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よいしょ、と掛け声を上げてテディベアとは反対側のウーヴェの隣に座り込んだリオンは一種異様な空気が室内を満たしていることに気付いていたが、その理由が何であるのかまでは見抜けなかった。
だからいつものようにウーヴェを見上げてその名を呼び、視線が重なったときを狙って唇の両端を持ち上げる。
「日記、持って来た。読むかどうかはお前に任せるって言ったけどさ、やっぱり俺も知りたいことが沢山出てきた」
だから今からこれを読んでも良いかと問いかけると椅子の上から緊張感が広がるが、それでも小さな声がうんと答えて同意を示してくれる。
「ダンケ、オーヴェ」
この日記を読む、ひいては掘り起こして欲しくない過去を、傷口を抉ることになるがそれを許してくれるウーヴェに頷き、次いで緊張気味に自分たちを見つめているレオポルドと気持ちは読み取れないが反対一辺倒ではなくなったらしいギュンター・ノルベルトの顔を交互に見つめ日記を読むことを再度伝えると、二人がほぼ同じタイミングで頷くと同時にウーヴェへと視線も向ける。
「……リオン、ひとつ、約束してくれないか」
「ああ。良いぜ」
ウーヴェの手が無意識にテディベアの頭を撫でていることに気付き、その手を己の頭に載せろと伝える代わりに手を取って己の頭上に導いたリオンは、何を約束して欲しいのかを言えと促すと躊躇うようにターコイズ色の双眸が左右に泳ぐが、小さな吐息を零した後、ハシムについて出来れば悪い話は聞きたくないと呟いた為、理解していることを伝える代わりに己の頭上にある手をそっと取って掌に口付ける。
「ハシムが不法滞在してたとしてもお前の誘拐の片棒を担がされていたとしても、でももうそれは昔の話だ。墓を暴いて死体に鞭打つようなことはしないつもりだから安心しろ」
「……うん」
ウーヴェの頷きにレオポルドがならば日記を読む必要などないのではないかと呟くが、それに対してリオンが無言で肩を竦めるものの己の思いは説明した方が良いと気付いてレオポルドに向き直る。
「俺が知りたいのはオーヴェが誘拐された理由よりもレジーナがどんな思いをしてたのかってことだ」
彼女が出会った魂の片割れ-と当時はどちらも思っていただろう存在-とその彼との間に出来た息子。その息子を生後間もない頃に手放さなければならなかった彼女がどんな思いで成長した息子を誘拐し、一生消えない傷を与えたのかを知りたいのだと告げるとレオポルドが口を閉ざし、ギュンター・ノルベルトの肩が揺れる。
「誘拐の主犯がレジーナの姉とその男だったけど、どうして誘拐を反対しなかったのか。息子を取り戻す為だって入れ知恵されたのかも知れねぇけど、ならどうしてオーヴェが首輪を付けられてペットよりも酷い扱いを受けてたときに庇わなかったのかを知りたい」
10年の年月を経ても逢いたいと願っただろう息子と再会したが、その息子にペット用の首輪を巻きペットフードを食べさ人としての扱いをしなかったその理由を知りたいと呟くと、ギュンター・ノルベルトが彼女の為に反論したい思いとリオンの言葉に納得する気持ちに揺れ動きながらも、まだどこかで彼女は従犯であり主犯ではないと思いたい気持ちがあったため、自信のない声で問いかける。
「……主犯の男が誰にでも暴力を振るうからではないのか? 彼女もその暴力を恐れてフェリクスを庇えなかったんじゃないのか?」
ギュンター・ノルベルトの言葉にリオンが伏し目がちになって何かを思い出しているような表情を浮かべるが、一つ頭を振ったかと思うとウーヴェの掌に再度キスをする。
「母親ってさ、自分よりも子どもを庇うもんじゃねぇの?」
「……」
