テラーノベル
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帰国する前夜、仁人は、自分から勇斗の部屋を訪ねた。
三年間、夜を重ねるために誘うのは、いつも勇斗の方だった。
「──どうした」
扉を開けた勇斗が、少し驚いた顔をする。
仁人は何も言わず、ただ部屋に入れてほしいというように、目線を扉の先へうつした。
ソファに並んで座っても、仁人はしばらく、何から話せばいいのか分からずにいた。
言葉にすると決めてきたはずなのに、いざその場に立つと、喉の奥で何度も引っかかる。
勇斗は、急かすことなく、ただ静かに待っていた。
「昨日、言われたこと、ずっと考えてました」
ようやく、仁人が口を開いた。
「あの夜のこと。拒めたはずなのに、拒まなかったってこと」
「うん」
「拒まなかったのは、ただ、好きだったからです。それだけです」
短い言葉だった。
けれど、三年間かけて積み上げてきた自分への言い訳を、自分の手で解くには、それだけで十分だった。
勇斗は、すぐには返事をしなかった。喜びより先に、別の感情が顔をよぎる。
「──俺で、いいのか」
「……どういう意味ですか」
「あんな始まり方をした俺を、好きになってくれる理由が、分からないんだ」
その声には、これまで見せたことのない弱さが滲んでいた。
仁人は、少しのあいだ、勇斗の顔を見つめた。
「──勇斗さんだから、好きになったんです。他の誰でもなく」
飾りのない言葉だった。勇斗の喉が、小さく鳴った。
「……俺も。あの夜より、ずっと前から。だから余計に、言えなかった」
「俺、ずっと思い込んでたんです。気持ちを言ったら、面倒がられて終わるって。でも、本当は違った。」
「どう切り出せばいいか分からなくて、ずるずると、今日まで来た。俺も、同じだ」
勇斗が、代わりに続きを引き取った。
秘密のせいでも、酒のせいでもなく、ただ、お互いに切り出す勇気が持てなかっただけだった。
「もう一度、ちゃんと始めてもいいですか」
仁人が、静かに尋ねた。
「俺の方から、頼みたいくらいだ」
勇斗の手が、そっと仁人の頬に触れる。
これまで何度も繰り返してきたはずの仕草なのに、指先に思いを込めなくても。
しばらくして、仁人は、そっと目を開けた。眠ってはいなかった。
天井を見たまま、動かずにいる。
時折、枕元に置いたスマホへ、手が伸びた。
画面が点いて、時刻が浮かぶ。〇時四十分。また、暗くなる。
少しして、もう一度。一時十分。
勇斗は、目を閉じたまま、それを数えていた。
時計を見て、身支度をして、朝になる前に帰っていく背中。
その背中を、勇斗は、朝まで一緒にいたくない相手だという答えとして、受け取ってきた。
「……時計ばっか見てるな」
目を閉じたまま、勇斗が言った。
仁人の肩が、わずかに跳ねた。
「起きてたんですか」
「起きてた。……帰るなよ」
「ただ、癖で。朝になる前に、帰らなきゃって」
「何でだよ。出発は午後だろ。まだ時間あるのに」
「……」
「朝早いから、とか、いつも言ってたけど。あれ、口実だったんだろ」
仁人は、答えなかった。やがて、小さく息を吐いた。
「あの最初の朝、覚えてますか」
勇斗は、目を開けた。
「何か言いかけて、黙ったじゃないですか。……俺は、嬉しかったんです。なのに、後悔した顔だと思って。なかったことにしたい、って顔。それで、あの顔を、もう一度見るのが嫌で。朝になる前に帰れば、見ずに済むから」
勇斗は、しばらく何も言えなかった。それから、天井を見上げたまま、ゆっくりと口を開いた。
「あれは、後悔じゃない」
「……」
「謝りたかった。けど、謝ったら、あの夜が、なかったことになる気がして。それで、何も言えなくなった。……本当は、謝るより先に、言いたいことがあったんだと思う。嬉しかった、って」
「……」
「三年遅れた。ごめん」
仁人は、しばらく動かなかった。それから、小さな音が、喉の奥から零れた。
笑っていた。
肩を震わせて、息を漏らすように、本当におかしそうに。
「三年かけて、それだけですか」
「それだけだよ」
「……ばかだ」
「ああ、ばかだな」
勇斗も、つられて笑った。笑いながら、気づいた。
曖昧な笑顔しか見たことがなかった。こんなふうに無防備に笑う仁人を見るのは、初めてかもしれない。
「無理してない?」
「してないです。してたら、ちゃんと言います」
はっきりした声だった。
「……じゃあ、帰らないで」
「はい」
仁人は、スマホを、枕元の奥へ押しやった。それきり、手を伸ばさなかった。
窓の外が、うっすらと白んできた頃、仁人は一度だけ目を開けた。
隣で、勇斗が眠っていた。
三年間、見ないようにしてきた、朝の光の中の寝顔だった。
もう一度、目を閉じる。
次に目を覚ましたときには、カーテンの隙間から、すっかり明るい光が差し込んでいた。
時計を見ると、七時を過ぎていた。
「……おはよ」
隣から、寝ぼけた声がした。勇斗が、薄く目を開けて、こちらを見ている。
「おはようございます」
「いたな」
「いますよ」
それだけのやり取りだった。
それだけで、仁人は、三年分の朝を、一度に取り戻したような気がした。
「……あのさ」
勇斗が、体を起こして、鞄の底に手を入れた。
「これ。渡すタイミング、ずっと逃してた」
差し出されたのは、小さな紙の包みだった。
開くと、掌に収まるほどの硝子瓶が、転がり出た。
蓋を開けると、サフランとカルダモン、その奥に薔薇と乳香の香りがした。
ブランドの香水とよく似ていて、けれど、ずっと素朴で、土の匂いがした。
「市場の隅で、売ってた。香油と、同じ作り方なんだって」
「……あの?」
「そう。……お土産ってことで」
仁人は、瓶の蓋を開けたまま、手首にひと撫でした。ゆっくりと、乾いた花の香りが立ちのぼる。
「この香りを嗅いだ者は、出られなくなるって、言ってましたけど」
「ああ」
「もう、手遅れですね」
手首を鼻先に寄せたまま、仁人は、勇斗の方を見ずに言った。
その声は、少しだけ照れていた。
「手遅れで、いいだろ。出る気もないし」
窓の外では、朝が瑠璃色に明けていた。
#🐟️×🍇
ねぎ茶
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コメント
1件
お疲れさまです、読了しました! この話、もう刺さりすぎてやばいっす…。三年間お互いに「言えなかった」だけで通算した朝を取り戻す展開、反則的に良かった。特に「時計ばっか見てるな」→「帰るなよ」の流れ、そして朝まで起きてたのを勇斗さんがちゃんと気づいてたっていうのが、細かい描写で泣ける。最後の香りの受け渡し、「手遅れでいい」のセリフ、仁人が初めて無防備に笑うところも全部好き。 るりさんの心情描写、人間味と甘やかさのバランスが天才的です。次も楽しみにしてます🔥