結局、寒河江と会えたのは、美容院で1万9千円もかけたヘアエステの効果が落ちかけた二週間後だった。
待ち合わせ場所である、大型パチンコ店の第二駐車場に車を停めると、少し離れたところで停車していた寒河江の車が近づいてきた。
一昔前のプレミアムセダン、カモリの運転席から降りてきた寒河江は、愛がドアを開けると、その手を取った。
お姫様というよりは、ハリウッド映画のワンシーンのように、引かれる手に照れながら、しかし数十メートル先に見えるパチンコの派手な看板の間抜けさに、込み上げる笑いをこらえながら、本革シートに座り込む。
「ごめんね、待った?」
「いや、さっき来たところだよ。会社を出るときに、お客さんから電話入っちゃってさ。予定よりちょっと遅れたんだ」
―――なんだ。じゃあ、もっと遅れてくればよかったかな。
インパネに光っている時計を睨む。
約束の時間より、わざと15分遅れてきたのに。
待たせているのは愛だとわからせるために。
待っているのは寒河江だと思い込むために。
この端から見たら馬鹿らしい駆け引きが、愛にはとても大事だった。
だってそれがもし逆なら。
――――馬鹿な女、丸出しじゃない。
この関係の力関係は絶対に崩れてはいけない。
愛が寒河江に付き合ってあげているのだ。
寒河江が、少し高い夕食と、少しロマンティックなシチュエーションと、少しの性的快感を与えてくれる代わりに、愛はその貴重な時間と若い身体を提供してあげる。
待っているのは寒河江。待たせているのは愛。
その順番は絶対に崩れてはいけない。
愛だけのためではなく、二人のために。
美味しい海鮮料理を出すイタリアンの店を出てから、ホテルまでのタクシーの中ではお互いほとんど言葉を発しなかった。
ただその手は絶えず触られている。
まるでそこを、《《ソコ》》として扱うように、人差し指の先から、指を這わせてきて、それと中指の間にグリグリと押し付ける。
ゾクゾクと鳥肌が立つ。、
そこを楽しんでから、一気に付け根に差し込まれる。
「っ」
思わず声が出そうになる愛を、寒河江は笑いながら手への愛撫を繰り返す。
まるで、普段は視覚で感じることのないそのいやらしい動きに、本当にソコを弄られているような錯覚に陥り、愛は恥ずかしさに目をつむった。
「ちゃんと見て」
寒河江が囁く。
その声に従い薄く目を開けると、上に返した寒河江の中指が掌を刺激している。
だんだん動きが早くなっていく。
中指と人差し指の間から差し込まれた指は、強く早く、擦り始めた。
いつの間にか薬指も加わり、中指と二本で、手を擦られる。
愛は耐えられなくなり、瞳を閉じた。
ホテルの部屋に入ると、愛は我慢できなくなり、自分から寒河江の頬を両手で包み込み、背伸びをして唇を求めた。
それでも高さが足りない愛を愛おしそうに見下ろしてから、寒河江が背を丸め、それに応える。
始めに感じるのは柔らかさ。
次に感じるのは、お互いの温度。
最後に感じるのは、他人の唾液への違和感と一体感。
自分のが寒河江に溶けて、寒河江のが愛に溶けていく。
それがどんな強い酒よりも、愛を酔わせていく。
息が漏れる。
堪らなく切なくなって、寒河江の胸元のワイシャツにしがみつく。
コロンと、煙草と、男の匂い。
どちらからともなく、唇が離れる。
窓から漏れる夜景の光で愛のまつげが白く光る。
寒河江に今、自分はどう見られているのだろう。
既婚者に簡単に股を開く尻の軽い女だと思われているのか。
それとも、元彼に振られた勢いで体の関係を結び、それをずるずる続けていくような頭が軽い女だと思われているのだろうか。
ほんの少し不安になり、彼の首元に顔を埋めた。
「このコロンの匂い。好き」
言うと寒河江は「そうだ」とつぶやいて、スラックスのポケットから手のひらサイズの小さなテディベアを取り出した。
「愛がこの匂い、好きだっていうから、この子にしみ込ませてきたよ」
愛はキョトンとしながらその白いベアを手のひらに乗せて視線の高さまで上げた。
くんくんと鼻を寄せる。確かにそのコロンの香りがする。
「寂しい時はこれを抱いて俺を思い出して」
(ーーーやられた!)
