その夜、港は眠れなかった。
隣の布団で眠る息子の寝息を聞きながら、目を閉じるたびに“あの姿”が脳裏に浮かぶ。
ぬめりとした皮膚、爬虫類のような目、そして、人間のようでいて、決して人間ではない異形の存在。
あれは本当に“トカゲ”だったのか?
それとも……“南”の、成れの果て――?
港は寝室の障子に視線を向けた。廊下の明かりが、微かに紙を透かしている。
その奥に、誰かの影が揺れていた。
「……紗理奈さん……?」
いや、違う。
細くて、女の影。立って、こちらを見ているように思えた。
音もなく、影が滑るように移動した。
次の瞬間、障子の向こうに顔が張りついた。
ぐにゃりとした笑顔。
輪郭は南に似ていた。
だが目だけが――まるで人間の目ではなかった。
港が声を上げようとした瞬間、影はスッと消えた。
「……っ、夢……じゃない……よな……?」
隣にいたはずの息子に目を向けた。
――布団が、空だった。
「樹人!?」
廊下に出て、家中を駆け巡った。
洗面所にも、風呂場にも、リビングにもいない。
だが――勝手口が、開いていた。
港が外に出ると、夜の空気は異様に湿っていて、どこか血のような匂いがした。
月明かりの下、庭の片隅に人影があった。
「……樹人……?」
そこには、樹人がいた。
だが、隣にも、誰かが立っていた。
「――ママだよ」
その声は、確かに南のものだった。
ゆっくりと港に向き直る女。
顔は南。だが、その表情には「生気」がなかった。
皮膚は白すぎ、唇は色を失っていた。
眼球だけが、異常に濡れていた。
「……南……?」
「パパ、ママ戻ってきたよ。ちゃんと“ホントニナーレ”って言ったもん」
樹人の無邪気な笑顔が、港の心を締め付けた。
「それ、ママじゃない……戻ってきたんじゃない……!」
「でも、ママだよ。ママ、笑ってるもん」
“南”は笑っていた。だがそれは、笑顔というより、“模倣”だった。
まるで「笑顔という形」を模倣しているだけの、空っぽな表情。
「港さん!」
背後から紗理奈が駆け寄ってきた。
「離れて! それ、“呼ばれたもの”よ!」
「どういう意味だ……」
紗理奈は震える声で言った。
「……“ツクリモノ、カエレ、ホントニナーレ”。その呪文は、もともと東北の山間部に伝わる“再生のまじない”だったの。
失くしたものを『もう一度作る』ための呪法。
でもそれは、本物を呼ぶ呪文じゃない。
“似た何か”を、代わりに呼び寄せる呪いなの」
港は唇をかみしめた。
「じゃあ、これは……“南”じゃなくて……」
「南さんに“なりたがってるもの”よ。姿を真似て、言葉を使って、家族の中に入り込もうとしてる」
その瞬間、“南”の顔がひきつった。
「誰……?」
“南”が、紗理奈を見つめる。
「あなた……誰? あなた、いなかった……あの時……私たちの中に……いなかった」
「……あの時?」
紗理奈が呟く。
“南”はゆっくりとした口調で続けた。
「昔……私たちは、一度、“交換”したの。あの村で。“願い”と、“代償”を……」
「村……?」
紗理奈の顔が青ざめた。
「……まさか、あなたも……あのとき、見たのね……?」
その時、“南”の腕が急に伸びた。骨がないかのように、ぐにゃりと港に向かって蛇のように伸びる。
港はとっさに樹人を抱き寄せた。
その腕は空を掴み、地面に落ちた。まるで水のように、じゅわりと地面に染みていった。
「逃げて!」
紗理奈が叫ぶ。
港は樹人を抱え、家の中に駆け戻る。
振り返った時には、もう“南”の姿はなかった。
ただ、夜の庭に、**「にやり」と口だけが笑っている」**ような気がした。
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