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『舞姫』それは、異国の地で生まれた、あまりにも儚い恋の物語。
留学中の青年と、そこで出会った少女の絆が、
祖国へ帰らねばならないという現実に、静かに押し潰されていく――
そんな話だと、人は言う。
初めてその本を読んだのは、留学前の春だった。
理解しきれないまま、それでも胸の奥に、ざわめきだけが残った。
――どうして主人公は、帰国を彼女に告げなかったのか。
ページを閉じたあとも、その疑問だけが、指先に残り続けていた。
けれど今なら、その沈黙の理由が少しだけわかる気がする。
あの物語の主人公が抱えていた苦しさのわけは、きっと。
愛しい人を、悲しませたくなかったからだ。
自分のために泣かれるくらいなら、いっそ嫌われてもいい。
どうしようもなく身勝手なまま、無慈悲に消えてしまいたい。
そうすれば――
貴方は、私を諦めてくれるかもしれない。
そんな感情が、この胸にも、静かに芽生えはじめている。
彼の、低く落ち着いた声が耳に残る。
ふと振り返ったときに、真っ直ぐこちらを見つめる灰青色の瞳。
大したことのない会話なのに、なぜか心の奥が、温かくなった。
それが、恋だと認めるには、まだ早いはずなのに。
もし、この平穏が終わってしまう日が来たら。
もし、私が何も言わないまま、この地を去ることになったら。
言葉にできない想いの輪郭が、ひそやかに震える。
『舞姫』を読み終えた、あの日よりもずっと鮮明に。
私は今、
恋という名の感情が、人をどこまで弱くするのかを。
そして――どこまで残酷に、優しくしてしまうのかを、知りはじめていた。
それからの日々は、不思議なほど穏やかで、惜しむようにゆっくりと過ぎていった。
講義へ向かう石畳の道も、
書庫の奥に漂う紙とインクの匂いも、
窓辺に差し込む午後の光さえも、
すべてが、ぬくもりを残したまま胸の奥へ沈んでいく。
その理由は考えないようにした。
ーー考えたくなかった。
帰国の日が近づいていることを、自分自身にすら、はっきりとは言葉にしないまま。
一日一日を、そっと指先でなぞるように過ごしていた。
彼と交わす会話は、相変わらず他愛のないものばかりだ。
天気の話、本の話、故郷の些細な習慣。
けれど最近は、その一つ一つの音が響くたびになぜか指先が冷えるようになった。
笑うときは、意識して口角を上げた。
少し大げさなくらい、楽しそうに。
沈黙が生まれそうになるたびに、慌てて言葉を探した。
何も変わらないふりを、上手に続けるために。
――気づかれたくなかった。
別れが近いことも、
私が、それを隠していることも。
けれど。
彼は何も言わずに、少しずつ変わっていった。
視線が、以前より長くこちらに留まるようになり、
時折、私の顔を見つめたまま、何か言いかけては飲み込むことが増えた。
まるで、確かめるように。
私は、その沈黙が怖かった。
だからこそ、何も知らないふりを続けた。
大丈夫、まだ時間はある
そう言い聞かせるように、同じ言葉を繰り返しながら。
けれど、季節は正直だった。
風は次第に冷たさを帯び、
街路樹の葉は色を深め、
夕暮れは、日に日に早くなる。
それは、彼との日々の終わりが近いことを、
誰よりも雄弁に告げていた。
「最近、よく考え事をしているな」
彼はふと、私の手元を見て言った。
不意を突かれて、思わず瞬きをする。
「……そう、でしょうか」
「ああ。講義中も、歩いているときも」
そう言って、彼は視線を逸らした。
まるで、それ以上踏み込むことを、自分で制しているみたいに。
「……俺には…とても無理をしているように見える」
いつもと変わらない低く落ち着いた声。
責めるでも、問い詰めるでもない。
ただ、確かめるような響き。
「……私は大丈夫ですよ。ドイツさんは…本当に優しいですね」
反射的に、そう答えてしまう。
彼はすぐには返事をしなかった。
代わりに、ほんの一瞬、私の手元――
書物の端を握りしめた指先に視線を落とす。
「そうか」
それだけ言って、彼はそれ以上何も尋ねなかった。
その沈黙が、なぜか胸に刺さる。
何も言われていないのに、
何も知られていないはずなのに、
それでも――
この人は、気づいているのかもしれない。
そんな予感だけが、静かに胸の奥に沈んでいった。
そんな胸のざわめきを抱えたまま、季節はいつの間にか、冬へと移ろっていった。
吐く息が白くなり、朝の空気が骨まで染みる頃。
ドイツさんとの約束のため、靴に足を通す。
彼と会う最後の機会。
明日には、もう私はいないのだから。
約束の場所は、いつもの広場だった。
石畳の中央に立つ古い噴水は、冬の冷たい空気の中でも変わらず水を湛えていて、空の色を淡く映している。
ーー何度も来た場所だ。
それなのに、今日だけは、足を踏み出すたび胸の奥が小さく軋んだ。
明日、私はこの街を離れる。
そう思うだけで、見慣れた景色が、どこか遠く感じられてしまう。
「待たせたか」
低く落ち着いた声が、背後からかかった。