「俺に母親はいねぇけど、母親代わりのマザーはいつも何があっても俺を庇ってくれてた」
ガキの頃は全然分からなかったことだが今になって彼女の偉大さが良く分かると自嘲し、それでもそんな彼女の庇護を受けて育った己が自慢だと言いたげに笑みを浮かべる。
「俺が何の理由もなく誰かに殴られそうになった時、マザーがいれば絶対に庇ってくれてた。自分が殴られるかも知れねぇのにな」
自分が腹を痛めたわけでもなくただ偶然教会で発見した為に育てなければならなくなったリオンをそれでも彼女は母以上の愛情でもって愛し守ってくれていたのだと再度告げてウーヴェを見上げたリオンは、悲痛な色を浮かべて見下ろしてくる双眸に目を細め、だから己の息子を殴っている時や殴られているのを見ていたときのレジーナの気持ちが知りたいと告げてそっと手を伸ばすとウーヴェがその手を逆に掴んで胸元に引き寄せる。
「俺が思う母親はマザーだ。オーヴェが思う母親はムッティだよな」
ウーヴェの母はわたくしですと緊張と不安とに顔色を悪くしながらもきっぱりと言い切った彼女の横顔を思い浮かべて笑ったリオンに、愛してやまない男の手を握りしめることで不安を押さえ込もうとしているウーヴェが頷き、ギュンター・ノルベルトが切なげに目を細める。
「彼女はフェリクスを産んでくれたが母ではなかったと言う事だな」
「俺は俺を産み捨てていった女を母なんて呼べねぇ」
俺の母はマザー・カタリーナただ一人だと今まで頑なに認めなかった思いを自然と口にしたリオンは、驚いた様に見つめて来る三対の双眸の中心で肩を竦めて透明な笑みを浮かべ、その彼女以上に愛する男の目に笑いかける。
「そういうことだよな、オーヴェ」
昨年、ゾフィーが命懸けで教えてくれたのは自分たちを慈しんでくれたマザー・カタリーナは紛れもなく自分たちの母であり家族であるという疑う余地のないことだったが、ようやく己の中で昇華できたと笑うリオンにウーヴェが驚きに目を瞠るが、掴んでいた手をそっと撫でて小さく頷く。
「……うん」
「だからオーヴェの母はムッティだけだ。でも……レジーナはどう思っていたのかはまた別の話だ」
だからこそ日記を読んでそこに万が一彼女の心の動きが記されていれば、己の思いの正しさが知れると繰り返すリオンにレオポルドもギュンター・ノルベルトも何も言わずに頷き、早く日記を読めと声に出さずに促す。
日記を捲れば歳月が積み重なった土埃と共に室内に舞い上がり、緊張を巻き込んで床の上にふわりと落ちていく。
緊張する必要はないと伝えたいがこの状況では無理だとも理解している為に何も言わずに片手をウーヴェに預けたまま日記を捲っていくが、ざっと目を通しただけではその日記から彼女の心情らしきものを読み取ることが出来ずに残念な溜息を吐いたリオンは、それでもこの日記の書き手が誘拐事件に荷担してしまった後悔と己の子どもよりも小さなウーヴェが目の前で虐待される様を目の当たりにした衝撃と反省からこの日記を書き出したことを読み取り、もう一度溜息を吐く。
「事件で死んだ大人ってさ、何か関係がある人たちだったっけ」
主犯格のヴォルフとマリアは内縁関係でレジーナはマリアの妹、もう一人はヴォルフの弟分のような男だとは分かっているが残り三人はどういう関係があったと呟くと、レオポルドが重苦しい口を開く。
「一人は会社と取引があった銀行の男で、二人については直接の関係は分からなかった」
「そっか。じゃあ金の動きについては詳しかったんだ」
「ああ」
当初は誘拐犯四人と何らかの事情で事件に巻き込まれた大人達と誘拐された子どもという図式を警察も描いていたのだが、情報が次々と入ってくるにつれウーヴェを誘拐し身代金を得るために七人の大人が関係したことに愕然としたと呟くと、当時の様子を彷彿とさせるような顔でギュンター・ノルベルトとレオポルドが重々しく頷く。
