コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
リオンが夢を叶えた喜びとその夢の中で避けて通れない現実に向き合う日々を歩み出した頃、ゾフィーはついつい癖で作りすぎてしまうドーナツをどうしようかと思案に暮れていた。
そんな彼女に優しく声を掛けたのは、彼女が作るドーナツが好きですと穏やかに言ってくれるマザー・カタリーナで、今度バザーに出しましょうと笑い、カゴに山盛りになっているドーナツをひとつ摘んで美味しそうに食べるのを見たゾフィーは、マザーまで摘み食いをしないでと腰に手を宛がう。
『本当ですね』
あなたが作ってくれるドーナツが美味しいといつもリオンが言っていたが本当に美味しいですねと、まるで少女のように口元を手で覆い隠してくすくす笑い、もう一つ摘んだかと思うとゾフィーの口の前に差し出してくる。
『マザー?』
『あなたもひとつ、どうぞ』
これを食べればあたしも摘み食いの犯人になっちゃうと笑ったゾフィーだが、マザー・カタリーナの笑顔に釣られてついドーナツを頬張り、我ながら最高の出来だと笑う。
『美味しい』
『ええ、美味しいです。わたくしが作っていたものよりもしっとりしていて、本当に美味しいです』
マザー・カタリーナの言葉にゾフィーが照れたように笑うが、初めて作り方を教わった時から思えばかなり上達したでしょうと自信と照れとを混ぜて問いかけると、マザー・カタリーナが胸の前で手を組んでにっこりと笑みを浮かべて大きく頷く。
『はい。何処にお出ししても恥ずかしくないくらい美味しいドーナツですよ』
彼女の最大級の誉め言葉にえへへと笑ったゾフィーだったが、廊下から騒々しい足音が響いた直後にキッチンのドアが勢いよく開いたため、二人同時に飛び上がる。
『ゾフィー、腹減った! メシ!』
『お帰りなさい、リオン』
『あんたね、帰って来るなり腹減ったはないでしょう!? それに、帰ってくるならどうして前もって言わないの!』
帰ってくると分かっていれば可能な限りのおもてなし料理を作ったのにと頭から湯気を上げかねない勢いでゾフィーが腰に手を当てて頬を膨らませる横では、マザー・カタリーナがドーナツが入ったカゴを手に持ち、帰って来るなり小言を聞かせるなと舌を出すリオンに差し出していた。
『どうぞ、リオン。今日の出来は最高ですよ』
『マジで? ――あ、ホントだ。ゾフィー、マジで美味い。これ、誰かに渡すヤツか?』
空腹を抱えているリオンにとってはゾフィーのドーナツは定番中の定番で、最高の出来だと言われても信用できないと思いつつ食べて己の疑念を一気に晴らす。
『これ、全部食うぜ?』
『ちょっと、全部はダメよ』
『良いだろ? チビ達に食わせる分は後で作れよ、ゾフィー』
その自分勝手な言い分にゾフィーが絶句し、マザー・カタリーナが困ったように眉尻を下げながらも少し前に独り立ちしたリオンを優しく見守るように手を組む。
『、一人暮らしを始めてどうですか? 困った事はありませんか?』
『あ? あー、うん、大丈夫、かな』
帰ってくる度に困った事はないか、ちゃんと食べているのか、仕事には遅刻をしないのかと問われて辟易しているリオンだったが、それがリオンを思っての言葉であることを理解している為に少々素っ気ない態度であっても心配は掛けないと笑みを浮かべ、ドーナツをひとつふたつと口に入れる。
『不都合っていうかさ、ずっと外食ってのは飽きてくるもんだな』
ここにいた時はマザーやゾフィーの手料理が食えたのにと煙草を咥えて頬杖をつくリオンに二人の女性が顔を見合わせて家で作らないのかと問いかけるものの、質問の内容が悪すぎたとゾフィーが溜息を吐く。