振り返ると、そこにいたのはいつもと同じ姿の彼。
濃い外套に身を包み、冬の光を受けた灰青色の瞳があった。
けれど――なぜだろう。
今日は、その姿が少しだけ、記憶に刻みつけるべきもののように見えてしまう。
「い、いえ。私も、今来たところです」
そう答えながら、自然に笑えているかどうか、自分でもわからなかった。
並んで歩き出す。
歩幅を合わせる癖も、沈黙の間合いも、すっかり身体に馴染んでいるはずなのに。
会話は、相変わらず他愛のないものだった。
けれど、その一つ一つが、胸の内で、そっと数えられていく。
ーーあと、どれくらい、こうして話せるのだろう。
その考えが浮かぶたび、慌てて打ち消した。
噴水のそばで立ち止まったとき、彼がふいに歩調を緩めた。
「……日本」
名前を呼ばれただけで、心臓が小さく跳ねる。
「少し、渡したいものがある」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が掴めなかった。
彼は外套の内側に手を入れ、慎重な動作で、小さな箱を取り出した。
「な、なぜ……」
思わず、そう口にしていた。
彼はすぐには答えなかった。
代わりに、私の顔をまっすぐに見つめる。
「……帰るんだろう」
その一言は、低く、静かで。
けれど、冬の空気よりも冷たく、確かに胸に落ちた。
「……やはり、気づいていたんですね……」
声が、少しだけ震えた。
彼は小さく息を吐き、視線を外す。
「全部じゃない。ただ……最近のお前は、まるで」
そこで言葉が切られ、少しだけ口角が緩まった。
言葉の途中に落ちるわずかな間。
灰青色の瞳が、何かを測るように細められ、
すぐに、逃がすように伏せられる。
「――覚えておくために、生きているみたいだった」
最後の音だけが、冬の空気に溶けきれず、ほんのわずかに揺れた。
それでも彼は、感情を整えるように視線を戻す。
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
箱を差し出され、ためらいながら受け取る。
指先が触れた、その一瞬が、やけに熱かった。
「……これは……」
箱の中に横たわっていたのは、掌に収まるほどの小さなブローチだった。
銀色の細い縁取りの中に、白く淡い花弁が幾重にも重なっている。
派手さはなく、けれど不思議と目を離せない静けさがあった。
花の中央には、わずかに青みを帯びた石が埋め込まれていて、光を受けるたび、雪解け水のような輝きを宿す。
ーーエーデルワイス。
山の奥、手の届かない場所に咲く花。
強い風にも、冷たい雪にも耐え、なお静かに咲き続ける花。
指先でそっと触れると、ひやりとした感触が伝わってきた。
けれど、それはすぐに、体温に溶けるように柔らかくなる。
「……綺麗です」
思わず零れた声は、いつもより少しだけ震えていた。
これを選ぶまで、彼はどんな顔で店先に立っていたのだろう。
どんな思いで、この花を手に取ったのだろう。
考えた途端、胸の奥が、きゅっと縮む。
この小さな花に込められた時間も、迷いも、言葉にされなかった想いも、
すべてが、今、私の掌に集められている気がした。
飾りとして身につけるには、あまりにも静かで、控えめで。
けれど――だからこそ。
この人らしい、と。
そう思ってしまった自分が、少しだけ怖かった。
私は、無意識のうちに、箱を閉じる。
まるで、この輝きを、今すぐ誰にも見せたくないかのように。
胸の奥に、確かな重みが残った。
それは、物としての重さではなく、
思い出として、これから先も離れずにいるものの重さだった。
「この花は、こちらでは特別な意味を持つ。
花言葉は――『大切な思い出』だ」
ひとつひとつ、噛みしめるように耳に落ちてくる。
「……他にも、昔からの風習で、これを贈る意味はあるが……」
そこで、彼は言葉を止めた。
「……いや。なんでもない」
「?」
戸惑う私に、彼は静かに微笑んだ。
「知らなくていい。少なくとも、まだな」
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
「あ、あの……とても、嬉しいです。でも……私は、ドイツさんに何も……」
「気にするな」
きっぱりとした声だった。
「俺が、渡したかった。それだけだ」
それでも言葉に詰まる私を見て、彼は少し考えるように目を伏せる。
「……なら」
顔を上げ、まっすぐにこちらを見た。
「次に会ったときに、返してくれ」
「……え……つぎ……?」
「ああ」
その声音には、不思議な迷いのなさがあった。
「次は、俺が日本のところへ行く」
一拍置いて、ゆっくりと続ける。
「何十年後になろうとも、
会える保証がなくても――
俺は、日本を探し続ける」
あまりにも無謀な約束。
そう理解できるのにーー
胸が、どうしようもなく苦しくて、嬉しくて。
「……そんな……暴論……ドイツさんらしくないですよ」
そう言いながら、視界が滲むのを止められなかった。
