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森崎誠が母親を亡くしたのは、小学三年生の春だった。
桜の花がゆるやかに舞い、ランドセルの色と混じり合うような景色の中で、彼だけが白黒写真の中に閉じ込められているような気分だった。
母の死は突然だった。病気だったわけでも事故でもなかった。ただ「急死」と言われて、周囲の大人たちが小声で何かを話すばかりだった。
それからというもの、誠は静かな少年になった。
泣かなくなったわけじゃない。泣くことすら、もったいないような感情のまま、日々を機械のように過ごすようになったのだ。
中学に上がり、高校に進んだ頃には、「あいつってクールだよな」とか、「なんか冷めてる」とか言われるようになっていた。
でもそれは、彼が冷たいのではなく、温かくなる理由がどこにもなかっただけだった。
そんな誠の高校二年の春。
教室の隅で、ひとり弁当を広げる女子がいた。肩までの黒髪をストレートにまとめ、制服の上着のボタンがひとつ外れている。だが、本人は気にも留めず、小さな箸でおにぎりを口に運んでいた。
それが、秋元杏美との初めての接触だった。
彼女が転校してきたのは新学期の始業式の日だった。教師が紹介を済ませても、クラスは静かだった。杏美もまた、それを気にする様子もなく、空いた席にすっと腰を下ろした。
放課後、誠は帰り支度をしていたところ、教室の外から微かに何かの物音が聞こえた。廊下を通って図書室の横を過ぎた時、小さな声が聞こえた。
「……なにもしない時間って、贅沢だよね。」
振り向くと、窓辺に立っていたのは杏美だった。窓の外に目をやりながら、空に溶け込むような声で呟いていた。
「え?」
思わず声をかけると、彼女はこちらを振り返り、わずかに目を見開いた。驚いたのか、誠の存在に気づいていなかったようだった。
「あ、ごめん。聞こえちゃった?」
「いや……なんとなく通りがかりで。」
「そっか。……あたしね、放課後になるとこの窓辺に来るんだ。」
「なんで?」
「誰もいないから。」
その言葉に、誠は少しだけ心が動いた。誰もいない時間。誰にも見られない場所。
それは、誠にとっても同じだったから。
「……ここ、居心地いいよね。」
その一言が、奇妙なきっかけだった。
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次の日、誠は放課後にまたその窓辺に立っていた。偶然を装ったが、杏美は何も言わなかった。彼女もまた、その日もそこにいたからだ。
「森崎くんって、ひま?」
「まあ、特に部活もしてないし。」
「ふーん。あたしも。」
しばらくの沈黙のあと、杏美が口を開いた。
「じゃあさ……“ひま部”作らない?」
「……ひま部?」
「ひまな人が、ひまを楽しむ部活。何もしないの。おしゃべりしてもいいし、しなくてもいい。窓から空を見ててもいいし、寝ててもいい。」
「そんなの、部活って言えるのか?」
「だからいいんだよ。意味がないことを、ちゃんと意味あるようにしてみたいの。」
不思議な感覚だった。
けれど、誠はそれを断らなかった。むしろ、心の奥がわずかにあたたかくなるような感覚すらあった。
その日から、2人は放課後になると図書室横の窓辺に集まるようになった。
名もなき部活――いや、“ひま部”の始まりだった。
「今日の空、ちょっと濃いブルーだね。」
「……うん。母さんが死んだ日も、たしかこんな色だった。」
ぽつりと漏れた言葉に、杏美は振り返らなかった。ただ、静かに口を開いた。
「うちの親ね……いっつも喧嘩してるの。帰っても、誰も口きかないの。だからさ、帰るよりここにいたいんだ。」
その日、誠は気づいた。
孤独は自分だけのものじゃない。誰かの痛みと重なると、少しだけ温度を帯びるものになるのだと。
そして、そうして始まった日々が、彼にとってかけがえのない時間になっていくことを、まだこの時の彼は知らない。
だが、やがてその穏やかな日々は、ある事件を境に壊されていくことになる。
――秋元杏美が、忽然と姿を消したのは、それからわずか半年後のことだった。