この週末、リオンは休みを利用してホームに戻っていたが、マザーに頼まれた買い物をするために車で市街へと向かっていた。
リオン自身は別に必要には感じていない為、買い出しに出掛ける事を告げて教会の信者から車を借りていたが、その車はスクラップ寸前のボロボロのビートルだった。
バタバタと空冷式の賑やかなエンジン音を聞きつつ、開け放った窓から肘を出して煙草を銜えたリオンは、突如鳴り響いた腹の虫の声に目を向け、起きたのが遅かった為に朝食を食いはぐれた事を思い出す。
起き抜けに腹が減ったと文句を垂れた時、腰に手を当てて目を吊り上げたゾフィーに、しつこいくらいに起こしたが全く起きなかったから放っておいたと呆れられ、空腹のままバザーの手伝いをしていたのだ。
そろそろお昼も過ぎている頃だしホームで食うか悩んだリオンだったが、今の己の空腹具合とホームの食糧事情を考えれば、食べて帰った方がどちらにとっても好都合だと気付いて苦笑し、そういえば学生の頃はいつも空腹感と貧困に直面していた事を思い出す。
あの頃、有り余るほどの金が欲しいと思うよりもせめていつも腹一杯になるまで食えるだけの金が欲しかったが、その考えは独り立ちし立派な社会人となって給料を得ている今も消えることはなかった。
幼い頃から考えていたのはどうすれば一人にならないで済むかと言うことと、どうすれば常に感じている飢餓感を無くすことが出来るかと言う事だった。
この二つのことだけを考えて生きていたと言っても過言ではないリオンだった為、幼い頃に一人にされたときは手の着けようがないほどの荒み具合を発揮し、空腹時には火がついたように泣き叫んだりもしたが、長ずるにつれて己の置かれた環境が理解できるようになると、泣いて喚いてものを強請るよりも他人のものを奪い取った方が早いとの思いを抱くようになった。
その結果、気が付けば誰も手に負えない、悪ガキを通り越した一端の存在となっていた。
今から思えば良く裏社会に足を突っ込まなかったものだと我ながら感心してしまい、煙草の煙を窓の外に向けて吐き出す。
今最も感じている飢餓感は当然ながら空腹によるものだが、それを隠れ蓑にした奥底では根深いが故に滅多に顔を出さない同じ顔をした違う飢餓感が身を潜めていた。
種類の違う飢餓感に微かに気付いているリオンだったが、その思いが頭を擡げるたびにどうしようもないと封じてきていた。
そんな思いを再度感じながら取り敢えずは空腹を何とかしたいと、市街の中心に最も近い場所に車を停める。
インビスで適当に買いあさって食べるのも良いかとのんびりと思案しつつ買い出しに出向き、休日の昼を満喫している人々の間を擦り抜ける時、ガイドブックを片手に彼方此方へと視線を向ける観光客と幾人もすれ違うが、あんなにも隙だらけな姿を見せられると思わず昔の悪い癖が出ると内心苦笑する。
市街の広場から何本か路地を進めば人通りも途絶えだし、こんな所で店を開いていて人が来るのかと思うような路地で必要な物を買い求め、用意していた大きめの袋に荷物を詰め込んでいく。
顔馴染みの店の主に笑顔で手を振り軒先を拝借して煙草に火を付けた時、何気なく見た路地の先に周囲に溶け込んでいるが何故か目を離せなくなるような店構えのレストランを発見し、看板を見て首を傾げる。
古城が有名な地方や街並みでは当然だがこの近辺ではあまり見かけない、古風を装っているしゃれた看板が控え目に吊されているが、まるで社交界にデビューしたばかりの女性のように腰を折り、細い手を優雅に差し伸べている姿がシルエットで描かれていて、彼女の足下に半円を描くように流暢な文字でゲートルートと描かれていた。
外観は昔から続くガストシュテッテ風で一度入ってみても良いかもしれないと思わせてくれる店構えだが、穴場的なものかも知れ無いと晴れ渡る空に向けて煙を吐き出す。
