「まずは大丈夫だ。命に別状はない。意識もある」
電話口から聞こえてくる狭間の言葉に、琴子は胸を撫で下ろした。
取調室には西日が入り、殺人を自供したはずの男は黙りこくっていた。
「お前、うんとかすんとか言ったらどうだ」
浜田が大きな身体を揺するようにパイプ椅子に無理やり乗っけながら唸る。
狭間の報告は続く。
「なかなか壮絶だったらしい。病院に着いてからすぐ胃の洗浄して、血を抜いて輸血して。やっと状態が安定し、今、個室に入ったところだ」
胃の洗浄か。苦しみ悶える華奢な体を想像し拳に力が入る。
こいつのせいで。
視線を感じたのか、挑発するように顎をつきだしニヤリと笑う。
壱道が救急車で運ばれたあと、狭間、浅倉が病院へ向かい、琴子を含む残りのメンバーは、横山を松が岬署まで連行した。
浅倉の携帯で横山の告白はほぼ全て録音されたものの、それ以上の情報、特に櫻井の具体的な殺害方法などは謎のままだ。
「それにしても。櫻井の事件が他殺だったと、いつ気がついたんだ」
狭間が尚も話し続ける。
「いや、それはその・・・」
「まあ、成瀬は気づいていたかもしれないが、あいつは人に捜査方針を言わないから。結局は一人で突っ走って対応しきれずに迷惑をかけるといういつものパターンね。木下さんも気の毒に」
勝手に自己完結している。
「まあ、何にしろ」
ため息混じりにまとめる。
「横山が吐けば事件は解決だ」
そうだろうか。目の前の男を見ながら、琴子は手で口を覆った。
以前痛め付けられたことのある櫻井が、家に訪れた横山を無防備に入れるとは思えない。
そしてほとんど行き当たりばったりに、車で襲撃したり、コーヒーにも適当な量の睡眠薬やクスリをいれたりしているように見える横山が、指紋ひとつ残さずに犯行を行ったというのも想像できない。
だが仮に違うとすると、自分が犯人だと告白した理由もわからない。
櫻井殺害の時刻は、江崎にも妻の汐莉にもアリバイがある。庇う必要もない。
解決していない。何も。
「じゃあ、横山の取り調べに集中してくれ。ここは俺と浅倉さんとで着いてるから」電話が切れる。
黙秘を続ける横山の顔を見ながら、すでに数時間が経っていた。口も開かないことが、彼の大義らしい。
「哀れですね」
琴子は立ち上がり、正面から横山を見下ろす。
「このまま黙秘を続けて、汐莉さんは会いに来てくれるでしょうかね。
あなたとのことを旦那さんには隠したいから、できれば、ずーっと塀の中にいてほしいと思ってるんじゃないですか」
琴子を見上げて口角を上げる。それでもいいと言うように。
「あなたは純愛のつもりかもしれませんけど、結局は、頭の悪い女にも相手にされないただの竿男のエゴですよね。
安い竿に振り回されるこっちの身にもなってくれます?」
下品な言葉の羅列に、浜田が琴子を見上げる。
無視して椅子を正面に置き、頬杖をつく。
「殺人罪と殺人未遂罪の違いってわかります?」
横山が首を傾げながら椅子にもたれかかる。
「殺人未遂罪は、殺人をしようとしている人間が、良心の呵責等により、殺人を決行出来なかった又は途中で止めた際に、減刑が出来る。
ただし今回の場合、たまたま成瀬が私のコーヒーまで飲み干し、たまたま助けを呼んだのが早く、たまたま病院で的確な処置がなされ、たまたま二人とも助かった。
ここにあなたの良心は一つも入っていません。
減刑の可能性はなさそうですね」
横山の顔が僅かに引きつる。
「しかも、あなたの話が本当ならば、自分が犯した殺人事件を隠したいがために、刑事二人を襲ったわけですから、動機も身勝手極まりなく、同情の余地もないですね」
琴子が笑顔で横山を見る。
無表情に見えるが額にうっすら汗をかいている。