彼は、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「たまにはいいだろう。こんな時があっても」
「……ふふ……そうですね」
ブローチをそっと箱に戻し、胸元に抱いた。
「では……もし、会えたら。
この贈り物のお礼を、必ずします」
「ああ」
「だから、失くすなよ」
「もちろんです。大切にします」
噴水の水音が、静かに響いていた。
冬の空の下で、私たちは、言葉にしない約束だけを、確かに交わしていた。
ブローチを受け取ったあとも、時間は静かに流れていった。
街を歩き、温かい飲み物を買い、何気ない会話を交わす。
笑っているはずなのに、心だけが置いていかれそうになる。
気づけば、空はすっかり夜の色だった。
「……もう、こんな時間か」
その言葉に、小さく肩を震えた。
彼に迷惑なのは分かっている。
ーー分かっているはずなのに、どうしようもなく想いが溢れてしまった。
「……もう少し、一緒にいたい、です…」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
「最後の……我儘です」
彼は一瞬、何か言いかけてから、わずかに目を細めた。
その瞬間、冷えた手と手が交わる。
そうして、夜は少しだけ、長くなった。
街灯の下を並んで歩く。
昼よりも近い距離。
それだけで、胸が苦しくなる。
いつもは賑やかな公園通りは、冷たい風を纏って私たちを見守っているようだった。
しばらくして、彼がふと歩みを止めた。
「……日本は…」
「…いつ、祖国へ帰るんだ」
静かな声だった。
けれど、逃げ場のない問い。
すぐには答えられなかった。
――明日だと言えば、この人は、きっと……
「…私を見送ってくださるつもりなのですね」
「…」
ほんの数秒の沈黙のあと、小さく息を吸った。
「………内緒です」
彼が、わずかに目を見開く。
「最後の日に、ドイツさんがいたら……」
「……帰りたくなくなってしまいます……」
言葉が、自然と零れた。
自然と熱くなった顔を緩ませる。
視線を落とすと、胸元のブローチが、かすかに揺れた。
彼は、しばらく何も言わなかった。
そして――
そっと、顎に添えられた手の感触が体を震わせる。
「……なら」
次の瞬間、唇に、ぬくもりが触れた。
短く、けれど確かに残るキス。
冬の夜とは思えないほど、温かい。
触れ合うそれが離れたあと、しばらく動くことができなかった。
「……っ」
言葉にならない声。
顔は、きっと真っ赤だ。
彼は、ほんの少しだけ笑って、私を見下ろす。
「忘れるなよ」
その一言に、胸がきゅっと締めつけられる。
ーー忘れるはずがない。
この温度も、この感触も。
唇が離れてからも、しばらく息が整わなかった。
胸の奥が、じんわりと熱を持ったまま。
「……ずるいです」
思わず零れた言葉に、自分で驚く。
彼は一瞬目を瞬かせてから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「何がだ」
「……や、やっぱり何でもないです…」
彼の視線が、こちらから逸れなかった。
むしろ、楽しむように、わずかに細められる。
揶揄うつもりだ、その視線に気づいた途端、
言葉は胸の奥で引っ込んでしまった。
視線を落とせば、頬の熱だけが正直に残っていた。
彼はそれ以上、何も言わない。
ただ、歩調を合わせるように、すぐ隣にいた。
別れの時間が近づいていることを、二人ともわかっていた。
けれど、その事実に名前をつけることは、最後までしなかった。
宿の前に着いても、すぐには離れられずに、立ち尽くす。
「……今日は、ありがとうございました」
彼は何も言わず、ただ頷いた。
ーー明日、私はこの国を去る。
それを告げなかったことに、後悔は、なかった。
なぜなら今、胸に残っているのは、別れの予感ではなく――
確かに触れた温度と
忘れないと言われた、その声だけだったから。
部屋に戻り、コートを脱いだあとも、
唇に残る感触が、ふとした瞬間によみがえる。
そっと指先で触れると、
また頬が熱くなる。
ーーきっと、遠く離れても。
時間が過ぎても。
私はこの夜を、甘い秘密として、胸の奥にしまって生きていく。
それでいい。
それがいい。
『舞姫』の物語が、
沈黙のまま終わったとしても。
私の恋は、
確かに、ここに在ったのだから。
コメント
6件
この話を最初からずっと読ませて頂いていました…。本当に泣きそうなぐらい感動したしました。今の私に一時の感動と、悲しみなどの気持ちを与えて下さったことに本当に感謝いたします。やはりクロネコさくら様のお話は別格ですね…!!一つ一つのお話が時を感じさせ、まるでそこに居るかのような感覚を感じます。ここまで心が揺らいだのは久しぶりです…。そして…独日さいこぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
尊い…そして切ない…(((泣 早く結ばれてくれぇ(((泣
絶対またこの2人は巡り合わないと…そしてしっかり結ばれてくれッッッ