コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
イベント明けの月曜日は、支店は定休日、本部も、各支店のイベントサポートに駆り出されたメンバーは休みだ。
陽子もその一人なのだが、なんとなく家に一人でいるのが嫌で出社してしまった。
各支店からの電話が鳴らない本部は静かだ。
そしてイベントサポートをしたメンバーもいないので、実質デスクに座っている人数は普段の半分ほどしかいない。
急いでやらなければいけないわけではないのだが、他にすることもなく、この間届いた女性スタッフの制服の仕訳を始めた。
本部のデスクに順に置いていく。
新車グループの栗山のデスクに置くと、パソコンを睨んでいた彼女は「どうも」と小さい声で言った。
隣に座っている綾瀬が、栗山に何やら耳打ちする。
と、彼女はキッと彼を睨んで、
「貸さないわよっ!」と叫んだ。
驚いて2人を見比べていると、ごまかすように綾瀬が笑った。
意味が分からず、あいまいに笑顔を返すと、黒田支店の麻里子と梨央の分を持って階段に向かった。
自然と胸が高鳴る。
本当はそれどころじゃないはずなのに、少し浮き立つ足が嫌になる。
そもそも今日は支店は休みだから、誰もいないはずだ。
誰もーーー。
「いい!これいいじゃん!!」
明らかに華やいだ声が聞こえてくる出入り口の前で足が止まる。
「もっと変な顏してんのないのー?」
この声は大貫だ。休みの日に出勤してくるほど仕事熱心なイメージはないのだが。
「そっちの方からすごいの探してきてよー」
「それが、あんまりないんですよー」
経理課の早坂の声も聞こえる。
「結城くん、あんまり写真に写らないから」
結城?写真?
陽子は思い切ってそのドアを開けた。
黒田支店の事務所に入ると、5、6人が大貫のデスクの周りに集まっていた。
「あれ、お疲れ様です!」
私服をきた大貫と、営業の木村とサービスマネージャーが、こちらを振り返る。
私服姿の経理部の早坂と、坂井までいる。こちらも土日サポート組で、今日は休みのはずだ。
麻里子のデスクに制服を置いたところで、ショールームから宮内が出てきた。
喉が詰まるような感覚に陥る。
「あ、お疲れ様です」
「おお」
宮内も私服だ。白の薄いセーターに、濃いベージュのジャケットを羽織っている。
「みなさん、お休みなのに何をしているんですか?」
宮内に、というよりは事務所のみんなに話しかけた。
「結婚式の準備ですよ」
大貫が微笑む。
パソコンを覗き込むと、結城と麻里子の写真がずらりと並んでいた。
「ああ、スナップ写真?」
「ええ、二人の馴れ初め的なビデオグリップを作ろうと思いまして」
「なるほどねー」
画面を覗き込む。
「意外と麻里子氏の変顔は一杯あるんだけどな」
新車発表会の時の、両手ピースの麻里子が写る。顎を突き出して上を向いている。
今度は決算イベントの事務所。
『必達目標』と書かれたグラフを指さして白目を剥いている麻里子が映し出される。
「ちょっと。花嫁さんなんだから、可哀そうよ」
思わず笑ってしまう。
宮内はというと、自分の席から遠目で大貫たちを見ながらコーヒーを啜り、やはり微笑んでいた。
「でも結城はすかしてる顔しかないんだよなー」
画面を送ると、今よりもだいぶ初々しい結城が写る。
「やーん、若い結城係長、かわいい~」
坂井が黄色い声を上げ、早坂がそのわき腹を肘で突いている。
「いや、すげー生意気だったよ。ね、店長」
大貫が宮内に話を振ると、
「全くだ」
彼は自分の椅子に座った。
「でも、まっすぐで。いい奴だったよ。男としても営業としても」
笑いながら言う。
その言葉に、早坂と坂井がなぜか、顔を見合わせる。
陽子は再度パソコンに映し出される二人を見つめた。
「あ、これ」
大貫が指をさす。
「結城の送別会。この時ぐらいですね。黒田支店に残ってる2ショットは」
写真を眺める。
結城の肩に腕を回している麻里子が、満面の笑みで写っている。
結城はというと、少し迷惑そうな顔をしながら、それでも笑っている。
この時はもう、付き合っていたのだろうか。
何かが腹の奥から込み上げてきた。
熱い。いや、冷たい、何かが。
上がって上がって―――。
肺の芯を凍らせながら、
喉を熱く焼きながら、
上がってくるーーーー。
「おい」
気づけば手首を宮内に掴まれていた。
ぐいと引かれる。
「ちょうど車検席のカウンターが壊れてたんだ。見てくれよ」
そう言うと宮内は、陽子をショールームに引っ張って歩き出した。
「あ、この結城係長、唯一変な顔してる」
坂井のはしゃいだ声が遠くなっていく。
宮内はピット脇の車検席ではなく、多目的トイレの方に歩いていく。
「ーーーーどうしたんですか」
聞いても答えてくれない。
トイレの中に陽子を引き入れると、宮内は鍵をかけた。
「ーーー自分の顔、鏡で見てみろ」
言われて鏡を見上げる。
そこには、目から何筋もの涙を流した自分の顔が映っていた。
拭っても拭ってもあふれ出る涙を、自分でもどうすることもできずに、陽子は鏡の中を見つめた。
これは夢?
それとも自分の目は壊れてしまったのだろうか。
涙が止まらない。
「―――どうしたんだよ」
その様子を見て宮内にが眉間に皺を寄せる。
「目が」
「目が?痛いのか?」
「どうやら、壊れたみたいで―――」
言うと、宮内は、ふうっと笑いだかため息だかわからない息を吐いた。
「―――お前の口が言おうとしないから。目が代わりに言ってくれてんだろうが」
手が陽子の頭を包み、自分の肩に押し付ける。
見た目に反して意外と柔らかいジャケットに、陽子の頬が振れる。
「話してみろよ。俺に言ったところで何も減るもんじゃないし。口で言おうと決めたら、目からの悲鳴も消えるから」
頭上と押し付けた肩から同時に響く声が、陽子の体に染み入ってくる。
すると、あんなに人に言いたくなかった、とくに宮内には知られたくなかった夫のことが、言葉になって、口から押し出されてきた。
「夫は浮気をしてるんです。もう10年も前から」
「10年」
そのとき、事務所から、坂井の高い笑い声が聞こえてきた。
宮内は陽子を優しく離すと、その手を引き、多目的トイレを出た。
展示車の間を通り、ショールームの出入り口のドアを上下に手を伸ばして解錠すると、ポケットから車の鍵を取り出して、陽子に渡した。
「荷物は持ってきてやるから、車に乗ってろ。どうせその顔じゃ、もう戻れないだろ」
彼は陽子が頷く前に、ショールームから陽子を出し、鍵をかけると、踵を返して行ってしまった。
陽子はとぼとぼと社員駐車場に向けて歩き出した。
他に選択肢がないことが、心地よかった。