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1977年11月21日東京の日本赤十字産婦人科で生まれた。まだ何者でもない僕は、病院でその日そのまま捨てられた。3日後、祖母と名乗る方が引き取りに来て施設に預けられたらしい。小学生になり少しずつ記憶ができてきた。祖母と名乗る人が現れた。明るい声と笑顔のオバさんだった。なんだか暖かく感じた。うちに来るかいと言われ行ってみたら、初めて兄と言う人と顔を合わせた。すごく嫌な顔をされ、汚え顔しやがって気持ち悪いんだよ!って最初の ひと言で言われたのを、後に忘れる事の無い最初の言葉になる。そして祖父と言う人とも、この日に会う事になる。なんだか怖い顔をして胡座をかき日本酒をコップに注ぎ相撲観戦をしていた。僕は、この日をさかいに少しずつ家に通うようになる。新聞配達朝刊が終わり小学校に行く前に祖母の家に寄ってみたら朝ご飯食べたのかい?と聞かれ、食べた事がなかったから、首を振ったら冷蔵庫を開けて何か食べなって言われイシイのハンバーグがあり、食べていいか聞いたら食べていいと言われ初めて食べるから嬉しく食べた。白いお米をわけてもらえたから、2杯も食べさせてもらえた。小学校から下校して、御礼をいいに祖母の家に行くと兄という人が冷蔵庫の中の俺のイシイのハンバーグ誰が食ったって叫んで祖母を呼び騒いでいた。僕は身震いしながら祖母の後ろに隠れたら兄という人に顔にヒビが入るほど殴られ背中にたくさんアザと足は当分普通に歩けないほど蹴られ腕は上がらないほど蹴られた。初めて殺されると思った。イシイのハンバーグで。そして病院に搬送された。何事も無く1週間がすぎ退院して、びっこひきながら新聞配達数日が過ぎ祖母のもとにまた足を運んだ。兄という人は、僕の存在が嫌いで恥ずかしいらしく近所の僕の1個下の子を弟と周りには言っていた。もし目があってしまうと時に握り拳で顔中腫れ上がるほど殴られたり毎回平手で引っ叩かれ後ろから蹴られていた。そんな似たような日が日々続く小中時代だったが、なぜか祖母に会いたく通っていた。中学になり1年だけ血液状の兄と一緒になり初めての体育祭の時、僕を産み捨てた母を遠目で見た。母は兄の体育祭の応援で来ていたらしい。これが最初で最後だ。中学時代の僕の夏と冬休みは、水道工事のバイト夜中は新聞配達普段の学校生活は、1年の時から3年間ずっと1人の女子を愛し恋をし大人の階段を踏むその女子をずっと好きだった。だけど普段かなり荒れていた僕自身の存在に頭を抱え悩み3年間とにかく荒れていた。1年の時から仲良くしてた友達が隣り街の不良同士仲悪い学校を恐れ急に何も言わず2年の時に仲悪い学校に転校した。僕の数人の仲間の1人が、隣り街の不良学校に呼び出しをくらい僕は1人で行かせられないと自転車の後ろのステップに乗り一緒に夜8時頃向かった。着いた先には、もし僕が来なければ1人相手に?って数6人+何故か高校生以上の年齢の人が3人もいた。これには呆れた。この日2人で意味わからないままボコボコにされ自転車でやっと帰った。相手の顔も名前もこの後一生涯忘れる事無く怨み続けている。何故なら中学残り2年僕は毎日この学校の奴らに殴られ金をセビられたり町のお祭りの時には、30人以上の高校生や中学の山武のやつに僕1人呼ばれ囲まれ、ボコボコにされ、仲間呼べと言われ、僕は居る場所わからないし連絡先わからないと絶対口を割らなかった。それもありよけいにボコボコにされた。そんな中学時代だったが外で他の街の学校やタイマンで喧嘩になったり多少の人数相手の喧嘩には、1度も負けた事が無かった。とにかく他校の他町の不良と喧嘩ばかりしていた。中学3年間だった。2年の1月から3月まで他の学校で普通になれるかと強制転校を東京葛飾区上平井の学校にさせられた。全く人間関係が合わず、すぐその学校の不良と喧嘩になりすぐに千葉の元の学校に戻る事になる。何故葛飾区の学校だったかと言うと祖父がアパートを葛飾区奥戸に持っていてその部屋を借りる事になった。そんな慌ただしい荒れた中学生活だったがそんな中学時代を終えて僕は施設と祖母の元を離れ卒業し施設中小中と貯めたバイト代の通帳を持ち東京葛飾区でペンキ屋さんに入社した。小さいボロアパートに住み生活を始めた。普通に真面目に仕事をして金を貯めて2年が立つ頃、普通に生活をしていたら、仕事終わり晩飯買いにコンビニに行くと葛飾区上平井中学の2カ月だけ同じクラスだった女にバッタリ夜のコンビニで会い声をかけられた。