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「姉さん、大丈夫?」


昨夜、激しく抱いたのは自分のくせに、ダイニングテーブルの椅子にやっと座っている真珠を、琥珀は心配そうにのぞき込んだ。


「大丈夫よ。ピンピンしてる」


真珠はベーコンエッグを箸で摘まみながら嫌味を込めて琥珀を睨んだ。


「じゃなくて、怪我」


琥珀の呆れたような視線に促されるように、昨日の情事の後に彼が丁寧に巻き直してくれた包帯を見つめた


「化膿はしてないみたいだけど、今日はできるだけ水仕事は別な人に頼んでね」


脳裏に莉奈の迷惑そうな顔が浮かぶ。


「それと今日は弁当作ったから」


琥珀はそう言いながらキッチンシンクの上に置かれたランチバックを指さした。


「忘れずに持って行ってね」


「……………」


真珠は箸を咥えたまま琥珀を上目遣いに見つめた。


―――弁当なんて珍しい……。少しは悪かったって思ってるのかしら。


「……なに」


琥珀は白ご飯を口に入れながらこちらをもう一度睨んだ。


今日は遅出なのだろうか。琥珀はまだ部屋着姿で、つややかな黒髪には寝癖までついていた。


こうして見ると、昨夜の情事が嘘みたいだ。

あどけない表情も、拗ねたような唇も、そこら辺にいる高校生や大学生と大差ない。


そうだ。

彼は変わってなんかいない。

変わってしまったのは自分たちの関係なのだ。

今、一時、少しだけ踏み外してしまっているだけなのだ。


いつまでもこんなことをしていていいはずがない。

どこかで普通の姉弟が歩むべきレールに戻さないと……。


「なんだよ」


答えない真珠に琥珀は片眉を上げて見せた。


「……なんでもない」


真珠は油揚げと豆腐の味噌汁を飲み干した。


◆◆◆◆


「おはよう!瀬川ちゃん!昨日怪我したんだって?大丈夫だった?」


出社するなり駆け寄ってきた莉奈が、真珠の右手を見つめた。


「大丈夫。ほんの少し切っただけだから」


真珠が苦笑しながら言うと、店長と副店長の三上も駆け寄ってきた。


「大変だったな」


店長が神妙そうな顔で真珠を覗き込んでくる。


彼の言いたいことはわかっている。

真珠は店長を見上げて言った。


「私がカッターを使ってみようって言って、抑えている手を滑らせただけです」


つまりは、労災は使わなくていいという意思表示だった。

店長はもう一度大きく頷くと、その手を真珠の細い肩に置いた。


「でも瀬川さんのおかげで助かったよ」


「え?」


真珠は瞬きをしながら店長を、そして三上を見つめた。


「決まったんだよ。あの後。門脇夫妻は契約書にサインをしていった」


「……あ、そうなんですか」


真珠は出来るだけ自然に微笑んで見せた。


そんなのは初めから予想していた。


子供たちに厳しく視線を走らせていた門脇夫人のことを思い出す。

彼女はおそらく自分の子供のせいで職員に怪我を負わせた事実を重く受け止める。

そしてそれはきっと契約という形で返ってくるだろうと。


「すごっ!瀬川ちゃんお手柄!」


莉奈が両手をパチパチと叩く。

それにつられてカウンターの中にいたマネージャーとアドバイザーも拍手をした。


「良かったです。逆に商談に水を差してしまったんじゃないかと心配だったので」


「今日は無理するなよ」


店長はほっとしたように三上と目を合わせると、事務所へと戻っていった。


―――やれやれ。


真珠はカウンター内にある自分のスペースにハンドバックを置いた。


「あ……」


そこで気づいた。

ランチバック……!


