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夜も更けた
喫茶 桜の居住スペース。
リビングには時也が一人
書類を整理していた。
机の上には
仕入れ先の帳簿、経費の記録が
整然と並べられていた。
時也の指は
馴れた動作で愛用の羽根ペンを走らせ
静かな夜の空気に
紙の擦れる音が微かに響いていた。
その時——
ー⋯ふわっ
微かに鼻を突く
鉄錆びたような匂い。
血の匂いだった。
時也は
目の前の書類から視線を上げ
眉を顰める。
(⋯⋯やれやれ。
随分と、楽しまれたようで)
穏やかな表情の裏で
溜め息がこぼれた。
時也は立ち上がると
用意しておいたソーレンの服と
タオルを手に取り
玄関へと向かった。
「おーい。開けてくれよ、ママ!」
聞き慣れた巫山戯た声が
玄関の向こうから聞こえる。
——カチャリ
玄関が静かに開いた。
其処に立っていたのは
返り血に塗れたソーレンだった。
スッキリした顔で
どこか上機嫌な笑みを浮かべている。
「⋯⋯ずいぶんと、ご機嫌ですね」
血と硝煙の濃い匂いに
時也は片手で鼻の前を扇ぎ
顔を顰めながらタオルを差し出した。
「足を拭いてから
上がってくださいね?
真っ直ぐお風呂をお願いします」
「なぁ、洗ってくれよー!ママ!」
悪びれもせずに言い放つソーレンに
時也は半眼で睨んだ。
「血と殺しで
気持ちが昂った貴方は
本当に面倒臭いですね?
馬鹿な事を言ってないで
早く狂犬から
人間に戻ってきてください」
「へいへーい」
ソーレンは肩を竦めながら
足を拭き終えると
ご機嫌の鼻歌混じりで
バスルームへと向かっていく。
「⋯⋯はぁ」
その後ろ姿を見送ると
時也は深い溜め息を吐き
彼の着替えを手に後を追った。
バスルームの脱衣場で
ソーレンは既に服を脱ぎ始めていた。
血に塗れたシャツとパンツが
床に落とされる寸前——
時也はそれをひょいと掴み取り
無言で腕に纏めた。
「雑に脱がないでください」
「へいへい⋯⋯ママの言う通りにな」
ソーレンは笑いながら
バスルームに入ると
豪快に浴槽へと身体を沈める。
——ザバァッ!!
お湯が浴槽から溢れ
血と泥が混じった湯が
まるで紅の墨を流したかのように
じわじわと広がっていく。
血塗れの衣服を手に
時也もバスルームに入ってくる。
「なんだよ?
マジで洗ってくれんのか?」
湯船の中でのんびりと腕を広げ
挑発するように言うソーレンに
時也は冷ややかに返した。
「えぇ。洗うのは、貴方の服ですが」
時也は
血塗れの衣服をタイル張りの床に置き
着物の袖を襷紐で慣れた動作で束ね
腰掛けに座ると
手早く服を洗い始めた。
染み込んだ血は
直ぐに洗い流せるものではない。
布地の繊維に絡みつき
頑固に染みついていた。
時也は手を濡らし
静かにその血の痕を
石鹸と共に擦り続ける。
「なぁ⋯⋯」
暫く時也の動きを
浴槽の縁にもたれながら
見つめていたソーレンが
声を掛けた。
「なんです?
何度言われても、洗ってあげませんよ?」
「違ぇよ」
ソーレンの声が
先程までの軽さとは違っていた。
「⋯⋯お前⋯⋯人数、読み間違えたろ?」
時也の指が止まった。
「⋯⋯はい?」
「6人じゃなくて、5人だったぜ。
俺が尋問したんだ」
ソーレンは洗われている
紅く泡立つ服を見つめながら
ぼそりと呟く。
「⋯⋯まさか、僕が読み違えるなんて」
驚きと共に
時也は低く言葉を漏らした。
「だよな?
お前に限ってそんな事はねぇって
俺が一番解ってる⋯⋯」
そう言いながら
ソーレンは天井を見上げた。
「⋯⋯まぁ
アジトに帰ったのかもしれねぇが」
「駆除は済ませたのでしょう?」
「一匹残らず、な?
だから、そん中にいるかもしれねぇな。
だが⋯⋯なぁんか妙だ」
ソーレンの声には
確信のような不快さが滲んでいた。
「⋯⋯気を付けるに
越した事はありませんね」
そう答えた時也の声は
いつもより一段低かった。
タイルに流れ落ちる湯の音が
妙に大きく感じられた。
湯の表面には
まだ血の紅が薄く滲んでいる。
その紅の膜が
闇の中に
何か禍々しい影を潜ませているようで
時也はひとつ、深く息を吐いた。
「⋯⋯今度からは
返り血を浴びないで
帰ってきてくださいね?
