「友也くんは元気?」
総務課長が額の汗をハンカチで拭く寒河江に言う。
「元気ですよ。最近、やっと風邪もひかなくなって」
友也というのは、2歳になる寒河江の息子だ。総務課長の孫と同じ保育園に通っているとかで、よく子供の話題をしている。
「今が一番かわいいでしょ。ね」
なぜかこちらに話題を振ってくる。
(知らないよ、2歳の子供なんて。涎垂らして、世の中には自分の敵はいないって感じで愛想振りまいて、あざといだけじゃないの?)
「ねー。何しても可愛い時期ですよね」
心の中で吐いた毒とは裏腹な言葉がサラサラと流れ出てくる。
思えばこのスキルを習得したのも、寒河江と付き合うようになってからな気がする。
「いやあ、可愛いは可愛いんですけど、俺としては早くキャッチボールとかしたいすね」
寒河江が屈託のない表情で微笑む。
「男の子だからいいわね」
課長も微笑む。
(私だってキャッチボールくらい、できますけど?)
心の中の呟きがあまりに幼稚で、愛も微笑んだ。
寒河江の乗りこんだ試乗車が去っていく。
デスクに戻った愛は、離席中に奈緒子によって無言で置かれた発注書の山を見て、小さくため息をついた。
スクリーンセーバーになり、シャボン玉が飛び交うディスプレイを眺める。
シャボン玉同士がぶつかり、色が変わる。
ピンク色。水色。黄緑色。黄色。
視線を上げる。
社内に独身の男性がいないわけではない。
近しいところでいえば、最近入社してきた大沢も確か独身だ。
そのブロッコリーのような髪形を見る。
(でも、これは。ないかな)
苦笑しながら少し上体を引き、事務所を見回す。
営業課にも独身は何人かいる。
仕事ができる柳原課長だって、去年、独身に戻ったばかりだ。
珍しく社内でパソコンを叩いているその端正な横顔を盗み見る。
うんと若いころに結婚し、すでに上の子は妻帯者らしい。
(じゃあもしかしたら、もうすぐ孫が生まれるかもしれないってこと?)
その事実に目を丸くする。
(孫がいる男はちょっと、な)
口元を緩めながら視線をずらす。
営業課。吉野マネージャー。
彼も独身だ。
仕事は柳原に次いで出来るほうで、定期的に数百万の大きい仕事を取ってくるし、発注書にも抜けがない。
しかしーーー。
脇に座っている同じく営業課の小口を見る。
(同期と無駄に仲がいいんだよね)
デスク以外でも、駐車場やコンビニで二人の姿をよく見かける。
もし吉野と付き合ったとして、そのそばを、ちょろちょろと小姑のごとく小口がうろつくのは不快だ。
正直、遠慮のない彼女の発言が苦手だ。
はっきり言って、派手な化粧も、つけている香水の匂いも、無駄に良い営業成績も、全部嫌いだ。
(あ。なんかムカついてきた)
ないだろうが、もし万一、あの2人が結婚とかなったら、藁人形入りのテディベアカップルでも送ってやる。
自分の発想にぞっとしながら、キーボードを打った。
画面の中では、七色のシャボン玉がパチンと割れて水滴が飛び散った。
18時になった。
時間勤務の配送の男たちが一斉にタイムカードを押しに事務所に入ってくる。
ジーーーー ガシャッ
ジーーーー ガシャッ
ジーーーー ガシャッ
ジーーーー ガシャッ
次々に業務終了の音が鳴り響く。
愛はハンドバックにスマートフォンを突っ込むと、まだ山のような発注書がデスクに積まれている奈緒子を見た。
「何かお手伝いすることはありますか?」
一応声をかける。
「ううん。大丈夫」
ディスプレイから目を離さずに奈緒子が答える。
そうだろう、そうだろう。
時間給の人間に残業をさせるなと、上から口を酸っぱくして言われているはずだ。残業代がその分かかるから、と。
一方彼女たちは、あらかじめ残業手当が月額2万円支給されているため、残業させられ放題だ。
それもかわいそうだがーーー。
(プラス2万円もらえるのも悪くないなー)
思いながら立ち上がる。
「じゃあ、お先に失礼します」
周りの社員が力ない相槌を返す。その中に奈緒子の声が聞こえたかはわからなかった。
タイムカードを押す。
ジーーーー ガシャッ
業務終了の音が鳴る。
愛はバックをぶらぶら振りながら、事務所を後にした。
車に乗り込み、スマートフォンを起動する。
『お疲れ。髪色変えた?』
やはり。
期待通りの文面に思わず口元が綻ぶ。
『昨日、美容院に行ったの』
返すと、すぐ既読がつき、返信が来た。
『やっぱり。綺麗だと思った』
机を並べる奈緒子やブロッコリーを含めた会社の人間が誰も気づかなかった変化に、寒河江はいち早く反応してくれる。これは付き合う前から変わっていない。
『早くその頭を撫でながら、したい』
絵文字も顔文字もないその淡白な文面が、愛の下半身をじんわり温かくする。
『エッチw』
エンジンをかけながら視線を上げる。
正面に駐車されている奈緒子の車がヘッドライトの光に浮かび上がる。
女性が乗るのには似つかわしくない、大型のRV車。なんであんなのに乗ってるんだろう。
かわいくない。
(やっぱりあの人ヴァイシャだわ)
思わず鼻で笑う。
愛は昔から、女をインドのカースト制度になぞらえて階級分けするのが好きだった。
最高位、バラモンは、結婚して、夫に愛され幸せに暮らしている女。子供はいてもいなくても可。
第二位のクシャトリアは、結婚はしていないが、男に愛され、幸せな日々を過ごしている女性。その先に結婚があってもなくても可。
第三位のヴァイシャは、男以外に楽しいことを見つけて、充実した人生を送っている女性。離婚歴があってもなくても可。
そして第四位のシュードラは。
自分を愛していない男に振り回されている女。
つまりは二番手、三番手の女。
まあ要するに。
愛のことだ。
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