【これがこの先の僕の人生と運命を狂わせ壊す女だった。】1年以上住む場所が無く家出をしていると言われそうなんだ大変だねって最初はスルーしようとしたら、「お酒一緒に飲みたいな〜」と、誘ってくる。僕はお酒と晩御飯をコンビニで買っていた。【当時は年齢なんて関係なくコンビニで酒もタバコも見た目が社会人なら買えた。】最初は、断った。だけどなんか洋服を掴んで来て家行きたいなって甘え声と目線でくっついて来る。下心は、その時まったく本当になかったがお腹が減っていた僕はしょうがなくアパートついてくるこの女を連れ帰った。TVを見ながら晩御飯を食べビールを飲みホロ酔いの僕にこの女の子は股間を触ってきて僕はビックリしたまま何故かそのまま夜を明かしてしまい朝、裸のその女を寝かせたまま仕事に行った。帰宅したら、まだ居て何故か住み着いた。その日のSEXで双子の子供が出来ていた。結婚するしかないのかと、中学時代のずっと付き合っていた女子を迎えに行く事も出来ないまま、この女と籍を入れる事になった。出来た子供には罪は無いし、子供は好きだし育てたかった。だがお腹が大きくなり7カ月目くらいからこの女の行動は毎日おかしかった。なんとお腹に子供が居るのに外に他の男を作っていた。これにはビックリしてブチ切れた。無事双子を出産したら、すぐこの女は出ていった。僕は0歳の双子を育てるのに仕事所では無くなった。仕事も無くなり必死で赤ん坊2人を育てて2カ月が経つ頃、男にフラれた女がノコノコ帰ってきた。僕は何のようだって怒鳴って追い返したが、仕事ができないし生活できなくなる事もあり、しょうがなくまた泊めた。イライラしてお酒を飲みTVを見ていたら同じ手にハマり、またその日に子供ができた。鉄筋屋の仕事をしながら生活を取り戻そうと頑張っていた。半年が過ぎ3人目がお腹で9カ月目の時に仕事から帰宅するとマンションに双子の赤ん坊が放置されていた。度々こんな事があるから、近くで買い物だろうと思っていたが、この時は亀戸天神を見下ろした。またも腹ぼての生まれる前なのに男と居た。僕はさすがにブチ切れマンションから降り亀戸天神でこの男と喧嘩になりそうになったが、よくよく考えたら、このバカ女も相当悪くブチ切れ何故か初めて、この時僕は、絶対あってはならないが我慢の限界で六発も顔面をブン殴り相手の男を帰らせた。無理矢理連れ帰り上で話をするつもりが、産んだら出て行けと言って終わった。そして出産して、その男の所に出ていった。またも仕事を失い千葉に戻り、祖母と祖父に力を初めて借りた。僕は一切寝泊まりしないから、子供3人を寝泊まりさせてくれと頼んだ。そしてお昼は子育てをして夜中アルバイトの生活が始まった。そんな生活をしていたら、まさかの僕の中学時代の仲間達の半数と、この子供達3人の母親はSEXする関係を持っていた。僕は信じれる人が全く居なくなり、僕の地元でまた会った、この3人の子の母親をまたブチ殴りまくった。もう気が狂ってきていた。僕はだんだん子育てを放棄しそうになりながらかっとうしていた。地元も信じられない仲間も信じられない女の架空涙嘘ばかり信じる男共と国と児童養護係の役所の役人達。もう男の僕が何を言っても話は聞かない。だから提示した。子供の母親に母親は東京の子供の児童手当と母子手当が目当てだった。母親に僕は3年以上働いた証明があるなら子供3人手放すよって。子供を少しも育てた事も無い母親に。双子が6歳になり三男が5歳になりついに小学生だって思いランドセルも買いなんだかんだ頑張って子供を育てていたいつも通りの祖母の家での夜に子供を寝かせ僕は泊まらせてもらえないからいつもどおり夜外にでて、いつも通り駅前の小さな居酒屋によりホロ酔いで小さな1kロフト付きの超小さなボロアパートに帰る予定だったが、この日は違かった。駅前で飲んだ後、久しぶりに成田のBARに飲みに行った。そしたらそこに、いつも地元駅前で呑み屋の常連の美容師の沖縄女性が同僚と呑んで居た。なんで僕の行きつけ2件目の隠れBARを知ってるのってくらいビックリした。呑みながら話もはずみ、彼女は酔い潰れたフリをしたらしい。同僚の子に寮に送ってあげてもらえますかってまかされた。アパートがすぐ近くだったから一緒に帰りながら、何故か僕のアパートに来る事になり彼女は僕なんかに恋をしていてくれていた。