貴方なら、造作もないでしょう?」
ある程度の血を洗い流すと
時也は濡れた衣服を絞って纏める。
「それに!」
「あんだよ。まだ文句あんのか?」
「血の染み付いたものがあれば
レイチェルさんも 心配されますよ?
彼女はこの類には
不慣れなんですから」
時也はそう言うと
襷紐を解いて出て行った。
「お袋ってもんが居たら
あんな感じなのかねぇ?」
ソーレンは身体をしっかりと洗い流し
湯気が立ち込めるバスルームを出ると
タオルを頭に押し当てながら
歩き慣れた廊下を進んだ。
微かに漂う石鹸の香りが
血と硝煙の臭いを薄れさせる。
「にしても、引っ掛かるな⋯⋯」
低く呟いた声は
まるで誰かに語りかけるように
重く響いた。
自室の扉を乱暴に押し開け
ソーレンはドカリと
ベッドに腰を下ろした。
タオルで乱雑に髪を拭きながら
じわじわと湧き上がる違和感が
頭の片隅に纏わりついて離れなかった。
「⋯⋯ガキの時に
狩ったハンター共⋯⋯」
ぼそりと呟くと
ソーレンの脳裏に古い記憶が蘇った。
それは、野良犬のように街を彷徨い
血の匂いと闇の中で
生き延びていた頃の記憶——。
アリアの噂が
どこからともなく広がった時。
それに引き寄せられるように
無数のハンター達が
街に流れ込んできた。
そいつらは最初
異様なほど〝馴染んで〟いた。
まるで
その街で何年も
暮らしてきたかのように
自然に溶け込んでいた。
「あの感覚だ⋯⋯」
ソーレンは
じっと濡れた髪から
水が滴るのを感じながら
当時の記憶を呼び起こした。
狩人としての顔をしていない時は
まるで普通の市民のようだった。
近所の市場で野菜を選ぶ姿
街角で立ち話をして笑い合う声——
誰が見ても、ただの一般人だった。
けれど、夜になると——
闇に潜み
まるで訓練された獣の群れのように
アリアの影を追っていた。
目が変わる。
昼間の親しげな表情が消え
鋭い狩人の眼光へと変わる。
「⋯⋯あの時も⋯⋯」
ソーレンは、拳を握りしめた。
日中に捕らえ
尋問したハンター達は
まるで素人のように泣き喚いた。
腕を折られ、指を砕かれ
蹴り飛ばされても
「何も知らない」と訴え
声を震わせるだけだった。
だが——
狩人としての顔をした時
そいつらは全く別人だった。
痛みを堪え、冷たい目で隙を伺い
僅かな動揺すら見せなかった。
その当時のソーレンは
自分にも異能があるのだから
〝人間を駒のように操れる〟奴が
存在するのかもしれないと感じていた。
「⋯⋯思い出した。
そん時と、感覚が似てやがる」
あの5人——
どれだけ痛めつけても
もう一人の存在を口にしなかった理由。
もし、あいつらが——
狩人である事を忘れ
街に馴染んでいた奴らのようにー⋯
『もう一人の存在の
記憶を書き換えられていたら?』
全てが腑に落ちた。
ソーレンは拳を握ったまま
ふっと息を漏らした。
「⋯⋯記憶が無ぇんじゃ
いくら痛めつけても
答えようがねぇわな⋯⋯」
(⋯⋯明日、時也に話してみるか)
自分の考えに納得がいくと
頭の中で渦巻いていた思考が
急に静かになった。
その安堵のせいか
ソーレンは無意識に大きく欠伸をした。
「ふぁぁ⋯⋯っ」
思いのほか大きく開いた口から
肺の奥に冷たい空気が入り込む。
どっと疲れが押し寄せ
身体が怠くなった。
ソーレンは
タオルを枕元に放り投げると
そのままベッドに身を沈めた。
枕に顔を埋めると
布団の微かな柔軟剤の香りが
鼻をくすぐった。
「⋯⋯ったく。こんな事ばっかりだ⋯⋯」
目を閉じると、闇が広がる。
血の匂いが遠のき
代わりにアリアの金髪が
陽に照らされた時の輝きが
ぼんやりと瞼の裏に浮かんだ。
「⋯⋯どうでもいいが
面倒くせぇな」
小さく呟くと
ソーレンはそのまま眠りに落ちた。