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透き通った液晶のような真黒い目に、青白く病的なまでに痩せこけたその肌に、映ったり触れたりするのはいつでも、私ではなかった。確かに私だ。触れるのも、眼前にいるのも、往時会話を交わしているのも、すべて私だ。私のはずなのに……そう、例えるなら、私というガラス板越しに誰かを見ているようなものだ。それも、私の背に立つのは私と同姓同名の、私のようだけど幼い子。
つまり過去の私だ。
黒の外衣と同色のネックタイ、今の眼前に見る彼より何倍も荒んだ目は、何も映していなくて、死人みたいだ。髪は妙に艶っぽく、そばに匂い立つのは甘ったるい女の匂い。いや、この香りは私か。実際は、よく寄ると、どこか自堕落のような厭わしい香りが鼻をくすぐる。ああ、うざったい!
毛先と頰を白く染めた彼の睫毛に反射する光も、眉を動かす要因も、その着ている黒外套だって、すべて私じゃない。私のものでもない。いつも目線を合わせる時、私に見えるのは私という「原点」じゃなくて、私という「原点から変化した特異点」を見つめているような目だ。
まるで「貴方は太宰治じゃない」とでも言いたげな目で、いつもその物憂げな視界を眺めている。私はここにいるというのに。認めさせようとするのもきっと、彼の思う「太宰治」に一番近しい手頃な人間が私だと言うだけであり、私に認められたからと言って「太宰治」に認められたわけにはならないのだろう。なら、如何して認めてやろうか?
某日、ポート・マフィアにて、そんな考えが私を過った。その日は、ポート・マフィアとの作戦会議あった。くすんだ茶の目に反射するのは多分、青空を封じ込めた四角形の檻だろう。
「…さん……だざ…ん……太宰さん、…太宰さん。」
ふと寝惚け眼を擦っていると、そんな鳴き声に近しいものが聞こえた。心配と苛立ちが入り乱れた声だった。例えるなら、たぶん母鶏に餌を乞う雛のようだ。
「……用件は?」
冬の夜みたいに冷め切った声を返せば、怯えるでもなくなんでもなく、ただ日常的に繊手に抱かれた書類の山から一枚、するりと抜き取り私の眼前へ差し出す。
「この件について、貴方から少々助言願いたく。」
その紙には、目下私へ問う彼の……芥川君の字で書かれた作戦の概要が載っていた。今は大分、行き詰まっているようだ。この会議に参加している者はおよそ頭脳に長けた人間は私程度しかおらず、精々優秀なのは芥川君、敦君程度で、他は陳腐な戦闘要員ばかり。なので、ろくに損得すら考えもできず、行き止まってしまったと言うわけだ。
「ああ、そこはB班を南西から北西側に……D班は西に、F班は南、A班は南西、G班はC班との合流が容易い北に寄せよう。……あと、ついでにこれはG班の皆に。若い子だけにね。」
私の言うG班というのは、敦君、鏡花ちゃん、銀ちゃん、芥川君の四人で構成されており、私はそこに広津さんを移した。若すぎると色々と不安定が多い傾向にあることを、私は知っていたから。
そして私が譲渡したのは飴四つ。林檎、葡萄、蜜柑、そして芥川君の好きな味の、無花果だ。これを受け取って広津さんに渡ったと聞けば、私はがっかりしてしまうだろうことを大仰に伝えるでもなく、その白魚よりも雪白な繊手へ握らせた。
その姿を愛おしげに撫で回せたなら良かったけれども、きょとんとした顔がハッとして、そのまま深く下がってはまた上がり最後には見えなくなるのを、ただ私はぼうっと何もせず見ていることしかできなかった。
何かしらの感情が沸々と湧き立つでもなしに、ただぼうっと、そのまま暗をそのまま落とし込んたような黒外套が翻って部屋を出ていくまで、眺めていた。退出の声すら、耳には届かなかった。
あの消え入りそうな頬に触れることさえ敵わないと言うところでは、昔話ばかりする老爺の気分がわかるような気もする。らしくない思考回路に、唾を吐きたい程度今は思い悩んでいるので。
「……いつ、伝えろって言うんだろうね。」
左薬指をいたずらっぽく動かしても、誰も気づきはしない申の刻下がり。ただ私は、陽光を一身に受け白昼夢を眺めていたのかもしれない。とうとう顔合わせだけの為の硝子には、ぴしりとひびが入っただけだった。
きぃ、ばたん。数瞬前の閉扉の音も今では虚しく反響だけだった。
忌々しく時計の音だけが響いている、会議室、曇天。開始から四半世紀経った気がするそんな時。
「太宰の野郎は何やってンだァ?」
苛立ちを極めた中也さんが、そう憎らしそうに吐き捨てた。まるで、つい数刻前「犬といると煩くて堪らないから別室で作戦を考えている」と言ってからずっとそうしている太宰さんを起こすべく立ち上がったように。
「……考え事、かと。僕としては、放っておくのが得策と考える。」
こほん、とひとつ咳を吐いて、僕はそう釘を刺しておいた。釘と言っても、脆弱な紙切れにも及ばぬもので、刺すと言っても、ただちょんと触れさせるだけのようなものだが。
彼の人は不可解極まりない方だ。ポート・マフィア最年少の幹部に上り詰め、僕と銀を拾い、躾を施したかと思えば知らん間に敵組織へ寝返っているなど、どう考えようか?