僕は子供3人も居るんだよって言ったら、わたしが一緒に育てるよって、なんくるないさって、満面の笑みで言われた。僕は涙が止まらなくなり、永遠の恋をこの時一瞬でした。彼女は今の美容室を辞めて地元に帰りたいと話していた。だから一緒に沖縄行こうって。僕達は子供3人を連れて沖縄に移住する準備で沖縄に飛んだ。沖縄に飛んで2日目に祖母から電話が入り役所の人間と子供の母親が嘘の作り話をたくさん並べ迎えに来て子供3人連れてっちゃったって急に言われた。この日から僕は子供達と会う事も出来なくなり、子供が施設から誰かに引き取られたと聞くまで、ずっと探し続ける日々が数年続いた。足立児童相談所に散々電話したり、6年間僕が育てた証明になりそうな写真たくさんも送ったりして色々したが、男の僕の話を全く信じない始末。「のちに子供を引き取った新たな親から色々子供の母親の事を聞いて散々な女だったと知った事だろう。」僕と沖縄の愛する妻は、2人で子供を作る事無く、13年沖縄に住み妻の両親ともすごく仲良く生活をしていた。普通に仕事をして妻は美容室僕は沖縄そば屋さんで働き生活をしていた。那覇新都心で人生の親友が出来る。僕がコーヒー店で、なにか気になる男性に話しかけた。沖縄の人じゃ無いよね?って。そしたら北海道苫小牧から沖縄に船で移住しに来たって言う。一瞬で意気投合して、人生で初めて本当の友達が、この時出来た。こうして夫婦共々この苫小牧男と、たくさん沖縄をグルグル周り居酒屋に毎日飲みに行き毎日騒いで楽しんだ。だけど彼には口に出さない心の悩みがあったのを僕は感じていた。そのうち話てくれるだろうと信じていた。僕は彼なら絶対最高の女性が現れて彼を大切にしてくれる女性で病気になった時もお互い支えあえるような人と出会えるって散々呑みながら話をした。彼は突然沖縄から何も言わず去り東京に居た。僕に急にラインで東京にいる事を知らせてきた。僕達夫婦は居てもたってもいられない気持ちになり、妻は僕のワガママにそのまま何も言わず乗ってくれた。僕達は子供も探せるしと思い神奈川に飛んだ。そして神奈川移住が始まった。だが僕の体にだんだん異常が出来てきた。糖尿で尿酸値も高く高血圧で薬がとても多く具合悪い生活が始まっていた。親友は東京に居たようだが北海道苫小牧に帰って居たようだ。神奈川生活も落ち着き初めて、妻は美容室で働き、僕は丼屋さんで働いていた。急に親友が苫小牧から遊びに来た。久しぶりに会いテンションが上がり、この日すごく楽しい日だった。僕の病気は、どんどん進行していて膵臓のグローブ領域に水泡が2個も出来ている非常に珍しく治らない病気になっていて、日常生活が骨折の何倍もの激痛で耐えれない生活をしいられる生活になっていった。膵臓の病気と同時に十二指腸が鉛筆の芯しか通らないほど腫れてしまい、こちらも悪循環で治らない状態で、その後食事をほぼ取れなく8年過ごしている。親友は母親の色々な援助や助けも有ったようで、色々うまく行き、外では、お嫁さんとも出会い苫小牧にマイホームを持ちリッチになり楽しい幸せな生活をその後送っている。僕は仕事もまともに出来ない体になり、少しでも何か無理すると、すぐ入院で多額にお金がかかる生活になっている。妻に申し訳ない気持ちで毎日過ごし生きている。いつ首を吊ろうかとか、お金も全く無くなってしまい、いまは、病院代がかさみ借金が膨らみそんな状況を役所や年金センターに話をしても、僕の病気は過去の症例が無く、なんの支援も受けらなく多額の年金や税金の請求を、何度働けない状況だと話をしても、病院先生から書いてもらえると話をしても受け入れてくれなく話も聞いてくれなく請求し続けてきて、払えないのに利息までたくさんのせてくる。こんな状況で、息子達3人を見つけた。長男次男は父親は要らないからと言って2度と会う事は無いだろう。三男は奥さんも居て娘2人も居て現在は連絡を多少取りあったりキャンプには2回行くくらいの距離で残りの人生を少し見ていられるくらいの仲には自然になった。これからも、ちょうど良い距離でいれたら良い。いまは妻を幸せにして僕は死にたいのだが、僕はこれから膵臓と十二指腸を取り胃にバイパスを開け新しく腸に繋げる手術をする。どんな後遺症が出るかは、検討もつかないらしい。生まれてからもうずっとくたびれた。44歳今年45歳になるのに、8年も食事も色々して我慢もしてきたのに、手術で良くなると思った矢先に、後遺症かと…最後の光が…2022年8月10日北○大学病院で手術予定。