「当時は俺たちも誘拐犯と一緒にいた男達が皆繋がりがあるとは思わなかった。警察とは別の方から入ってくる情報にはただただ驚くだけだった」
「繋がりって何だ?」
「……主犯のヴォルフは高利貸を生業にしていたが、その線で警察は捜査をしていた。だが実際はそちらではなくヤツが裏で行っていたカジノがあったが、そのカジノの常連客だった」
「三人とも?」
「ああ。非合法のものだったからな。三人もそれをネタに強請られたか、あわよくばウーヴェを誘拐して得た金を山分けしてもらえると思ったのか……」
今となっては本人達の心裡は読めないが、金が手に入るという幻想の中で誘拐に荷担したのだろうと重苦しく呟くレオポルドにリオンが頷き、ただ誘拐するだけなら四人の方が身動きも取りやすいのに総勢七人という人間が十歳の子どもを誘拐するのは不自然だとも呟くと、ヴォルフやマリアは誘拐を実行できるが身代金を安全に受け取る方法やそれを浄化する方法は知らなかったと言う事だろうと返されて確かにそうだと再度頷く。
「それなら、分かる」
でも事件が終わりを迎えたあの教会に良く勢揃いできたよなぁと、警察の立場からすればネズミ一匹も通さない緊急配備をしているはずなのに良く集合できたものだと首を傾げると、ウーヴェがリオンの手を無意識に撫でながら口を開く。
「誰だかは忘れたけど……知り合いに、元警察官が、いた、らしい」
「……ああ、じゃあそいつから筒抜けだったってことかぁ。それさ、死んだヤツというかヴォルフかその弟分の知り合いじゃねぇの? 俺が言うのもあれだし認めたくはねぇけど、警察官と言ってもピンからキリまでいるからな」
仕事熱心で家庭を崩壊させてまでも職務を遂行するものもいれば俺のように姉が犯罪者である事を見抜けない間抜けもいると自嘲にしては重い色を滲ませながら肩を竦めたリオンは、ウーヴェの手がそっと頭に乗せられて髪をくしゃくしゃにしてくれたことで毒気を抜き、でもそれでも俺はゾフィーが自慢だと笑うとウーヴェも小さな笑みを浮かべてくれる。
「……ハシムが、話を聞いてた。金を、山分けするから、あの教会に来い、って」
「そっか。それに釣られて集まったんだな。じゃあみんなずっと一緒に行動してた訳じゃねぇんだ?」
「ずっと一緒にはいなかった。ただ、入れ替わり来ていた、から、麓の村にいたんじゃないのかな」
「誰か連絡係がいたのかな?」
「……鳩が、いた」
「鳩?」
「伝書鳩、だ」
事件のことを思い出しぽつりぽつりと語るウーヴェをそっと促すように言葉を繋いで疑問を投げかけるリオンだったが、鳩と聞かされて思わず口笛を吹く。
「伝書鳩かぁ。さすがに鳩を見張る訳にいかねぇか」
「事件当時はどのようにして連絡を取っていたのかが分からなかったが、伝書鳩を使っていたのか」
レオポルドの呟きにリオンが親父達も知らなかったのかと呟くとギュンター・ノルベルトが何ともいえない顔で肩を竦める。
「原始的だけどある意味確実な方法だよな」
その鳩が往復することで連絡を取りあの教会に皆が集合したときに金の配分を巡って仲間割れがおこったのだろうと呟きつつ日記を捲ると、リオンの予想通りの言葉を日記の中程に発見するが、そのページと次のページ以降はどんな類いの文字も書かれていなかった。
記された日付は調書で見た犯人達の死体が発見された前々日で、恐らくはハシムが絶命する前日だろうと思われ、日記に記された最後の言葉達は後悔を表すものばかりだったが、その後悔は己が非合法のカジノに手を出しヴォルフに金を借りたことへのものであり、下手をすれば己の子どもよりも年下のウーヴェを誘拐したことへのものではなかった。