「つまりあなたは櫻井を合わせて3人分の殺人罪同等の刑で裁かれます。
おめでとうございます。死刑、ほぼ確定ですね」
パチンと両手を合わせる。
「あなたが絞首台への階段を上る間、あなたの汐莉さんは、邪魔者がいなくなった世界で、愛する人と腰を振ってるでしょうね」
「あんた、イカれてんな」
横山が口を開いた。
やっと黙秘の厚い殻に穴が開いた。
一気に畳み掛ける。
「その上駐車場での襲撃事件もありますから、それも加味されて」
「なんすか、その襲撃事件て」
一度穴が開くとどんどん言葉とが漏れだす。
「私たちの車を盗難車で襲ったでしょう。ピエロのマスクして」
「ピエロ?俺はそんなの知らない。俺がやったのはワイパーに紙を挟んだだけだ」
やっぱり。
琴子は考えるが早いか、携帯を取り出し廊下に出た。
「狭間課長ですか。突然ですが壱道さんから目を離さないで下さい。ピエロは横山じゃない可能性が高いです」
「どういうことだ」
「理由は後で話します。とにかく壱道さんと常に一緒にいて下さい」
電話を切り取調室に戻ると、人が変わったような横山が、浜田にすがり付いていた。
「やだよ、俺。絞首台に乗るの」
本当に哀れな男だ。
「咲楽さんも首を吊るの嫌だったと思いますよ」
今度ははっきり首を捻る。
「首吊り?何の話をしているんですか」
「この期に及んでとぼける気ですか?」
「俺は薬を入れたワインを、江崎さんの名前で送っただけですよ」
「ワイン?」
「はい。“まほろばの郷”に」
琴子は立ち上がった。
やはり何も解決などしてなかった。
ピエロは横山ではない。
櫻井に首を吊らせたのも横山ではない。
「浜田さん、課長に連絡して下さい。櫻井を殺した人間は別にいます」
「え?君は?」
浜田の声を背に琴子は走り出した。
圧倒的に駒が足りない。櫻井秀人と犯人を結ぶ駒が。
当たり前だが三日前と変わらない佇まいでそれはあった。
隣接する県立公園の噴水がキラキラと輝いていて、小さな虹がいくつも見える。
琴子はガラスプロムナードの正面入り口から入ると、物音につられて工房に足を向けた。
陽が入り、制作中のガラスたちが反射して様々な色になっていた。
窯に向かい、こちらに背を向けているのは、誰だろう。琴子が回り込もうとすると、その男が振り返った。
「あ、あんた」
黒い煤をつけたその顔は、青山涼だった。
あからさまに嫌そうな顔をする。
「何ですか。左腕も脱臼させにきたんですか」
琴子は小さく息を吐いた。
「随分ですね。悪かったですよー。謝ったでしょう。それにあなただって、私に怪我をさせたんだからおあいこです」
苦笑しながらもひどく懐かしく思える。
「用がないなら気が散るのでお帰りください」
冷ややかな目線を受けつつも、久々に対峙する言わゆる“普通の男性”に、安心感を覚え、嬉しくなる。
「まあ、そう言わず。事件が行き詰まってて、悩んでるんですよ」
「じゃあ尚更こんなとこでサボってないで犯人捕まえてください」
「そうしたいのは山々なんですけど。ははは」
そこで青山が気がつく。
「あれ、マスクの刑事は?一緒じゃないんですか」
「彼は今入院中で」
琴子の困った顔を見て察したのか、青山が目線をガラスに戻した。
「生憎ですけど、今日は俺以外、誰もいないですよ。
教室もないし、隼人も大学の課題に忙しくて、最近は来てないし。
ミューアジアムの方も今は慰霊展の準備で忙しいので」
「あ、別に、誰に用があるというわけではないんです」
「誰にも用がないのに来たんですか?」
「強いて言うなら、咲楽さんに、かな」
青山はまた琴子を見ると、黙って背中を向けた。
「じゃあ、俺は制作に戻るので、好きに見ていって、好きにお帰り下さい」
「それはどうも」
琴子は改めて工房を見渡した。