『あんたが料理をする訳がないわね』
『当たり前だろ? なー、ゾフィー、メシ作りに来てくれよー』
ついでに部屋の掃除をしてくれるともっと嬉しいと甘えた声と顔で彼女を見上げるリオンの顔の傍に手をついたゾフィーは、独り立ちしたのだから食事ぐらい自分で用意しなさいと笑い、でもどうしてもと言うのならここに、ホームに帰って来なさいと笑みの質を変える。
『……ダンケ、ゾフィー』
でも自分は一度ここを出た人間なのだ、もう戻れないと肩を竦めるリオンに今度はマザー・カタリーナがゆっくりと首を左右に振り、そんな遠慮は必要ありませんと笑う。
『独り立ちをしたからあなたの家ではない、そんなことはありませんよ、リオン』
『マザー?』
『あなたがここを出たとしてもここがあなたの家であったことに変わりはありません。あなたが帰ってきたいと思えばいつでも帰ってくればいいのですよ』
もちろん、独りで歩き出したあなただから帰ってくるのではなく一時的に疲れた羽を休める為に立ち寄り再び飛び立てる力を得たらまた羽ばたいていけばいい、その為の場所でもあるんだと目を伏せるマザー・カタリーナにリオンが瞬きをするが、鼻の頭を指先で引っ掻きながらもごもごと小さく何かを呟いたかと思うと、優しく見守るようなゾフィーに腹が減ったからメシの用意をしてくれと照れ隠しに叫ぶ。
『ゾフィー、メシ!』
『あたしはごはんじゃないわよ!』
彼女の前で繰り広げられる口論にマザー・カタリーナはくすくすと笑い、いつまでもこんな関係でいてくれますようにと密かに祈る。
マザー・カタリーナの祈りを知ってか知らずか、二人はぎゃあぎゃあと言い合いを続けるが、どちらもその表情は明るく楽しそうなものだった。
一頻り騒ぎ終えた二人は、テーブルに腰を下ろして二人で同じように頬杖を突き、こうしてバカみたいに言い合いが出来るのがやっぱり良いなと笑う。
『そうね……本当に楽しいわね』
もしも今こうして向かい合わせに座って笑っているのが自分だけの家で、その相手もリオンであるならばどれ程幸せだろうかと想像した彼女は、隣にマザー・カタリーナが腰を下ろしたことに気付いて罪悪感に胸を痛める。
彼女がいるからこそ自分たちはこうしてここで家族のような関係でいられるのに何を考えているのだろうかと自嘲すると、マザー・カタリーナが何も知らないはずなのにすべてを知っているような顔で頷いてそれで良いのですと彼女を肯定してくれる。
『あなたもですよ、ゾフィー』
『え?』
マザー・カタリーナの唐突な言葉の意味を理解できずに笑顔のまま彼女を見たゾフィーは、古くても手入れされて光っているマリア像のような笑みを浮かべて胸の前で手を組むマザー・カタリーナに目を瞠って次の言葉を待ってしまう。
『あなたも、独り立ちしたいと思ったときはそうしてもいいのですよ』
ここの仕事とわたくしのことを考えすぎてここに止まる必要はないのですと、穏やかに子どもを思う母の顔で笑みを浮かべたマザー・カタリーナは、ゾフィーが呆然と見つめてくる頬を撫でて良いのですよと小さく頷く。
『あなたが出て行くのは本当に寂しいことですしそうなれば困ったことが沢山出てくるでしょう。――でも、それでも、本当にやりたいことがある、ここにいては出来ないことがあるのならここを離れても良いのですよ』
『マザー……っ』
『その代わり、毎日とは言いませんが毎週必ず電話をするなり顔を見せるなりして、わたくしを安心させて下さいね』
片目を閉じて茶目っ気たっぷりに話すマザー・カタリーナに無言で頷いたゾフィーは、リオンがにやにやした顔で見つめてくることに気付いて頬を赤らめる。
『何よ!』
