アルバレイド王国の北西部に位置するシャーロック地方。夏でも残雪のある険しい山岳地帯を抜けると、そこは目を見張るほど肥沃で広大な平野が広がる。夏は涼しいが、冬は毎日のように吹雪に見舞われ、外に出ることもままならない。その為、人々は一年の半分近くを家の中で過ごすことになる。首都アルバレイスから最も遠く、最も過酷な自然の中に身を置く人々は、その気候故か誰もが我慢強く誠実だった。
例年通り深い雪に閉ざされたシャーロックの山中を、首都アルバレイスから訪れた一団が行進していた。列の中央には大きな馬車があり、その前後に三十名ほどの従者が従っている。吹雪により視界を極度に低下させる現象、ホワイトアウトに見舞われながら、その一団はおぼつかない足取りで山道を歩いていた。
列の先頭を、冬場のシャーロックを良く知る男が歩いていた。水先案内人として雇われた男だったが、これ程までに視界の悪い中を歩くのは初めての経験だった。晴れた日ならば、右手には除雪によって生じた身長を遙かに超える雪の壁が立ちはだかり、左手には美しい雪山を見渡せる渓谷が広がっているが、今日は白一色。右手に聳える雪の壁さえ見る事が出来ない。
こんな無謀な行軍は避けるべきだったが、金貨がぎっしり詰まった袋を前にしては、雪山の恐怖も何処かへ吹っ飛んでしまう。あの金貨さえあれば、生まれたばかりの娘と苦労をかけ続けた妻に、少しばかりの贅沢をさせてやることができる。
妻と子供の笑顔を思い浮かべていた男は、不意に感じた振動に足を止めた。
視界は真っ白に染まり、聞こえてくるのは風の音のみ。しかし、足下からは確かな振動が響いてくる。徐々に振動は大きさを増し、ついには大気を振るわせるまでに至った。
ゴゴゴゴゴ…………!
風の音に混じり聞こえてくる音。男がその意味を判断した時、事態はすでに末期だった。
「逃げろ!」
男は振り返り叫んだ。いや、叫んだかどうかも分からない。右手の山から、大量の雪が押し寄せてきた。雪崩、そう判断した男の意識は、愛する妻子の顔を思い浮かべる時間もなく、視界を遮る白い闇の中へと埋没していった。
雪崩はあらゆる物を飲み込み、崖の下へと叩き落とした。頑丈な馬車に乗っていた一人の少年を残し、従者達は悉く雪の奔流に飲み込まれてしまった。雪崩は全てを一色に塗り潰した。人の命も、そこに生きていたという証さえも白く塗り替えてしまった。
谷底に残された少年は、一人当てもなく彷徨った。横から殴りつける吹雪は冷たく、白いベールとなって視界を閉ざす。少年の歩いた後には、頭から流れ出る血が点々と軌跡を記していた。
「俺は死ぬのか……。まあ、いい……。別に、生きていたってどうにもならない。こんなくだらない人生、早々に見切りを付けるのもいいだろう」
大人びた口調で独りごちる少年の目に生気はなかった。この雪山よりも激しい吹雪が心の中を吹き荒れ、明けることのない夜を抱き続ける少年。
その麗しい外見を、親兄弟から政治の道具として利用されてきた十二年間。すでに少年はこの先にある人生に絶望していた。だから、死に直面しても無闇に生きようと藻掻くことはなかった。どんな死に方であっても、死ねば楽になれる。そう少年は思っていた。
向かっている方角も、道さえも分からない。当然の成り行きで少年は力尽きた。しかし、少年の残した血の後を追い、一組に夫婦が少年を見つけた。
若い夫婦は、二人ともまだ三十歳前だろう。背中に乳飲み子を背負った主人は近くに洞窟を見つけると、そこに少年を運び入れた。手荷物から動物の毛皮を取り出すと、洞窟の入り口を塞ぎ、火を起こして暖を取る。
テキパキと動く二人を見つめながら、少年は素朴な疑問を口にした。
「良く私を見つけたな。此処は本道から随分と離れているだろう」
余計なことを、と口外に付け足した青年の濁った瞳が主人に据えられる。主人は少年の言葉を額面通り受け取ったようで、照れたような笑みを浮かべた。
「偶々通りかかったんです。道を覆い尽くすように雪崩の後があり、見下ろしたら馬車が見えるじゃないですか。妻と急いで降りたんですが、雪の下にいるおつきの方は残念ながら発見できませんでした。しかし、開いた馬車から小さな足跡と血の跡が点々と続いていたので、あなた様を追うことが出来たのです。手遅れになる前に見つける事ができて、本当に良かった」
分厚い皮のマントを脱いだ主人は、鞄から包帯を取り出すと傍らに寄ってきた。緩やかなウェーブを描く金髪と同じように、主人は表情を輝かせていた。
「どうして俺を助けた?」
不満そうな少年の言葉を聞き、主人は目を見張った。
「俺は確かに貴族だが、まだ何の力もない子供だ。利用価値はないぞ」
「何を言うんですか。困っている人を助けるのは、シャーロックでは何も珍しいことではありません。人の命は皆同じ価値ですが、人の出来る事は決まっています。貴族様は、人々の暮らしを豊かにして下さる。だからこそ、私達は貴族様や王様を守らなければいけないのです。年齢なんて関係ありません。貴方は私達を導ける方なのですから」
主人は破顔すると、少年の傷口を消毒した。頭部に感じる鈍い痛みが、生きていると言う事実を少年に突きつけた。結局、死ぬ事は出来なかった。また生きてしまった。少年は口から細いと息を吐き出した。この世界でやるべき事を成せと、神は言っているのだろうか。
「この辺りです。千年前の魔晶戦争で、魔神アルビスが墜ちたのは。まあ、私達は学がないので、魔晶戦争がどんな物だったのか、よく分からないのですがね」
そう言って、主人は大きな手で少年の頭に包帯を巻いていく。ゴツゴツとした硬い手だったが、その手は優しく温かかった。
少年は感情を失った瞳で主人を見つめる。少年の横には、赤ん坊が小さな寝息を立てていた。婦人は焚き火を利用してスープを作っている。生気を蘇らせる香ばしい香りが、洞窟内に立ち籠める。
「魔晶……戦争……」
ボンヤリと呟いた少年は、頭の中に叩き込まれた魔晶戦争の年表とエピソードを呼び起こした。
「約千年前、この星の源である魔晶から生まれた魔神アルビス。星から生じたアルビスが生物なのか、それとも、もっと別の物なのか、それは今でも分かってはいない。アルビスは魔晶を用い、たった一人で人類に戦争を仕掛けた。その際、アルビスが駒として生み出したのが、ドラゴンを初めとする魔物だ。戦争は熾烈を極め、アルバレイドだけでなく、世界の国々を巻き込んだ。魔晶戦争で全人類の半数は死に絶えたが、それでも、数で勝る人類は、アルビスを打ち破った」
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