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宮内は宣言通り、陽子のコートと制服を持ってきて車に戻ってきた。
「少し、いいか」
言いながら運転席に乗り込み、シートベルトを伸ばしている。
陽子も大人しく助手席で彼に倣う。
エンジンがかかり車が出発した。
と視界の端に麻里子の車が駐車場に入ってくるのが見えた。
突然の彼女の来社に、きっと大貫をはじめみんな狼狽し、慌ててデスクの上を隠すのを想像して、少しだけ楽しくなった。
ちらりと宮内を見やる。
麻里子の車に何らかの反応をしているかと思いきや、先ほどから同じ、何かに怒っているような仏頂面は崩れていなかった。
ビデオ屋の隣をすり抜けて、国道に入る。
北上する道を選んだのは、宮内の自宅が南側にあるからだろるか。
そんなつまらないことを想いながらその横顔を見つめる。
「10年前っていやあ、お前。結婚して5年も経ってないじゃねえか」
宮内は、ハンドルを右手一本に持ち替え、左手をギアの上に軽く置いた。
そういえばこんな運転スタイルだった気がする。15年前、彼の助手席に座っていたときも。
「なんかね、昔に大失恋をしたんだって話は、付き合ってる時から聞いてたんだけど。その人が、離婚したんだって。そのタイミングで」
それきり宮内は考え込むかの如く、口をつぐんでしまった。
自分でもペラペラ話す気になれなかったのと、もう大事なことはすべて言い満足してしまったので、陽子は助手席の窓を流れる景色をただ見ていた。
秋。
紅葉した葉は落ち、国道沿いを走る大型車両の排気で黒く染まっている。
稲が刈られた後の田圃は、黒い土地がむき出して、景色を暗く見せていた。
冬が来る。
全てを覆う冬が―――。
陽子には本当に。
その後の春は来るのだろうか。
着いたのは、王坐山の中腹にある展望台だった。
若い頃、夫に一度だけ連れてきてもらったことがある。
夜はカップルたちで混んでいた気もするが、今日は平日の日中だからか、他に誰も人はいなかった。
二人並んで、ベンチに座る。
「綺麗…」
遠く見える景色を陽子は見つめながら、口元を緩めた。
「黒田市は買い物をするところが少ないし、子供を遊ばせる施設もないし、盆地だから暑いし、雪は降るし。道路狭くてすぐ渋滞するし、地元スーパーの品ぞろえが悪くて、大手スーパーがいつも混んでるし。
普段不満ばかりなのに、こうして眺めると、ここも悪くないって思っちゃうんだから、単純なもんよね」
いつしか敬語が取れ、必要以上に饒舌になっていることに気づいた。
でももう、取り繕わなくてもいいような気がした。
“凛と美しいまま、優しいご主人と、可愛い娘に囲まれて、幸せに生きている昔の女”という仮面はとっくに剥がれてしまった。
もう、どうでもいい。
「10年間か」
宮内が重い口を開いた。
「長いな」
その言葉が、胸を大きく切り裂いている傷にじわじわ効いてくる。
熱く。深く。
「うん。長かった。でも旦那の口から、そのことを聞いたことはないの。最低だけど、携帯をチェックして」
自嘲気味に笑う。
「嘘のつけない人だったから。だから態度ですぐに分かったの。明らかに帰りが遅くなったし、その説明も何もないし、今まで小遣いだって“余ったから”と教育資金用の通帳に入れてくれてたのに、小遣いの値上げ交渉や、ランチ代削減のために、弁当作ってほしいとまで言いだして…」
あんなに閉じ込めた言葉が次から次へと溢れてくる。
「長い夫婦関係、そんなこともあるって思って、友達と行く飲み会のネタくらいに思っていたの。
期待通り友達も笑ってくれて。“そんなにわかりやすいなら、気づいてほしくてやってるんじゃない?”って。“構ってアピールだよ”って。
そっか、ならちょっとヤキモチ焼いて見せてあげようかなって思ったの」
宮内が手で顔を擦るのを視界の端で感じながら、言葉を続ける。
「だから、携帯をね。それで“このメールなに?”から始まって、“寂しかったんだよ、ごめん。”と謝られ、“もう。フランス料理フルコース奢りなさいよ”でおしまい。
笑い飛ばしてあげようと思ってたの。ホントに」
「————」
「でも封じられたパンドラの蓋を開けてみればさ、めくるめく美しきラブストーリーなんだもん。
主人公は夫と浮気相手。
“奥さんと別れて”と言えない健気な主人公と、娘を捨てきれない弱い男を描いた純愛物語。笑っちゃうでしょ」
本当に笑いが込み上げてきて、陽子は少しだけ笑った。
「娘がね。松が岬の調理科がある高校に行きたいんだって。私の実家から3年間、通いたいんだって。
つまり娘を理由に、あの家に、私たち家族に、留まっていてくれた夫が、その理由を無くすわけよ」
言いながらローヒールから踵を抜いたり、入れたりを繰り返す。
「だから私はもうすぐ、捨てられるの」
正面の景色を再度見て、陽子は言った。
「好きでもないのに結婚したバチが当たったのね」
そう。本当にそうだ。
人生で一番初めに恋した男にフラれて、自暴自棄になっていた。
友人に勧められるまま、市役所職員と食事に言った。
彼に促されるまま、デートを重ね、身体を重ねた。
そのまま子供が出来、自動的にゴールイン。
花嫁は流されるまま、幸せになりました。
そんなうまい話、転がっているわけがない。
愛情をあげていないんだから、返してもらえるわけがない。
瞬間、肩を掴まれた。
宮内が神妙な顔でこちらを見ている。
「それでお前は、捨てられるのをただ待ってるのか」
――――そうよ。私は待っている。
彼に最後通告を言い渡されるのを。
家族の終止符が、彼によって打たれるのを。
待ってる。
こくんと頷くと、宮内は陽子を睨んだ。
「ふざけるなよ!俺は、どうなる!!」
「え」
この話と宮内が、どう関係があるのだろう。
ただ昔に振った女の一人が、旦那と離婚するだけの話じゃないか。
「俺は、お前が幸せになるって言ったから、諦めたんだろうが!!」
「ーーーーー」
(え?)