『何でもねぇよ』
『だったらそんな顔しないでよ!』
『あぁ!? 顔のことは俺のせいじゃねぇだろうが』
先程までは和気藹々と楽しそうに笑いあっていた二人だったが、些細な切っ掛けで声が大きく高くなっていくのは幼い頃からまったく変わることのない関係だった。
いつまで経っても子どものようなんだからとゾフィーが憤慨しきりの顔で言い放つと、リオンがそれに反応するよりも先にマザー・カタリーナが握った手を口元に宛ってくすくすと笑い出す。
『ちょっと、どうして笑うのよ、マザー!』
『そうだそうだ! 笑ってねぇでゾフィーを黙らせてくれよ、マザー』
二人の子どもから同時に怒鳴られて首を竦めたマザー・カタリーナだが、どちらも本当に変わらないのが嬉しい、どうかいつまでもこのままの二人でいて下さいと二人を見たため、毒気を抜かれてしまったゾフィーが椅子の背もたれに寄り掛かり、リオンも煙草に火を付けてテーブルに懐くように上体を折る。
『ゾフィー、腹減った。早くドーナツ食わせてくれよ』
『あ、そうだったわね。全部食べるのだけは止めなさい、リオン。持って帰る分を今から作ってあげるから』
口ではどれだけ悪態を吐こうがやはりリオンの願いは叶えてやりたい思いが強いゾフィーがすぐに用意をするから待っていなさいと告げて立ち上がり、マザー・カタリーナの頬にキスをすると、マザーも摘み食いではなくちゃんと食べてと片目を閉じるのだった。
古いコンクリートが剥き出しになっているアパートで己の命が刻一刻と失われていく苦痛を味わっているのは、数え切れない暴力を受けて顔が腫れ上がり、片目しか開けることが出来なくなっていたゾフィーだったが、乳房に煙草を押しつけられた痕や赤や青の痣があり歯も何本か欠けているような女でも今己を犯している男は勃つのかと胸の裡で冷たく笑い、最早何をされても感情が揺らぐことが無くなったと自嘲する。
男達にこうして慰み者にされているが、こうなる前に郵便ポストに投げ入れた手帳は無事に届けられ、そこから事件の解決に向けて警察が動き出しているのだろうかとぼんやりと考え込んでいると、コンクリートを荒っぽく踏みつける足音が響き、その勢いのままドアが開いていつもとは比べられない量産品の靴を履いた男が肩で息をしながら入って来る。
「――いつまでセックスしてりゃあ気が済むんだ!?」
お前の脳味噌にはセックスしか詰まっていないのかと、日頃の比較的丁寧な言動からは想像がつかない荒い語気で言い放った男は、何事が起こったのかが分からない顔で見つめてくる部下の太ももを蹴りつけ、椅子に腰掛けて見守っていたもう一人の男の顔を力任せに拳で殴る。
「!」
「あの教会でこいつの血痕が見つかったと警察に通報が入った」
今日受けた通報から教会への捜索が入ったことを忌々しげに吐き捨て、そろそろ足が付きそうだからここも引き払うことを告げ、脅えた顔で見てくる部下の前に唾を吐き捨てるが、感情的になっても仕方がないと思い直して溜息を吐き、気分を鎮める為にキャメルを取り出して火をつける。
「今日はもう無理だが、明日の夜、日が沈めば移動する」
だからそれまでにこいつを始末しておけと部下に感情の籠もらない声で告げた男は、部下の一人が明日の夜と呟いた事に煩わしそうに頷き、時間についてはまた詳しく話をするがとにかく明日にはここを離れてドイツを出国すると呟くと、何処に行くんだと問われて唇の端を持ち上げる。
「そうだな……お前達が今まで行ったことのない場所だな」
この街で軽い罪を犯しては何度も刑務所に入っていたお前達が拝んだことのない光景を拝ませてやると笑う男に二人が顔を輝かせて頷き、ならばその為の準備をしておくと請け負う。