先日、一つの事件が終わりを迎えて無事に犯人も起訴出来リオンの手を離れた後、その事件に関わったメンバーで打ち上げに行き、その時に知り合った女性と何となく付き合い出した。
その彼女と来てみたいとぼんやりと思案しつつ煙草を足下に落として火を消すと、ジーンズの尻ポケットに突っ込んでいたシガレットケースに吸い殻を入れる。
どんな料理を出してくれるのかは分からないが、先程からリオンの前を通っては店に入ってすぐに出てくる人を幾人も見ているとそれなりに人気のある店だと気付いて予約を入れた方が無難だろうと考えるが、予約を入れた所で確実にその時間に店に行けるかどうかが分からないと苦笑する。
一度や二度のすっぽかしならば彼女も大目に見てくれるかも知れ無いが、何度も続けばこの間のような別れを迎える事になるとも苦笑し、今度下見がてら一人で来るかそれともマザーを連れてくるかと暢気に考えて間借りしていた軒先から歩き出す。
その時、背を向けたゲートルートのドアが開き賑やかな声が流れ出したことに気付き何故か足を止めてしまう。
「今日は来てくれてありがとう、アリーセ」
「あなたの料理を初めて食べたけれど、どうしてもっと早く教えてくれなかったのかしら?」
「はは。あなたにお出しできるほどじゃあないと思ってたんですよ」
風に乗って届くのは陽気な男の声で肩越しに振り向いたリオンは、綺麗なブロンドヘアの細身の女性が茶目っ気たっぷりに目を細めて腰に手を宛がう姿を見、思わず口笛を吹きそうになる。
もう少し身長があればモデルでも通用しそうな容姿と浮かべられる表情の豊かさに、一見しただけのリオンですら目を惹き付けられてしまう。
もっとはっきりと見てみたいと思い足を止めて振り返ったリオンは、彼女に遅れて姿を表した男二人の顔を見て目を瞠る。
長身で均整の取れた身体をラフなシャツとジャケットに包み、笑顔で店員と会話をしている彼女の腰にさり気なく手を回したのは、時々ニュースや雑誌で見る事のあるラリードライバーだった。
こんな所で有名人にお目に掛かるとはと口笛を吹いたリオンだったが、その彼に隠れるように立っているもう一人の男に気付いて見開いた目を細め、そしてもう一度、今度は目玉が零れ落ちそうな程目を瞠る。
もう一人姿を見せたやや年配の上品な身なりの女性とモデル顔負けの美女の間に自然な様子で立ち、陽気な男と一言二言交わしているのは、先日の事件でリオン自身が聴取をした白髪と銀縁眼鏡を光らせていた精神科医だった。
確かバルツァーと言ったはずと脳内の引き出しを勢い良く開けはなったリオンの前、白とも銀ともつかない不思議な色合いの髪を日差しに映えさえた彼が、満面ではないがリオンにも見える程の笑みを浮かべて満足そうに頷いた。
今日は美味しい料理をごちそうさまと彼が笑い、店員がリンゴのタルトを手土産に持たせたからそんな御世辞を言うのだろうと返されたらしく、笑顔が掻き消えて口がへの字に曲がる。
「私ももう少し食べたかったのにフェルが独り占めするから」
彼の横で魅力的な唇を尖らせた女性が文句を言えば、彼女に似通った端正な顔がそっぽを向く。
その様がどうにも子供のようで、事件の時に見た顔とは懸け離れていた為に抱えていた荷物を思わず取り落としそうになる。
自分自身、職場の面々からは随分と子供っぽいだの何だのと言われるが、それを遙かに凌駕する態度に思え、ぽかんと口を開けはなってしまう。
あの時、不躾にドアを開け放った自分を冷たい視線と皮肉な口調で出迎えた彼と同一人物とは到底思え無かった。
職業柄人の隠された顔を幾度も見てきたリオンだが、こんな風に予想もしない表情を見せられて呆気に取られることなど滅多に無かった。
