ソーダ水の青に、さようなら
朝から降り続く雨は、午後になっても止む気配を見せなかった。
放課後、駅までの道をしょうは傘を差さずに歩いていた。
制服の袖がじわじわと濡れて、身体も心も重たく感じる。
「しょう」
聞き覚えのある声が、雨音を裂くようにして届いた。
振り向くと、そこにいたのはないこだった。
白い傘を差しながら、息を少し弾ませて、彼女のもとへ駆けてきた。
「びしょ濡れじゃん。何してんの」
「別に…ちょっとだけ、濡れて歩きたかっただけ」
しょうは笑うつもりだった。でも、うまくいかなかった。
表情を作ろうとしただけで、喉の奥が痛くなる。
ないこは黙って、自分の傘を差し出した。
ふたりの間に静かな距離が生まれ、それを雨が静かに埋めていく。
「今日、話したいことがあったんだ」
「…うん」
小さな喫茶店に入った。
冷えた身体に温かい空気が染みる。
窓の外では、雨粒が静かにガラスを叩いていた。
ないこはメニューも見ずに、ふたり分のソーダ水を注文した。
氷がカランと音を立てて、炭酸が弾ける。
「なんで、ソーダ水?」
「前に言ってたじゃん。しょうが“ソーダ水ってなんか懐かしい味する”って」
「…そんなこと、言ったっけ」
「俺、結構覚えてるよ。しょうのこと、いっぱい」
そう言って笑ったないこの笑顔は、いつもと変わらないはずなのに、どこか遠く見えた。
「俺、来週、転校するんだ。父さんの転勤で、北海道に」
しょうは一瞬、耳を疑った。
でも、心のどこかで「やっぱり」と思っている自分がいた。
「…そうなんだ」
それだけがやっとだった。
グラスに口をつける。
シュワっとした甘さが舌を包むのに、胸の奥は苦しかった。
冷たい炭酸が喉を通るのと同時に、気づけば頬を一筋の涙が伝っていた。
ないこは、その涙に触れなかった。
優しさで、そっと見て見ぬふりをした。
「しょうに会えてよかったよ。最初から、最後まで」
その言葉は、優しいくせに、あまりに残酷だった。
しょうは答えなかった。
ただ、最後にもう一度、ソーダ水を口に含んだ。
懐かしくて、悲しくて、涙みたいに泡が消えていった。
雨は、帰り道も止まなかった。
だけどしょうはもう傘を差した。
失くさないように、大切なものを守るみたいに。
ソーダ水の青、ふたたび
あの日、雨の喫茶店で交わした別れの言葉から、しょうは毎日のように空を見上げるようになった。
ソーダ水の泡のように、触れれば消えてしまう記憶。
それでも、忘れたくなかった。
ないこが転校してから半年。
季節はめぐり、秋を越えて、春がまたやってきた。
しょうは高校二年になった。
新しいクラス、新しい制服。
だけど、胸の奥にはずっと、あの炭酸の弾ける音が残っていた。
*
春のある日、しょうは友人に誘われて放課後の文房具店に立ち寄った。
店内をふらふらと歩いていると、ふと目に留まったのは、一冊のノート。
表紙には、青い空を切り取ったような、淡いスカイブルーの絵。
「…これ」
思わず手に取ったそのとき、背後から聞き覚えのある声がした。
「それ、しょうが好きそうだなって思った」
振り向いた。
――いた。そこに、ないこが立っていた。
変わらない声。少し背が伸びた姿。
それでも、彼だった。間違いようもなかった。
「…え? …うそ…なんで」
しょうは言葉にならないまま、声を震わせた。
「こっち、戻ってきたんだ。父さんの転勤、また変わって。もうこっちに住むことになった」
「…なんで、連絡してくれなかったの」
「…したかった。でも、またすぐ離れるかもしれないって思ったら、しょうをまた泣かせるかもって…」
しょうは黙って、ノートを胸に抱いた。
言葉が喉の奥で詰まって、なにも言えなかった。
「今はもう大丈夫。もう、行かない」
ないこはまっすぐ彼女を見つめて言った。
「それに、どうしてももう一回、会いたかった」
「……」
「最後に、ソーダ水、もう一杯だけ一緒に飲みたいって」
それは、あの雨の日の続きをやっと迎えに来た、やさしい申し出だった。
しょうは笑った。
涙がまたこぼれそうだったけど、今回は笑って応えた。
「じゃあ、喫茶店、行こっか」
*
あのときと同じ席、同じメニュー。
グラスの中で炭酸が泡を弾けさせていた。
ないこは少しだけ緊張した顔で、グラスに口をつける。
「しょう。俺、やっぱり――好きなんだ。ずっと。忘れられなかった」
しょうは一瞬目を見開いて、それから、ふっと笑う。
「私も。…ずっと、あの日から止まってた」
「もう止まらなくていいよな?」
「うん、もう、動いていいよ」
ふたりのソーダ水が、テーブルの上で音を鳴らした。
それはまるで、再会を祝う小さな花火のようだった。
*
それからのふたりは、季節を並んで歩くようになった。
夏は一緒に花火大会へ行き、
秋は落ち葉の上を並んで歩き、
冬にはホットココアを分け合って笑った。
そして春。
桜の舞う校庭で、ないこが照れくさそうに手を差し出す。
「しょう、俺と――卒業しても、ずっと一緒にいよう」
しょうはその手をぎゅっと握り返した。
「…うん。約束」
その約束は、今度こそ、
儚くも消えない――
ソーダ水の泡のように弾けて、空に溶けるような、
まぶしい幸せの音だった。
コメント
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桃白ぉおおおお!ふつーに教科書に載ってそう、、w