「ああ、そうしておけ」
男の笑みに酷薄さが増したことに気付かなかった二人は、そこに女はいるのかと下卑た笑いを立てて互いの肩をたたき合う。
その、行ったことのない場所がどこであるかを想像出来ない二人を憐憫の思いで見つめた男は、ぼんやりと自分たちを見ているゾフィーに気付き、ベッドに近づいて変わり果てた顔を見下ろして冷たく笑う。
「いい顔になったじゃねぇか」
「……」
以前は平均的な顔立ちに負けん気の強い双眸がきらりと光る美人だったが、今や見る影もないと、そうさせた張本人が憐れみの笑みを浮かべると細くしか開かない目で彼女が男を見上げる。
「お前には良い思いも悪い思いもさせて貰ったな」
今まで彼方此方で仕入れた女達の評判も悪くなかったし稼げるだけ稼がせて貰ったと礼を言った男は、何かを思い出したようにスーツの内ポケットからマネークリップで纏めていたユーロ紙幣を取り出すと、二人の男が驚きと羨望と物欲しさに見つめているのを知りながら彼女の素肌の上に紙幣を一枚ずつ時間を掛けて落としていく。
「お前の好きな金だ、受け取れよ」
彼女が金を必要とする世界に二度と戻れないことを知りながら男が笑い、彼女の痣が浮かぶ身体を金で覆うように一枚、また一枚と落としていく。
「金に包まれて眠れるなんて羨ましいぜ」
「…………本当、に、……」
「なんだ?」
「ゲスな……男」
そこまで捻くれた考えで今まで良く表の仕事をしてこられたと笑った彼女と同じように男も何らの感情を揺らがせることはなく笑みを湛えたまま金を撒き終え、その金を欲しそうな顔で見ている部下に喉が渇いたからビールを持って来いと命じてその背中を見送ると、白い手袋を素早く嵌めてジャケットの内側から黒光りする拳銃を取りだして呼吸するような自然さで安全装置を解除し、ビール片手に戻って来た部下の一人の頭を躊躇することなく撃ち抜く。
「!?」
今まで隣で馬鹿な話題で盛り上がっていた仲間の身体が全身に電流が通ったようにびくんと硬直した後、まるでスローモーションのように背後に倒れる様を呆然と見た残りの男は、己のこめかみ辺りに風を感じたと同時に熱と激痛を感じるが、それが何に由来するのかを確かめる事が出来ず先に倒れた男に折り重なるように倒れ、身体をぴくぴくと痙攣させた後、見開いた悔しそうな瞳から光を消してしまうのだった。
「……かわい、そう……」
「人に同情していられるのか?」
次はお前だと笑う男にゾフィーがすべてを諦観したものの静けさで笑みを浮かべ、この有様だし今まで己が犯してきた罪を思えば生きて帰れるとは思っていないと告げると、見下ろしてくる男の目をじっと見つめて小さく笑う。
「あんたも……良い死に方、しないわ……ね」
「……うるせぇ」
「人は、……どのように生きたか、で……死に方、が……決まる、のよ……」
あたしは金が欲しいとただそれだけを願って何人もの人達を不幸にしてきた、だからこんな最期を迎える、自業自得なんだと笑ったゾフィーを男がついに堪えきれなかったのか、手にした銃床で腫れ上がって酷い色の痣が浮かぶ顔を殴る。
「……ぐ……っ……」
痛みに顔を顰めたゾフィーだが、男の顔が歪んでいることに気付き、今度は彼女が憐れみの笑みを浮かべる。
「お金が欲しい……、ずっと……思ってた、け、ど……」
今振り返ってみれば、ささやかすぎる、日々を生きるためだけの糧であってもそれを手にすると満足な顔で感謝の言葉を心の底から告げられる人達に囲まれていたことに気付き、自分は本当に幸せだったと笑ったゾフィーは、お金が無くても心が満たされている人達がどうかこの先、同じ過ちを犯しませんようにと祈り、満足そうに目を閉じる。