道のど真ん中で立ち尽くしていると通行人の邪魔になる事に不意に気付き荷物を抱え直して踵を返したリオンの耳、好物なんだから仕方がない、自分の持ち帰りと別にエリーの分を用意しないお前が悪いと悪びれる様子もなく言い放ち、どういう理屈だと返す陽気な声が流れ込む。
表情豊かな美女と上品な身なりの女性とはかなり親しい関係だろうとぼんやりと思案し、脳内の引き出しからはみ出した情報がその思いを受け止める。
「………あ」
参考人聴取の時に調べた家族構成。彼自身が図らずも暴露することになった父と兄との不仲ばかりに気を取られていたが、兄との間に姉が一人いた筈だった。
その姉が世界を転戦するドライバーと結婚している事も書いてあり、身内は有名人だらけかぁと暢気な声を挙げたことも思い出す。
先程の美女は姉だったのかと納得し、ならば上品な身なりの女性が母親なのだろうと予測を立てて大通りに戻ってぼんやりと車に乗り込む。
荷物を助手席に投げ捨てるように置き、エンジンを掛ける前に煙草を取り出してくわえたリオンの脳裏を様々な情報が飛び交う。
家族構成に付けられていた写真は最近写されたものだったが、彼を除く家族は皆見事なブロンドヘアだった。
経年による色の変化はあるが父親は若干赤みがかった金髪で、母親は出身地がスカンジナビアだからだろうか白っぽい金髪だった。
兄と姉も両親の質の違うブロンドを受け継いでいる色合いだったが、彼だけが違っていた。
プラチナブロンドともシルバーとも違う、白に近い頭髪なのだ。
時々色素の欠乏、いわゆるアルビノ体質の人を見掛けることはあるが、アルビノから来る色合いの髪とはまた違うどちらかと言えばブロンドや茶色の髪が白髪になった様な雰囲気があり、その違和感と言うよりはもっと強い齟齬感に眉を寄せる。
父と兄とは反目しているらしいが彼の髪の色と何か関係があるのだろうか。
何気なく浮かんだその言葉だった為にリオン自身は気付くことはなかったがそれはほぼ正鵠を射ていて、後々自身で驚愕することになるのだが、今のリオンにはそれが分かるはずもなかった。
ただ分かったのは、ぼんやりと一人の男の横顔を脳裏に浮かべて思案していた為、長くなった灰が腿の上に落ちた為に感じた熱だけだった。
「あちぃ!!」
慌てて肺を払い落として灰皿に煙草を押しつけたリオンは息を吹きかけて熱を感じた太ももを冷ましつつ、脳裏を占める横顔に、本当は一体どんな人物なのだろうと事件とは関係のない彼を知りたいとの思いを俄に抱く。
だが、刑事で参考人という形で知り合い、先日などは不躾な態度を快く思わなかった彼に条件反射的に冷たい視線を投げ掛け、苛立つ心のまま言葉を吐き捨てたのだ。
良い印象を持たれていないだろうしメンタルクリニックの医者と刑事が接点を持つことなどそうそう無いだろうとも気付き、残念だなぁと車の天井に吐き捨ててエンジンを掛け、シフトレバーを操作した時に携帯が着信を告げる。
「ハロゥ」
『リオンですか?』
「マザー? どうかしたか?」
発信させようとしていた車を停めて聞こえてきた声に返事をしたリオンは、早く帰って来ないと昼食が無くなりますよと返されて絶叫する。
「シャイセ! マザー、俺の分残しててくれよ!!」
『分かってますよ。ちゃんとあなたの分も残してあります』
「ダンケ、マザー!」
今からICE並に飛ばして帰るからと口早に告げたリオンは、じゃあと通話を終えて携帯を助手席に放り出す。
ICEどころか地下鉄よりも遅い車に鞭を打つようにアクセルを踏み込み、ばたばたと空冷のエンジン音を響かせて帰路についたリオンの脳裏、まるで忘れるなと言うようにさっき見た笑顔がこびり付いているが、空腹を思い出した頭にはそれが意味するものや本当の理由が分からず、彼自身がそれに気付くのはまだ先の事になるのだった。
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