「……こいつ、オーヴェを誘拐したことやハシムを巻き込んだことについては何とも思ってなかったみたいだな。てめぇのことしか書いてねぇ」
「ああ。自分のことしか考えられない奴らばかりだったな」
「……誘拐を目論む奴らなんてそんなもんってことか」
「まあな」
幼い子どもがもたらす大金に大人がハイエナのように寄ってくる様は反吐が出るがその彼らにも家族がいたはずだとリオンが天井を見上げると、確かにいたが事件後に警察とは別に密かに家族に会い、事件についてこちらから訴えることはしない代わりに今すぐこの街を出て行けと強制的に引っ越しさせたことをレオポルドが呟いたため、リオンが蒼い目を瞠ったまま顔を戻す。
「それで家族に連絡が付けられなかったのか……!」
「ああ。事件については何も話すなと念押しをしたからな」
「それ、念押しじゃなくて脅迫じゃねぇの?」
「……まあ、そうとも言うな」
レオポルドの取った強硬手段は百歩譲っても脅迫紛いのものだったため、リオンがにやりと笑えばレオポルドも似たり寄ったりの顔で笑う。
「警察には捜査の邪魔をするなと睨まれたがウーヴェを守るためだ。俺が出来ることはなんでもした」
その結果が事件で死んだ男達の家族と取引をし街を出て行くことの誓約だったが、それが脅迫と言われればそれまでだと肩を竦める父を息子達がじっと見つめるが、ターコイズ色の双眸が程なくして伏せられる。
あの当時ウーヴェの世界は今と同じように総てが灰色でのっぺりとしていて、覗き込んでくる母や姉の顔や車いすの背後やベッドの頭上で聞こえる父と兄の深刻な声も透明の壁の向こうから響いてくるもののように感じていた。
一種の乖離感に包まれていたのだがその感覚が薄れ母や姉の声を肌身に感じるようになったのは、自宅ベッドで日がな一日天井を見上げている頃だった。
その世界で父と兄は存在を感じてはいても目にすると心と頭が相反する感情を胸元でぶつけてきたため、面と向かい合うことが出来なかった。
病院に運ばれて目が覚めたとき最も心配げな顔でウーヴェを見下ろしていたのはギュンター・ノルベルトだったが、大好きな兄の顔を見た安堵とたった二週間の間に短いながらも生きてきた世界を壊されてしまった結果、以前のように手を伸ばして兄に抱きつくことが出来なかった。
その時にウーヴェが出来たのは心配そうに見下ろす兄とその後ろにいた父の顔を見た瞬間にどんな言葉でも説明できない心の動きを表したような、精神の箍が外れたような笑い声を上げることだけだった。
病室の隅で蹲りながら笑い続け、外してもらえたはずの首輪が締め付ける首を掻きむしる姿を見た母と姉は気を失いそうになったそうだったが、あの時のレオポルドとギュンター・ノルベルトはどんな顔をしていたのだろうか。
当時の父と兄の心境に思いを馳せた瞬間、今の今まで考えることがなかったそれを突然思い浮かべてしまった己に驚きどうして急にそんなことを思うと自問するが、お前がそれを考えれば罪もない人がまた死ぬという過去の呪縛と実際に命を落とした人たちの顔が脳裏に浮かび、高熱に浮かされた人のようにウーヴェが震え出す。
「オーヴェ?」
ウーヴェの様子がおかしいと気付いたリオンが膝立ちになってウーヴェの肩に手を置くと、過去の暴力を今まさに受けているかのようにウーヴェが蒼白な顔で口を開閉させる。
「……ぁ……ぅ……っ……」
「ああ、大丈夫だ、オーヴェ。いつも言ってるけどさ、お前が思ってることを口にしてももう誰も死なねぇ」
だから思っている事を口にしろ、苦しいのならば吐き出してしまえと背中を撫でて言葉と態度で楽になれと促すと、ウーヴェの手が上がりリオンの肩をぎゅっと握りしめる。
その痛みを堪えつつ大丈夫だからと何度か繰り返したリオンは、ある事に気付いてそれを確かめるように肩越しにレオポルドを振り返る。