「殺す、んでしょ……。好きに、したら……?」
今更殴られようが蹴られようがここのアパートから投げ捨てられようが構わないと、まるで澄み渡った静かな湖面のような心で告げた彼女だったが、聞こえてくるのが舌打ちと苛立たしそうな足音だけだった為、細い視界で室内を見回し、男の姿がないことに気付くと力を込めて身体を横臥させてベッドから滑り落ちる。
床で一度小さくバウンドした彼女は、痛みを感じなくなりつつある身体に最後のように力を込めて腕を伸ばし、力の入らない腕で必死に前に進もうとする。
彼女が顔を上げた先には二人の男が目を見開いたまま倒れていて、自分の身体を蹂躙していた時の狂暴さよりも不測の事態に理解できない顔のままの二人に苦笑し、あの二人も生き様に相応しい終わりを迎えたのだと気付き、救いようのない人生を送ってきただろう二人の魂が救われますようにと祈ると、不思議なことに身体の奥底から力が湧いてくる。
その力がどこから湧いてくるのかを考えると自然と一人の女性の顔が思い浮かび、その顔が脳裏で鮮明になると更に力が湧いてくる。
「……マザー……っ……」
その人物は彼女が幼い頃から常に優しく温かな笑顔で包んでくれていたこと、小さな古い教会の古いマリア像の手入れをする度にいつか自分も彼女のような優しく強い女性になれますようにと祈っていたことも思い出すと、己の最大の罪はこんな所で一人でいる事のように感じてしまい、冷たいコンクリートの床に爪を立てるように力を込めて砂袋のように重く感じる身体で入口へと這っていく。
自由に出来る金が欲しいと常に餓え渇いた心で願い、正しい道を踏み外して幾人もの女性達を苦しめ、彼女達の怒りや絶望の涙を見るのが辛くてわざと冷たくあしらってきたが、間もなく生を終えるかも知れない今、心の底から彼女達に謝りたかった。
そして、この事件のせいで世間から冷たい目に曝されるだけではなく、彼女の崇高な心や行いが汚され貶められるだろうと考えるだけで膝をついて許しを乞いたくなる。
「マザー……、……ごめ、んなさ……い」
最後に彼女と話をしたのはリオンに問い詰められていた夜で、あの時心配そうに見つめてきた彼女に別れも謝罪の言葉もちゃんと伝えられなかったゾフィーの胸がずきんと痛み、自然とマザー・カタリーナに対する謝罪の言葉が口から流れ出す。
マザー・カタリーナに対する謝罪に重なり、愛してやまない男の顔が浮かぶと、彼女の顔がくしゃりと歪む。
「……なに、よ……そんな、顔……しない、で、よ……」
脳裏に浮かぶリオンの顔はゾフィーの怪我を笑っているようで、いつものように強気な言葉を弱々しく発した彼女は、脳裏で笑みを浮かべるリオンとその横で胸の前で手を組んで笑みを浮かべるマザー・カタリーナの姿に安堵の溜息を吐く。
「マザー、リオンが……ひどい、のよ……」
こんなにも怪我をしているあたしを笑い飛ばすんだからとマザー・カタリーナに不満を訴えると、穏やかな声が本当に仕方のない子ですねと彼女の肩を持つように頷く。
「ほ、ら、謝りなさ……い、よ、……リオ……ン」
今すぐ謝れと笑った彼女にリオンのいつも見続け見守ってきた憎たらしい顔がくしゃくしゃと笑み崩れ、ゾフィーの前でしゃがみ込んで大きな手を彼女に向けて差し出してくる。
その手に手を重ねるように腕を持ち上げたゾフィーの手からユーロ紙幣がひらりと舞い落ち、こんなものの為に自分は掛け替えのない二人に深く癒えることのない傷を与えてしまうのかと考えるだけでその手を取ることが出来なくなるが、脳裏に響く声に身体を震わせる。
『悪いことをしてきた俺をいつもハグしてくれたのはお前だろ?何でお前が今更遠慮するんだよ』
