コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
遠くから経をあげる声が聞こえる。
俺は目を開けた。
続きの和室。
い草の香りがする。
向かって左側に縁側がある。つまりこちらが南。
北側に襖。その上に埋め込み式の神棚。
所狭しと並んだ喪服の人々。
一人の男がこちらを振り返った。
彼に耳打ちをされた、髪を綺麗にまとめた黒着物の女性が、振り返った。
今日も顔はよく見えない。
「―――あなたが、殺したのよ……!」
その声に他の人物たちも振り返る。
皆、鼻も口もないのっぺらぼうだ。
―――俺が、誰を殺したというんだ……!
目を凝らして奥にある遺影を睨む。
―――これが誰かさえわかれば……!
シルエットは男性だ。
少しずつ、
少しずつピントが合うようにその姿がはっきりとしてくる。
通った鼻筋。
少し垂れた大きなめ。
その顔は――――、
「あ!!」
自分の叫び声で目が覚めた。
体中にかいた汗で、衣服が全身に張り付いていた。
大きく胸を上下させながらやっとのことで呼吸を繰り返す。
祭壇の上に置かれた遺影の顔は、
いつかヘラの瞳を通して見た、
自分の顔だった。
◆◆◆◆◆
天井を睨みながら考えていた。
遺影の顔は自分だった。
いや、正確に言えば、自分と似ていた。
自分は死んだのだろうか。
そんな馬鹿な。現にこうして生きている。
であれば、自分の顔は変えられている?
それとも死んだふりして実は生きているのだろうか。
わからない。
そもそも、自分の顔を見たのも、ヘラの瞳を通してだし、何日も前のことで記憶もあやふやだ。
アテナに頼んで鏡を持ってきてもらおうか。
それなら何か思い出すかもしれない。
まあそれは―――
トントン。
ドアがノックされる。
ギイ。
扉が開く。
アテナが盆を持ちながら入ってきた。
まあそれは、彼女がまだ自分に心を開いているならば、だが―――。
目を合わせようとしない彼女を見つめた。
昨日のことを彼女はどう思っているのだろうか。
俺への疑心を濃くしてしまったなら、大失態だ。
一度失った信用を取り戻すのは難しい。
せっかくあそこまで行ったのにーーー。
彼女は淡々と丸テーブルに食事を並べていく。
この匂いは―――カレーだ!
カレールーを入れるグレイビーボートはステンレスで出来ていることが多い。
もしそれに顔が映れば……!
そうでなくてもカレーにはスプーンが必要だ。
今まで準備されていたフォークは映る面積が狭く、凹凸もあり顔はわからなかった。
でもスプーンなら……!
しかし―――
グレイビーボートもスプーンも白の陶器で出来ていた。
「――――」
駄目か。
思わずため息をついた
すると水差しを置いたアテナがぴくりと反応した。
まずい。
気づかれたか……。
息を潜めていると、彼女はカメラに背を向けたまま言葉を発した。
「―――昨日のこと、怒ってる?」
「え」
思わず声を発していた。
―――何を言ってるんだ?
「怒ってるわよね……」
言いながら彼女は水を注ぎながら続けた。
「あなたを拒んだわけじゃないの」
「――――」
どうやらこの女は、昨日セックスを拒んだことを懺悔しているらしい。
「あなたのことは好きよ。でも……ちょっと、怖くて―――」
「怖い?」
俺は眉間に皺を寄せた。
「だって、痛いって言うでしょ……。初めてのときは―――」
「何を話しているの?」
2人同時に振り返る。
そこには数日ぶりに姿を現した、ヘラが立っていた。
「お…奥様……!」
たちまちアテネの顔が青ざめる。
「何が初めてなの?」
ヘラはアテナを睨みつけると、つかつかと歩み寄ってきた。
「あ……あ…」
元来、頭がいいとは言えないアテナは、思考が回らないらしく、ただ額に汗を浮かべながら、近づいてくる女主人を見つめている。
「―――カレーは初めてだと言ったんだ」
俺は助け船を出した。
「好物だから嬉しいと。そうカノ……彼に伝えただけだ」
言うとヘラはこちらに視線を移した。
「随分この男の肩を持つのね、パリス?」
言いながらベッドに近づき手を伸ばすと俺の顎を掴んだ。
「――――っ!」
「私に会えなくて寂しかった?」
こちらを試すように眉を上げて見せる。
―――こんな顔をする女だったか……?
数日前まで自分の上で従順に腰を振っていたとは思えないほどの彼女の変容ぶりに、背中に寒気が走った。
――負けてたまるか……!
「当たり前だろ……」
俺はふっと鼻で笑い、その彼女の手に頬を擦り付けた。
艶と欲望を含んだ熱い視線を彼女に向ける。
「もう俺を、抱かないのか……?」
言うと彼女は目を細めて真っ赤な唇を左右に吊り上げた。
ヘラの背後でアテナが睨んでいる。
俺ではなく、ヘラを。
もし―――。
もしこの二人を仲たがいさせることができたら。
そこにわずかな穴を見いだせることができたら。
ここから出られるかもしれない―――。
ヘラは屈むと、俺の唇に自分のそれを落とした。
「……ん……」
俺も角度をつけて彼女の唇を咥えるように口を開く。
彼女の細い舌が入ってきた。
まるで、蛇みたいだ。
妖艶で、狡猾で、聡明な蛇―――。
唇を噛み舌に吸い付いてくる。
この女には一人では勝てない。とても―――。
でも、戦いの守護神、アテネと二人なら……。
「……我慢できない……」
降伏の言葉を吐くと、彼女は勝ち誇ったようにふっと笑った。
「―――出てなさい……」
彼女はアテナを振り返ると、睨むようにそう言い放った。
アテナは一瞬悔しそうに唇を震わせたが、会釈すると盆を持って退室した。
◆◆◆◆
「……は……ぁあ……あん……」
部屋には久しぶりにヘラのなまめかしい声が響く。
どうして突然また抱く気になったのかはわからない。
気まぐれか、それともただの欲望の捌け口か。
手錠は外されないまま、主導権は100%ヘラが握っている。
目の前で揺れる白く光るような乳房と、スズメバチのようにくびれた腹を見つめる。
相変わらず彼女は女性として美しく、雌として魅力的だ。
言っては悪いが、アテナとは雲泥の差だ。
神はどうしてこうも不公平なのだろうか。
他に選択肢がなくて、身体の快楽に身をゆだね、生命の欲望に素直に従う。
ヘラの手が伸び、俺の乳首を強くつねった。
「……ぁあ!」
柄にもなく掠れた声が出ると、彼女は眉を下げて笑った。
意識を飛ばしそうな快楽に飲み込まれながら、ヘラの肩越しに見えるカメラを見つめる。
おそらく―――
アテナは見ている。
俺とヘラのセックスを。
きっと奥歯を噛みしめながら。
もしかしたら拳を握りしめながら。
もっと嫉妬しろ。
もっと俺を欲しがれ。
そうすればきっと彼女は、
――次のチャンスを逃さない。