「……思ってることを口にしろよ、オーヴェ。今ここで思ってることを言っても親父も兄貴も痛い目に遭うことはねぇ。もちろん、ムッティもアリーセもだ。誰も痛い目に遭わねぇから思った事を言えよ」
「……!!」
リオンの言葉の真意を名指しされた二人は気づけなかったがウーヴェが震える声でギュンター・ノルベルトの名を呼んだ瞬間、ウーヴェの様子が急変した真意に気づき、レオポルドが驚愕のあまり立ち上がってデスクを回り込んで来る。
「リオン、まさか……!?」
「……親父が思った通りだ」
ウーヴェが生母やその姉たちから虐待されていた間や大人達が皆絶命したあとも、そして今この瞬間までもウーヴェはただ一人で皆を庇っていたのだとリオンが告げると、ギュンター・ノルベルトが蒼白な顔で口元を覆い隠す。
「俺たちを庇っていた!?」
「……なあオーヴェ、教えてくれ。事件の時、ムッティやアリーセが傷付けられるのが嫌だからガマンしてたんだよな?」
それはウーヴェの部屋で交わされた言葉だったが、父と兄に聞かせるために再度問いかけたリオンは、ウーヴェの頭が小刻みに上下した後左右に激しく振られたことに気付いてそっと胸に抱き寄せる。
「ムッティやアリーセはお前が庇ったおかげで今でも元気にしてる。お前が頑張ったからだぜー」
本当によく頑張ったなぁと抱き寄せた頭に囁きながらでもと言葉を繋ぐ。
「お前が本当に守りたかったのは……兄貴だよな」
己が傷付けられることよりも恐れ己が堪えれば大丈夫と庇い通したかったのは誰よりも何よりも大好きなギュンター・ノルベルトだろうと囁くと、当人が息を飲んで蒼白になりウーヴェが震える声で否定する。
「……ちが……っ……!」
「違わない。お前が見せてくれた写真、あれを見ればどれぐらい仲が良かったか分かる。そんなお前が兄貴を庇わないはずがない」
「……フェリクスが、庇う……?」
「十歳の子どもでも……自分の家族を守りたいって気持ちはある」
ガキの頃はなかなか褒められない行動ばかりしていた俺ですら一緒に暮らす人たちをバカにされたりしたときには手を出していたと肩を竦めつつ呟くリオンは、己とは違う方法で-最も平和的で残酷な方法で-ウーヴェは己を愛してくれる家族を精一杯守ったのだと告げてウーヴェの頬を両手で挟んで顔を上げさせる。
「お前は本当に強い男だ。十歳でもう今に繋がる強さを手に入れていたんだな」
そんなお前に最上級の敬意を。
マザー・カタリーナでさえも見た事がないだろう真剣さを通り越した顔で囁きウーヴェの目を瞠らせたリオンは額に恭しく口付けたかと思うと、椅子から引きずり下ろすようにウーヴェの背中を抱きしめる。
「親父や兄貴が大好きだったオーヴェ。その二人を守りたい為に事件の後も二人を避けていたんだよな――またいつか、あいつらが親父や兄貴を傷付ける、だから傍にいない方が良いって」
「!!」
「親父や兄貴はオーヴェを守る為に憎まれ役を買って出た。でも、オーヴェはオーヴェで事件の時からずっと兄貴達を守るために……犯人達の言う事を大人しく聞いていた」
愛する家族を守りたい呪縛は事件の後も解くことが出来ない程強力なものだった。その為、本当は愛する家族と一緒に笑っていたいが、それをすれば家族に害が及ぶという強迫観念から以前のように接することが出来なくなっていた。
愛する家族と触れあいたいが愛するが故に出来ないというジレンマに十歳の子どもが陥った結果、己の心を閉ざして世界から感情をなくすように心が働きかけてしまったのだと、震えるウーヴェの身体を抱きしめながら告げたリオンは、違うと小さく零すウーヴェの髪に口付けながらその言葉を否定する。