何を遠慮することがあると笑う顔にそうねと笑顔で頷き、手を伸ばして幻のリオンの手に手を重ねる。
お帰りなさい、ゾフィー。良く帰って来てくれましたね。
その、優しく温かで彼女やリオンが実はもっとも望んでいる言葉を当然のように伝えてくれるマザー・カタリーナにようやく素直な気持ちになれたゾフィーは、コンクリートの床に手を落とし、擡げていた頭も落として冷たい感触をまるで彼女の胸に飛び込んだ時のような心地良さに感じて目を閉じる。
「……ただ……い、ま……、……か……さ、……リ、オン……」
自分だけの家がずっと欲しかったけど、もう手に入れていたのねと、気付かなかった己の愚かさに笑いがこみ上げてくる。
何を笑っているんだとリオンに怪訝な顔で問われ、何でもない、マザーとあんたがいてみんながいる、そこが自分の家でありその家の中にこそ自分の幸せがあったんだと今気付いたと告げると、リオンが呆気に取られたように目を瞠るが、彼女が心の底から愛している子どものような笑顔で今頃気付いたのかと笑われる。
うるさいわねぇ、今頃でも気付いたのだから良いでしょう、それよりあんたもちゃんと目の前にある大切なものを見失わないようにしなさいよと返し、もう少し早く気付けばいいのにと口笛を吹く憎たらしいが愛すべき男の腕に腕を伸ばすと、今まで感じていた身体の重さが嘘のように消えていて、いつものようにリオンの腕に腕を回してぎゅっとしがみつく。
今までのようにこうして腕を組むことはもう出来ないが、あんたを誰よりも何よりも大切にしてくれるあの人といつか神の御許で再会するまで仲良く暮らしなさいとひっそりと呟くと、白とも銀ともつかない髪を持つ穏やかな風貌の男がしっかりと頷いた気がし、すべての悩みから解き放たれたような心地良さに包まれる。
腕を組んでもしがみついても疑問にすら思わない、二人の間ではごく当然のその行為にゾフィーの顔にも笑みが浮かび、今からとっておきのドーナツを作るから待っていなさいと隣にある愛しい男の顔を見上げ、早く作ってくれ、今すぐ食いたいと騒ぐリオンといつ現れたのか呆れた顔で煙草の煙を細く吐き出すカインに無言で急かされた彼女は、今度は自分たちのすぐ傍でくすくすと笑って見守っているマザー・カタリーナの腕を取って早く家に帰ろうと笑う。
「……まって……なさ……、……す……ド……ツを……る、か……ら……」
小さな頃からあんたが大好きだったドーナツをすぐに作るからカインと二人で好きなだけ食べなさい、でも出来ればゼップの分も残しておいてあげなさいと、いつの間にか元に戻った長い髪を掻き上げながら腰に両手を宛がって笑ったゾフィーは、愛するリオンの満面の笑みに眩しそうに目を細め、一足先にホームのドアを彼女のためだけに開けて待っているマザー・カタリーナの元へと走り出すのだった。
コンクリートの床に頬を押し当てたまま力尽きたゾフィーだったが、生前の面影もない程腫れている顔ではあっても、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
彼女が一人静かにその生を終えて暫く経った頃、アパートを出て行った男が戻ってきたが、微笑んでいるような彼女の顔を無言で見下ろし、表情を変えることなく彼女の手に二人の男を撃った銃を握らせると、最早振り返ることもなく三人を残して部屋を出て行く。
もうこの街で仕事をすることは無理だった。
ゾフィーの失敗が自らの足を引っ張ることは目に見えていたし、フィレンツェからは帰還命令が再三届けられているのだ。