そんな彼の人に付き合わされる中也さんには同情を寄せつつ、同時に羨望なんかも抱いている己が心情を黒獣に飲み込ませたい。そんな事を脳に置きつつも、気掛かりなのは矢張り太宰さんだった。
「ッたく、不満垂らしたと思ったらもう実戦が刻一刻と迫ってるッてのによォ、贅沢なモンだぜ、ほとほと呆れしかねェな。」
かんばせを淀める幹部に恐れ慄く人虎を黒獣で小突いたのは、もう何時間前にした事だろう。良い加減飽きてきた頃、中也さんから沈黙が突き破られた。
「あァ、そうだ芥川、太宰にこれ持っていって案でも強請ってこい。」
そう言われ、ひょいと束となって舞う書類の厚い事を、僕はひどく恐ろしく思った。幸い、会議の大まかな流れは、控え書きになるとは思わずお粗末なものだが手許にあるので、それを潜ませて行けば文句はつけられまい。そう睨んだのを見越してかどうか知らないが、書類の鉄板には隙間があった。
なぜ、と問えば「手前ならあの青鯖も黙って従ってくれるなァ、宜しく頼むぜ。」となんともまあ人任せな事を仰るが、日頃様々にお世話になっているので、反論もできず、廊下へと足を踏み出した。
「……矢張り、書き直すべきか。」
そう悩んでいるのは太宰さんのいらっしゃる個室の前、会議室を発って五分も経たぬ頃だった。英語を走り書きしたように読みづらく醜悪なその字のなんと不躾な事か、これを渡すなら分厚いこの紙の防護壁を引き渡すべきか、そう悩む間も中也さんが待っていると思うと背筋は南極大陸の何倍も凍え縮んだ。
いくら悩めども、実行に移せるはずがないので、大人しく取手へ手をかけた。我ながら酷く恐ろしい事をしたと思う。強く、強く手が震えた。
「失礼します、太宰さん。」
そう、普段よりは声を張り上げて言い放った。
谺する声に震えが止まらない。返事すら返されないほどに落魄れたと見做されたのか?そんな事あってはならない、あったなら生命さえ止めてしまえる。
「…太宰さん?」
もう一度、次は近寄って。しかし反応は先ほどと変わらない。冷や汗が背を伝う。不味い、不味い。
もう一度、また近寄って呼んでみた。
もう一度。
もう一度。
もう一度……。
「……太宰さん。」
四度目辺りで、やっと此方を向いた太宰さんの顔は、四年前を想起させるどんよりとした顔だった。
「……用件は?」
ああ、声質まで当時になってしまったのか。いや、元から此の人はこんな声も出せた。……なんと、恐ろしい人だろう。それを見せるでもなしに、烏合の衆から一枚引いて、僕は口を開いた。
「この件について、貴方から少々助言願いたく。」
日頃となんら変化のない、面白味のない返答で太宰さんは外方を向いた。僕を眺めるよりは、夕焼けを眺めながら夕餉でも考えた方が有益なのは、まあそうなのだが、何処となしに気分が悪くなったような気もした。ああ、この感情に反吐を吐きたい。
「ああ、そこはB班を南西から北西側に……D班は西に、F班は南、A班は南西、G班はC班との合流が容易い北に寄せよう。」
控え書きに太宰さんの字が書きこまれると同時に、そう返答が耳へと流れる。あの時は、しては頂けなかったことだ。速筆で、 女性のような字が紙に浮かぶ。……軟派で身に染みたんだろうか。
若干、とは言い難い感情の波が、脳内を過ぎることも知らず、太宰さんは何やらがさごそと衣嚢を漁る。一体何を渡されるのか、次はそれで脳がいっぱいになった。ある意味、往時に一番して欲しいことだったのかもしれない。
その動作までもが嫋やかで、蓬髪の揺れるその隙暇の時間でさえ愛おしげに熱烈に視線が向く事を、此の人は見向きもしないで、「星が綺麗だ」とか抜かすんだろう。そう、邪な考えに浸るのに、時間は事足りた。ほんの数瞬だったが。
「あと、ついでにこれはG班の皆に。若い子だけにね。」
しい、と指を丹花の口付へ立てて、そう仰られたときには、もう驚愕と喜楽とで思わず飛び跳ねそうになった。実際の顔は若干見開かれた目と半開きになった口程度しか無いんだろうが、それでも僕は嬉しさにも驚きにも変わりはなかった。
細く、確かに骨張ってはいるけれども、何処か柔らかげで暖かなその掌に、西の陽光を反射してきらきらと煌めく袋越しの飴玉。綺麗な色々の中に、濁り気味の赤紫が見つけられた時は、また驚いてしまった。
何処の麗人が寄越したものを僕どもに与えたか、なんてことは考えればキリがないが、今はただ、この甘さに便乗させて欲しい。そう、心のどこかでは思っていたのかもしれない。
「…ありがとう、ございます。」
自分でも分かるほど辿々しげに飴を頂戴して、そそくさと頭を下げながら、そう礼を放った。感情に見合わぬ、小さなものだったと今では自負できる。どうしてこうも、此の人に弱いのだろうか。そう悶々とする間もなく、お別れの時間は来たようだ。名残惜しいとは、この事なんだろう。そう今に知ったことではないが、それが脳に浮かんだ。
「失礼しました。また、数刻後。」
翻した外套に見合わず、少し遅く歩いてみたのは、どうか秘密でいさせて欲しく思った。