「さっきも言ったが、違わない。事件の時、お前がずっと考えていたのは自分が逆らうようなことをすれば、兄貴をはじめ親父やムッティ達が自分と同じ目に遭わされるかも知れないと言う事だ」
「……」
「親父や兄貴を好きと言っただけで殴られたって前に言ってたよな? その時に犯人が逆らえば仲間がお前の父親や兄貴を殺しに行くとでも言われたんじゃねぇのか?」
ウーヴェの頭を肩に押し当てるように抱きしめ、違うというか細い声で否定する背中を撫でてもう素直になっても大丈夫だとも囁くと、ウーヴェの全身から力が抜けてリオンに覆い被さるようになるがそれを渾身の力で支えたリオンは、ただ驚きに目を瞠り言葉を無くしている恋人の父と兄を交互に見つめ、事件当時から今までずっとウーヴェはあんた達を庇う為に避けていたが、それはあんた達を守りたい一心で、そのウーヴェの気持ちを犯人達は利用してバルツァーの家を破滅させようとしていた、それをたった一人で庇い通して阻止したウーヴェは本当に本当に、俺が逆立ちしても敵わないほど強く優しいとも告げると、ウーヴェの顔を覗き込むように身を引き、顔を両手でしっかりと挟んで視線を重ねる。
「フツー十歳のガキなんて自分のことしか考えられないもんだ。俺も自分が楽しい、面白いことしかしてこなかった。なのにお前は自分が傷付くことよりも家族が傷付く事を恐れて自分だけが傷付く事を選んだ。……事件の後もずっと一人で誰にもそれを言わずにガマンしてきた。……そんなこと、誰にでも出来る事じゃねぇ」
ああ、だからお前はそんなに優しく笑えるんだなと、己の母がいつか聞かせてくれた優しい人は深い悲しみを知っている人だという言葉を脳裏に響かせながら目を細めたリオンは、己の恋人が深く広い海のような優しさと他者を気遣える心の根源に触れたことに気付いて鼻の奥が痛みを覚えるがさっきウーヴェを支えたとき以上の力でもってそれを堪え、ターコイズ色の双眸を見開く恋人の目尻のほくろに口付ける。
「……そんなお前に愛されてるなんてさ、俺は本当に幸せものだ」
だから素直になって当時から今に続く心の軌跡を言葉に出してくれ、自分一人で抱えるのではなくお前が愛しまた愛してくれる人たちと共有して皆で一緒に前に向かって歩いて行こうと笑いかけると、リオンの頬に大粒の涙が一つ二つと零れ落ち、目玉までもが零れ落ちるのではないかと心配になるほどの涙が頬を伝ってシャツに染みこんでいく。
「リー……オ……っ……リオン……っ!!」
「うん。いつも言ってるし今日も言ったけどさ、素直じゃないお前も好きだけど、素直なお前はもっと好き。俺みたいなヤツでも信じて愛してくれるお前自身を信じてくれ。お前は俺を太陽だって言ってくれるけど、そうじゃねぇ。本当に太陽なのはお前なんだ」
「……」
「その証拠に、お前が事件で姿を消してからずっとこの家には日が差していねぇんじゃねぇか?」
今この部屋には午前の暖かな日差しが入り込んでいるが、立派な屋敷全体を取り囲む空気は真冬の空気そのものだと肩を竦め、呆然としたまま椅子に座り込んでいるレオポルドと同じく椅子に座り込んでいるギュンター・ノルベルトの顔をゆっくりと見つめたリオンは、俺に笑いかけてくれるようにこの二人やアリーセ・エリザベスらにも笑いかけられるようにしよう、お前はもう自分が思っていることを口にしても誰も怪我をしないという事実を知っているはずだと笑って促すと、ウーヴェの肩がひくりと上下し、リオンのシャツの肩口をぎゅっと掴んで顔を下げてしまう。
その直後、レオポルドやギュンター・ノルベルトにしてみれば懐かしい、リオンにしてみればまだ数えるほどしか見た事がない-正確には数日前アルバムを見ていた時に初めて見た-顔でウーヴェが叫ぶ。
「……ノル、を……っ……、好きだって言えば……っ……!」
