百子は資料を作り終え、椅子に座ったまま大きく伸びをした。それと同時に、口を大きく開けて息を吸い、大きく息を吐いて目を閉じる。
「茨城さん、そんなに眠たいなら病院に行った方がいいと思うんだけど、大丈夫?」
ハスキーな上司の声が百子に向かって飛んできたので、百子はゆるく首を横に振る。昨日は陽翔と長い午後を過ごしたのが原因だろうか。それにしては通常よりも体がだるく、朝から胃のムカつきが続き、昼食の量も減らしている。とはいえ、仕事には支障が無いものの、周りに心配されているとなれば、ある程度控えるように、彼に頼もうと思い立った。どう頼もうと考えていると、瞼が彼女の意に反して降りてきてしまい、慌ててカッと両目を見開く。
「……私、そんなにあくび、してました?」
百子はこみ上げてきたあくびを噛み殺しながら返答する。その様子を目を丸くして見ていた上司の斎藤は、立ち上がってつかつかと百子のいるデスクの手前で止まり、百子の額に手を当てた。
「……ちょっと熱っぽいかも。最近風邪が流行ってるから気をつけなさいね」
斎藤は百子の頭をポンポンと撫で、彼女の机にのど飴を置いた。百子は感謝の言葉を述べ、印刷の終わった資料を取りに行くために立ち上がったが、目の前がふいに暗くなり、足元がぐらついてしまう。
「……あれ?」
その場に崩れ落ちそうになった百子は、辛うじてデスクの角に手をついたことで、床と仲良くなる事態は避けられた。斎藤が慌てて百子に駆け寄り、早退しても良いから病院に行きなさいとだけ告げる。
「でも、仕事が……」
「いいから! フラフラしてて熱っぽいのなら、早く病院に行って治しなさい。今日の仕事は終わったんでしょ? 今日くらい早抜けしてもバチは当たらないと思うんだけど」
百子は釈然としなかったが、斎藤に頭を下げ、重い体を引きずって会社を出る。内科に行ってみたものの、風邪でも胃粘液が減っている訳でも何でもないことが発覚し、もう一度会社に戻ろうかと斎藤に電話して問い合わせたが、今日はもう休めの一点張りだった。百子は陽翔に、早退することになったとメッセージを飛ばし、ふらふらと帰途につく。家に着くと、ご飯を仕掛けて台所の掃除をした百子だったが、炊いたお米の匂いが漂うようになると、腹の底から一気にこみ上げる感覚に襲われ、口を押さえながら慌ててトイレに駆け込んだ。
百子は青い顔をして、喉の焼け付く痛みを水で緩和させようとして、のろのろと台所に戻ったが、再び胃の腑がひっくり返り、結局トイレに戻ることとなった。菜種油を搾り取るように、胃の中身を空にしたのにも関わらず、ぐるぐると腹の中を蠢く不快感は一向に無くならない。
(……おかしいな。内科の先生は、胃が荒れてないって言ってたのに)
百子はベッドでしばらく横になっていたが、炊飯器のアラームが鳴ったのを見過ごすことができず、再び台所へと向かう。炊飯器を開けると、ご飯の甘い匂いが顔を直撃して、胃がぐるりと回りそうになったため、思わず息を止めながら、ご飯をタッパーに小分けにしていく作業を、やっとの思いで終わらせる。彼女はふらふらとソファーにたどり着くと、そこに体を沈めた。
(……お味噌汁も作りたいのに)
料理ができないことを悔やみ、うつ伏せになっていた百子は、玄関で鍵の開ける音が耳を掠めても、陽翔がバタバタとしながら百子を呼んでも、起き上がることができなかった。
「百子! こんな所にいたのか! 返事寄越さないから心配したんだぞ!」
切迫した彼の声に、百子はおもむろに寝返りをうち、か細い声で告げる。
「……おかえり、陽翔。あんまり大丈夫じゃない……」
陽翔は彼女の青い顔と、掠れた細い声に、彼女が返事を寄越さなかったことが頭から消し飛んで仰天した。陽翔は百子を抱き上げてソファーに座らせ、慌てて水の入ったコップを差し出し、台所に置きっぱなしだった百子のスマホを持ってきてくれた。
「ありがとう……」
声の調子がいくばくか戻った百子は、会社を早退して病院に行ったものの、特に異常が無かったと言われたこと、ご飯を炊いていたら胃の腑がぐるぐると回ったことを説明した。
「……吐いておいて異常がない、だと? そんなわけあるかよ。違う医者に行った方が良さそうだな」
全ての話を聞き終えた陽翔は、眉間の谷間を段々と深くさせたため、百子は慌てて付け加える。
「確かに胃がムカついてたけど、病院に行った時は吐き気は無かったよ。家に帰ってご飯を炊いたら急に気持ち悪くなっちゃって……誤診とかじゃないと思う。吐き気が酷くてしんどくなったから、味噌汁とかは作れなかったけど……」
百子はゆるく首を横に振ったが、目を見開いた陽翔が両肩をがっちりと掴んだために、目をぱちくりさせて陽翔と目を合わせる。
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もしや・・👶