「あの」


視線を上げるとそこには渡部が立っていた。


「瀬川さん、ちょっといい?」


◇◇◇◇


渡部が呼び出したのは、オープン展示場だった

毎日洗車されている展示車たちがピカピカと朝陽を跳ね返している。


「あのさ」


渡部は黒いワンボックスカーの前に立ち、背を向けたまま言った。


わざとだったよな」


「え?」


「昨日、わざと自分の手を切ったよな?」


真珠は瞬きをした。


―――あのとき、確かに3人はこちらを見ていなかった。


どうして……。


「……!!」


そのとき、ワンボックスカーの窓に反射した渡部がこちらを睨んでいることに気が付いた。


そうか。

商談用モニター。


真珠は展示場の商談席に設置してあるモニターを思い出した。


あのときモニターは点いていなかった。

真っ暗な画面はこの展示車のように真珠を映していたのか。


「なあ、どうなんだよ」


渡部は振り返ると、真珠に一歩、また一歩と近づいてきた。


これは、どう答えるのが正しいのだろう。


「もしかして、早く帰るためにそんなことしたのか?」


渡部の眉間に深い皺が寄る。


「それとも―――」


「姉さん」


そのとき、客用駐車スペースから鋭い声が響き渡った。


振り返るとそこには、琥珀が立っていた。


「琥珀……?どうして」


琥珀は御影石が敷き詰められた展示場スペースに革靴の高い音を響かせながら近づいてくると、真珠の手にランチバックを置いた。


「弁当。忘れてたよ」


「あ、ありがと」


「―――」


背後に立つ渡部は視線を琥珀の上から下まで一巡させた。


薄くなってきた渡部と比べ物にならない若々しい黒髪。

切れ長の目に、筋が通った高い鼻、形の良い唇。

姉に負けずとも劣らない白く美しい肌に、渡部のそれより数段高級なスーツ。

引き締まった腰に長い脚。


琥珀はそこで初めて気が付いたように渡部を振り返った。


「ご挨拶が遅れました。瀬川の弟で琥珀と言います。姉がいつも大変お世話になっております」


そう言いながら笑顔で一礼する。


「姉はご存知の通り抜けているところがありますので、しょっちゅう怪我をして帰ってくるんです。会社の皆さんにもご迷惑を多々おかけしているとは思いますが、これからもどうかよろしくお願い致します」


「あ、いや……」


自分よりも10センチは背が高いであろう琥珀を見上げると、渡部は苦笑いをした。


「渡部です。こちらこそすみません。私の商談中にお姉さんに怪我をさせてしまい――」


「………」

空気が、変わった。


真珠は前に立つ琥珀を見上げた。

今までも何度も何度も側で見てきた。


時間が止まるような緊張感。

空気が淀むような息苦しさ。


―――それは明らかに、殺気だった。


「――琥珀…!」


思わず腕を掴む。


すると琥珀は大きく息を吸って真珠を振り返ると、それを吐き出すように渡部に視線を戻した。


「心配には及びません。僕がちゃんと手当をしましたので」


渡部はキョトンととっくに成人している琥珀と真珠を見比べた。


「あ、ありがと、琥珀!」

変な空気を察した真珠は慌てて琥珀に言った。


「ほら、早くいかないと会社に遅れるよ!」


言うとやっと琥珀は渡部から視線を外し、真珠に向き直った。


「じゃあ、今日は怪我しないように気を付けてね。姉さん」


嫌味を言うことも忘れない。

真珠は少しだけ睨んでから琥珀の背中を強めに押した。


彼はまだ何か言いたそうだったが、渡部もいる手前、大人しく駐車場に停めてある社用車に乗り込み、駐車場を出て行った。



「――弁当を届けるなんて、随分優しい弟さんなんだな…」


渡部が呟くように言った。


「あはは。2人暮らしだから何かと支え合ってる感じはあるかも」


「へえ、2人で」


渡部がこちらを見下ろした。


―――でもなんとか助かった。これで渡部さんを誤魔化すことが―――。


「――――」


渡部がこちらを見下ろしている。

それなのに視線が合わない。


彼の視線は真珠のうなじあたりをまるで驚いてでもいるように見つめていた。


「渡部さん?」


「瀬川ちゃんッ!!」


そのとき自動ドアが開いて莉奈が駆け出してきた。


「どうしたの、そんな慌てて…」


思わず手を差し出すと、莉奈がその手を握ってきた。


「誰!?今のッ!!」


「今の……?ああ、弟だけど」


「めっちゃイケメン!!」


莉奈はそばに渡部がいるというのに取り繕うこともなく真珠を見つめた。


「今度紹介してッ!!」


「ええ?ええと……」


渡部が小さく息をついて事務所の方に戻っていくのを横目で見ながら、真珠は苦笑いをした。



「ね?ねっ!?お願い!!」


莉奈が両手を合わせてくる。


確かに、奥手でろくに女性と付き合ったこともないがために、姉に執着しがちな彼にとって、莉奈みたいな男慣れしている活発なタイプはいい刺激になるかもしれない。


上手くいけば、もうあんな情事を繰り返すこともなくなるかもしれない。

そして自分たちは、普通の姉弟のレールに戻れるかも……。


「……わかった。今度3人でご飯でも行こうよ」


「やった!!」


莉奈はガッツポーズをとった。


「じゃあ、いつにする?……ってあれ?瀬川ちゃん。ここんとこ、虫にでも刺された?赤くなってるよ」


真珠は思わずうなじを押さえた。


莉奈が覗き込んだのは、先ほど渡部が見下ろしていたのと同じ場所だった。


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