いた。まあ公式ホームページの知識だとこんな感じです」


自称芸術家どころかガラスアート界の一任者ではないか。

「家族は?」

聞かなかったように狭間が答える。

「両親と弟が一人、妹が一人。両親は東京に、妹は横浜に住んでいます。

連絡したのですが、事実上勘当していて、丸10年ほとんど連絡をとってないとのことで。

遺体の引き取りも拒否しています」

「事件とは関係ありそう?」

「いえ、聞くところに寄りますと」

警察官が声を潜める。

「仏さん自身が、死んだ後の葬儀場から生花の種類から、納骨の場所、作品の分配まで、アトリエの職員にすべて指示していたそうですから、自殺で間違いないかと。

言われた方は、冗談だと聞き流していたそうですけど」

視線の先にはその「職員」と思われる初老の男が、目をハンカチで拭いながら別の警官と話していた。

「あそ。自殺で決まりね。帰っていいかな」

狭間が無表情で振り返る。

「えっと……」

「冗談だよ。愉快だな、木下さんは」

何がおかしいのかクククと笑いながらつかつかと職員に近づいていく。

「捜査一課の狭間です。あなたは」

「私は咲楽先生が経営するガラスプロムナードの業務を任されている永井と申します」

「なんですか、ガラス何とかとは」

「プロムナードとは、フランス語で、散歩道という意味です」

「いや、そうではなくて、どんな施設ですか」

狭間が苛立ちを隠そうともせず聞き返す。

「咲楽先生が設立した、カラスミュージアム兼、ガラス工房兼、ガラス教室です」

「はあ。第一発見者もあなたですか?」

「そうです。私とマンションの管理人様でございます」

やけに畏まって話を続ける。

「と言っても私がここに参りましたのは、出版社の担当の方からご連絡をいただいたからでして。実は今度、咲楽先生の記事が東京の美術雑誌に載ることになっていたんですが、そこに変なファックスが届いたと連絡をいただいたもので気が揉まれて参った次第でして」

「これです。これは送った原本の方ですけど」

先程の警官が一枚の紙を持ってきた。そこには


〈私事で失礼致します。勝手ながら本日、退屈な人生に幕を引くことに相成りましたので、お約束していたインタビューをお受けすることは出来なくなりました。

誠に申し訳ありません。私が言えた義理ではございませんが、今後も御社の益々のご活躍を心よりお祈り申し上げております。 咲楽〉



文章はワープロで書かれており、最後にボールペンでサインが書かれていた。

「これを見て、大慌てでここへ飛んできて、変わり果てた姿の先生とお会いしたという次第です」

思い出したのか再び目を千鳥柄のハンカチで拭う。

「死ぬタイミングを計ってるだけだとか、僕がいなくなったらこうしてくれとか、何かにつけてそれはもうしょっちゅう言っておられましたけど、まさか本当に死んでしまうとは……。

自殺したゴッホは生前精神的な病に悩まされていたと言いますが、咲楽先生は精神科にもかかってないし、うつ状態なわけでもなく、お元気そうだったのに」

「……ゴッホの死については他殺説もありますけどね」

琴子が思わず口を出す。

「えっと、こちらは」

「あ、同じく捜査一課の木下です」

「女刑事さんなんですね」

永井がなぜか少し嬉しそうに呟く。

「まあ、精神科にはかかってなくても、いろいろ悩んではいたのかとは思うんですが、自殺の動機みたいなものは何だと思いますか」

狭間がいかにも形式上という言い方で尋ねる。

「そうですね。結構、というかかなり変わり者で、こだわりが強く、潔癖で、人嫌いで。教室の生徒たちからは、溢れる才能と教育熱心さから評判は良かったのですが、それ以外の人間関係はほとんどなかったといっても過言ではないですよ。

とにかく淡白で、アトリエに仕事以外で尋ねてくる友人なんかもいませんでしたしね」

「家族とは音信不通だったということですが、その、恋人などは」

「どうなんでしょう。もうかれこれ3年以上の付き合いになりますが、そのような存在を匂わせたことは一度もありませんね。

女性に人気は高いはずなんですが」

「おーい、鑑識ー。これ、指紋と筆跡判定」

部屋の写真を撮っていた男の一人が駆け寄ってきた。

「そんなペラペラふったら折り目がついちゃいますよ。一応、貴重な遺留品ですから。ぞんざいに扱うのはやめてください、課長」

目深に鑑識の帽子を被っているので気がつかなかったが、中学時代の同級生、須貝謙太郎だった。

歳は同じだが、かれは高卒で入署しているので、四年先輩だ。

「どうせ自殺だろ。かたいねー。さあ、俺ら帰っていいかな」

須貝が困ったように見回す。

「えーっと、いいんじゃないすかね。こちらはやっておくんで」

早くも綿手袋を外しにかかっている狭間が琴子を振り向く。

「じゃああとは鑑識に任せて、俺たちは署に戻ろうか」

「課長。あそこに」須貝がつぶやいた。

二人の目線を追うと、一人の男が立っていた。


「成瀬(なるせ)。なんであいつ……」

狭間があからさまなため息をついた。

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