「兄貴を殴るって言われたのか?」
顔から出るもの総てを出しながら叫ぶウーヴェが掌で涙を拭こうとするのを優しく遮ったリオンが大きな掌で頬をぐいと拭ってやり、その頬にキスをした後小さな子どもに戻ったように肩を揺らしてしゃくり上げるウーヴェの背中を安心させるように撫でてぽんと叩く。
「─……ァ……っ……ン……」
「……リオン……、それは……」
ウーヴェの言葉が俄には信じられない顔で呟くレオポルドだったが、己の言葉を疑われたと感じたのかウーヴェが怯えるようにリオンのシャツをきつく握りしめたため、安心させるように否定したり疑っているわけじゃないから心配するなと囁き、レオポルドに対しては確証はないが間違っていないと思うと答えるが、ギュンター・ノルベルトが蒼白な顔のまま椅子から立ち上がったかと思うと周囲の事など見えていない顔で部屋を出て行ってしまう。
「……あいつにとってもショックなことだな」
「……だろうな。でもさ、オーヴェは一人でずっと二十年以上もガマンしてきたんだ。兄貴にもそれぐらい出来るだろ」
レオポルド自身がたった今知った真実を俄には信じられなかったがウーヴェの様子から嘘偽りでは無いことは確かで、出て行った息子はどのようにして己の中の納めるべき場所に落ち着かせるのかと心配になるが、それよりも先にまず己の中に居場所を与えなければならないと頭を一つ振り色々な意味からめまいを覚えてしまう。
「……酒が欲しいな」
その言葉をデスクに落としたレオポルドもギュンター・ノルベルトと同じように部屋を出て行こうとするが足を止めて少しの間躊躇ったかと思うと、リオンにしがみつきながら幼いあの頃と同じ顔で泣き叫ぶウーヴェの頭に手を乗せ、くしゃくしゃと髪を乱す。
「……分かった、お前の気持ちは分かったからもう泣くな、ウーヴェ」
リオンが言うようにお前が笑ってくれなくなってからこの屋敷の火は消えてしまっているのだ。だからこれから一緒に火を灯す作業をするからもう泣くなと告げて髪の色は変わっても心の根本は変わっていないことを教えるようにウーヴェが泣きはらした顔を上げる。
「……と、……さん……っ……!」
「あんまり泣いてるとリッドやアリーセを心配させるが……リオンがいるから大丈夫だな」
「……っ、う、ん……」
「リオン、ウーヴェを頼む。少し頭を冷やしてくる」
聞かされた真実を受け入れる為に頭を冷やすと呟きリオンが事情を理解出来る顔で頷いたため、レオポルドも息子を追うように部屋を出て行ってしまう。
「リオ、ン……っ」
「大丈夫だ、オーヴェ。誰もお前のことを疑ったりしてねぇ。教えられた事がショックだったから驚いてるだけだ」
さっき親父は泣くなと言ったが俺がいるから好きなだけ泣けば良いと笑ったリオンはウーヴェの頬にキスをするが、端正な顔が朝に引き続き涙と鼻水に汚れてしまっていることに気付くとシャツの裾で躊躇うことなく顔を拭いてやる。
「あーあー、もー、せっかくの美人が台無しだなぁ」
泣き止まないウーヴェに微苦笑しつつ笑いかけたリオンは、何とか泣き止もうとするウーヴェの様子に一つ頷くと、今日は朝から本当に泣いてばかりだけど二十年分と思えば少なすぎる、後もう少し泣くことになるだろうから水分補給をしておこうと笑いかけて立ち上がることも伝えると手の甲で涙を拭くウーヴェの腕を掴んで立ち上がらせるが、そのまま勢いを付けてこの部屋に入ってきたときのようにウーヴェを縦抱きにする。
いい年をした大人が子どものように扱われることへの羞恥などもあったが今はそれに対して反論する余裕も気力もなく、ただぐったりとリオンの頭に頬を預けたウーヴェはハンナに言って命の水を作って貰おうなーと笑いかける声にただ無言で頷くのだった。