これは、明らかにマウントだ。
愛は心の中で舌打ちをした。
寂しがっているのが愛であること。寂しがらせているのが寒河江であること。そのことを知らしめるマウント行為だ。
「あ、ありがと」
少し呆れたような顔をして、愛はそれをハンドバックの中に入れた。
「あれ、あんまり嬉しくない?」寒河江が片目を細める。
「そんなことないけど。ちょっと発想が面白いなって思って」
精一杯のマウント返しを行う。
だが本当はどこかでわかっていた。
きっと愛は、今夜、夜中に帰ったアパートの部屋で、これを抱いて眠るだろう。
明日も明後日も、寒河江と会えない夜は、きっといつでも、そうするだろう。
自分の両手が、滲んだ涙のせいで歪んで見える。
今日、会えることが決まり、慌てて駆け込んだネイルサロンで磨いてもらった爪が嫌味なく輝いている。
白く長い指。
十本のそれが、自分でいうのもなんだが、美しい。
「んんっ」
こんなに余裕のない声を出したいわけじゃないのに、寒河江に後ろから突かれる度に、入ってくる質量分の声が出てきてしまう。
なんで気持ちがいいと、掌にまで熱と切なさが溜まってくるんだろう。
だから愛の手は、シーツを握りしめる。
骨と血管が甲に浮き上がる。
その手を寒河江が包み込む。
男らしく日焼けした手。毛深いほうではないが、筋肉はついているほうだと思う。
愛の手が粘土細工だとすれば、寒河江の手は荒々しい木彫りだ。
その対照的な二つが合わさり、握りしめあっているのを見ながら、愛は堪らなく妖艶な気分に浸った。
(やっぱり、こっちのほうがいいかも)
愛は全身を包む快感に酔いしれながら思った。
こんな気持ち良いことができるシュードラの方が、ヴァイシャより何倍もいい。
脳裏に奈緒子の顔が浮かぶ。
愛は彼女に聞こえるように、わざといやらしく誇張した喘ぎ声を張り上げた。
辛い煙草の香りがした。
目蓋を開けると、寒河江がソファに座りながら煙草に火をつけている。
煙草を吸っている男の姿は、なぜこんなにセクシーなんだろうと思う。
目を覚ましたことを悟られなうに、その顔を盗み見る。
今、彼は何を考えているのだろう。
仕事のことだろうか。
金曜日の夜だ。
愛たちは明日からお休みだが、寒河江たちは逆に土日が勝負の職業だ。
明日から始まるイベントのことを考えているのだろうか。
それとも今夜は、親戚の家に泊まると言っていた、妻と息子のことを考えているのだろうか。
二歳になる息子は人見知りが激しいと、うちの総務課長と笑っていた。神経質で困るとも。
社交的な寒河江とは似てないんだな、と勝手に解釈している。
きっと内向的で卑屈で神経質で、暗くてブスな妻に似たのだろう。
(はは。性格わる)
自分で自分に呆れて出たため息に、寒河江が振り返る。
「ーーー今度の連休、さ」
どうやら9月のシルバーウィークのことを言っているらしい。
「旅行でも、いこっか」
(———————!!)
堪えろ!
脳みそが司令を出す。
ここで「予定がある」と断れば、主導権は完全に愛に戻ってくる。
それが難しければ「考えとく」と濁して一週間くらい引っ張れ。
せめて「ちょっと調整してみるね」と二、三日でも…。
「ーーー行く」
枕に顔を埋めながら言う愛に、寒河江は「どこ見ながら言ってんの」と笑った。
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