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トワ
会議の日の朝は、静かだ。
校舎が、という意味で。
心は最初から騒がしい。
職員室に入り、上着を脱ぎ、机に荷物を置く。
身体が覚えている動線で、私はコーヒーを淹れに向かった。
会議前のコーヒーは、もはや儀式だ。
これがないと、頭が会議モードに切り替わらない。
――ウィーン。
いつもの音。
いつもの香り。
「よし、今日もやるか」
そう思った瞬間、視界の端に白い紙が入った。
掲示板。
いつもは見ない。
でも今日は、なぜか目に入った。
《本日断水
トイレは流れません
水を溜めたバケツと柄杓で流してください》
……。
一回、読んだ。
意味は分かる。
二回、読んだ。
まだ分かる。
三回、読んだところで、感情が追いつかなくなった。
「……え?」
声が出た。
人は本当に困ると、「え?」しか言えない。
バケツ。
柄杓。
その二つの単語が、私の中で不穏な音を立てる。
隣の先生は落ち着いたものだ。
「工事らしいですよ。午前中」
午前中。
つまり――会議が一番長い時間帯。
私は、すでに淹れてしまったコーヒーを見つめた。
湯気が立っている。
香りがいい。
ここで飲まなければいい。
理屈では分かる。
でも人間は、理屈より習慣で生きている。
私は飲んだ。
うまい。
その瞬間、頭の奥で誰かが言った。
――今日、お前は試される。
⸻
会議は九時開始。
会議室に集まる先生たちの顔は、どこか似ていた。
誰も言わない。
でも全員、分かっている。
流れないんだよな。
議題は真面目だ。
行事、指導、連絡、調整。
私はメモを取り、うなずき、教師として正しい顔をして座っていた。
ただし、内側では別のカウントが始まっている。
――コーヒー、効いてきた。
まだ余裕。
これは「予感」の段階。
会議は進む。
正確には、進んでいるようで進まない。
「確認ですが」
「念のため」
「前提をそろえると」
会議を長引かせる三種の神器が、惜しみなく使われる。
私は姿勢を正す。
集中している風を装いながら、膀胱への圧を分散する。
これはもう、技術だ。
四十分経過。
コーヒーが本気を出し始めた。
私は、トイレのことを考えないようにする。
考えると、
バケツ。
柄杓。
ジャボ。
音まで想像できてしまう。
――ダメだ、考えるな。
⸻
休憩五分。
行くなら、今。
私は立ち上がり、静かに会議室を出た。
走らない。
焦らない。
トイレの前には、噂通りのセット。
水を溜めたバケツ
柄杓
想像よりも、生活感がある。
個室に入り、用を足す。
ここまでは普通。
問題は、その後。
柄杓を手に取る。
水をすくう。
思ったより、重い。
――ジャボ。
音がでかい。
学校のトイレで聞く音じゃない。
もう一杯。
――ジャボ。
何杯が正解なのか分からない。
誰も教えてくれない。
人生と同じだ。
私は「これ以上は減らせない」という直感で止めた。
次の人のことも考える。
今日のトイレは、有限資源だ。
手を洗おうとして、止まる。
水は出ない。
アルコール消毒を強めに使い、
「今日はこれで許してくれ」と世界に謝った。
⸻
会議後半。
私は一仕事終えた顔で席に戻った。
だが油断はできない。
「その他、ありますか?」
来た。
この二文字で、会議は無限になる。
誰かが言う。
「ついでに」
「あと一点だけ」
一点だけほど信用できない言葉はない。
私は、議題よりもバケツの水量を気にしていた。
今、何人使った?
残りは?
誰も口にしないが、
会議室全体に、生活レベルの緊張が漂っている。
⸻
そして、十二時。
昼休みのチャイムと同時に、
それは始まった。
ガガガガガガッ!
床が震える。
壁が震える。
これはもう、音じゃない。
攻撃だ。
会話が成立しない。
電話は無理。
思考も途切れる。
そこに追い打ち。
「今日の工事、本格的に入るので、夕方までかかるそうです」
夕方。
その言葉を聞いた瞬間、
私は静かに悟った。
――今日は、無理だ。
頑張る日じゃない。
耐える日でもない。
引く日だ。
私は自分の机に戻り、年休の残りを確認した。
ある。
十分にある。
理由も、十分すぎる。
・断水
・トイレ手動
・工事音ガガガ
・会話不能
・集中不能
これはもう、自己管理の問題だ。
私は立ち上がり、管理職のところへ行った。
「すみません。
この状況なので、午後は年休を取らせてください」
一瞬の間。
そして、即答。
「そうですね。今日は厳しいですね」
誰も責めない。
誰も止めない。
それが、この日の答えだった。
⸻
帰り支度をしながら、私は思った。
会議は長い。
断水はつらい。
バケツと柄杓は文明を疑わせる。
でも、
無理な日は、無理と言って帰る。
それも、大人の判断だ。
私は静かな校舎を出た。
外の空気は、やけに澄んでいた。
今日一日の結論は、これでいい。
コーヒーはうまかった。
会議は長かった。
そして私は、ちゃんと帰った。
それで、十分だ。
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