幼馴染が組織の頂点にいるという理由から母国のイタリアではなくドイツで別動隊のように動く許可も貰って好き勝手なことをし、カモフラージュで続けてきた表の仕事もそれなりに面白おかしくそつなくこなして同僚とも良い関係を築いてきたが、さすがに今回の件を聞きつけた幼馴染からの帰還命令には従わざるを得なかった。
アパートの階段を気怠い顔で下りて大通りまで歩いていった男は、通り掛かりのタクシーを捕まえて乗り込んで中央駅を指示すると、笑って死んだであろうゾフィーと己を比べてしまい、彼女の最後の笑みが脳味噌にこびり付いていることに気付いて煩わしそうに頭を振る。
命を落とすというのは結果的にはすべての勝負に負けた者の末路だと思っているが、己の常識で言えば敗者が満足した者のような笑みを浮かべて死ぬなどあり得ないことだった。
今まで己が見てきた敗者の末路は皆同じで、命乞いをしながらであったり最後の最後まで諦めずに抵抗したりと、命を長らえる為に文字通り死に物狂いになっていたのに、どうしてあの女は笑って死んだのだと疑問を覚えるが、お前には理解できないだろうと嘲笑われているように感じて苛立ちから爪を噛んだ男は、運転手からの問いかけにも全く答えず、中央駅につくと同時に投げ捨てるように料金を支払うとタクシーを転がるように降りる。
駅のホームでその日最終のフランクフルト行きのICEのチケットを買い、出発を待っている列車に飛び乗ると、得体の知れないものに追いかけられていたような強迫観念から逃れられたのか、ネクタイのノットをぐいと緩めて大きく息を吐く。
フランクフルト行きのチケットを何気なく見つめているとポケットが微かに振動し、メールの着信に気付いて携帯を取り出すと、メールを読み進めて短く全て終わったと返事をする。
返信も短く早く帰ってこいという文面だけで、それに返事をする気力がなくなり溜息を再度吐くと、今回の件でフランクフルトから派遣されてきた男の顔を思い出し、フィレンツェに着いたら幼馴染に彼の始末をどうするか相談しようと決めてチケットをジャケットの胸ポケットにしまう。
フランクフルトのFKKではそれなりに良い思いをしてきただろうし、何よりも己の表と裏の顔を知っている存在がいるという事実は男にとっては都合の悪いものだった。
フィレンツェとは離れているからこそ好き勝手に動いていた、その事実を報告されてしまうことも厄介だと気付き、いつどのように彼を始末するかを思案するが、穏やかな白とも銀ともつかない髪を持つ男の顔が不意に浮かび上がり、握った拳を窓枠に叩き付ける。
あの男が手帳を持って来なければ、何とか誤魔化しながらこれからも今まで通りあの職場で働いていられたのだ。
なのにあの女に託された手帳だと言ってそれを持ってきた男のお陰で、親友以上に感じていた男と居心地の良かった職場と馴染んでいたこの街を離れなければならなくなったと歯軋りをし、フランクフルトから来た男の始末と同時に己を追い払うことになった男への報復もしなければならないとひっそりと誓う。
今はまだその時ではないが、いつか必ず機会が訪れるはずだ。
その機会を逃さないように今からしっかりと爪に磨きを掛け、獲物が網に引っ掛かるのを待とうとほくそ笑むと男が小さく欠伸を漏らす。
「――チャオ、ドク」
次に会う時には是非ともいい顔を拝ませて貰おうと笑い、もう一度欠伸をした男は、煙草が吸いたいと笑うものの車内は禁煙だし開けたばかりのキャメルのカートンを職場に残してきた事を思い出すと仕方が無いと溜息を吐き、フランクフルトに到着するまで浅い眠りに落ちるのだった。
この日のフランクフルト行き最終のICEは、フィレンツェへの出国を最終目的に定めた男を乗せてゆっくりと、だが徐々に最高速度を目指して走り始めるのだった。