今日の空は、朝から気持ちよく晴れ渡っている。絶好の、そして念願の外歩き日和だ。
熱を出して寝込んだショコラはあれからすぐに回復し、「さあ!まずは近場での散歩から…」と思っていたところで、悪天候に見舞われた。
ここ数日はシャルトルーズ伯爵家の屋敷の中で、ミエルによる“市井講座”やら、実家から持ち込んでいる勉強の続きに、伯爵家で雇われている護身術の先生との稽古など……意外に持て余す暇も無く、過ごしていた。
だが、本来の目的が果たせない事で、ショコラの欲求不満はだいぶ溜まっているようである。
「ミエルッ!今日こそは街へ行けるのよね⁉」
「はい。これから支度をして、参りますよ。」
「やったあ!!」
ミエルはクスクスと笑った。元々年齢より幼さのあるショコラだったが、今朝はそれに輪をかけ、子供のように目を輝かせてはしゃいでいる。
用意して来た“庶民的な服”にも、ようやく出番が回って来たようだ。今日のショコラには薄く化粧を施し、殊更目立たないようにとミエルは努めた。
ちなみに街へ出る際は、この地で手配した『ごく普通』な馬車を使う事になっている。御者は公爵家から連れて来た使用人だが、こちらにも庶民的な服を着させ街に紛れるようにすれば、準備万端だ。
「それではミエルさん。ショコラ様の事を、くれぐれも頼みましたよ。」
執事のファリヌに見送られ、二人は馬車へと乗り込んだ。
「――今日は初めてですからね。観光客も多い、商店がある地域の方へ参りましょうか。」
それはファリヌからの提案だった。見るもの全てが新しいショコラは、恐らくそわそわキョロキョロと落ち着かないだろう。だからそれと同じく、心が浮き立っている人間が多い場所へ行くのが、初回としては得策と考えたようだ。
走り始めてから程なくして、馬車は賑やかな場所へとやって来た。そこに降り立ったショコラは……予想に違わず、大いに心を躍らせ浮かれている。
「すごい……凄いわ、ねえ見てミエル‼あれが“お店”よね⁉あんなに小さくて可愛らしいお部屋がそれぞれ別の商店だなんて、面白いわ!もっと近くで見てみましょう!!」
その様子は、まるでショコラと遊ぶ時を心待ちにしていたシャルロットのよう。頬を紅潮させ、見るからに興奮している。目に入るもの全てが、キラキラと輝いていた。
こんなに沢山の人がいて、夜会やパーティーさながらなのに、誰一人としてごてごてとしたドレスなど着ていない。みな思い思いの服装をしているのも新鮮だ。店の前に出ている看板も物珍しい。大きな硝子窓の中では、等身大の人形が何体も様々な服を着て、色々な格好をしていて――。
……一体、どこを中心に見たらいいのか。頭の中の処理が追いつかず、思わず目を回してしまいそうになっている。
「ショコラさ…ん!あんまり急がないで、危ないわ!ゆっくり行きましょう。お店は逃げませんよ!」
ミエルは自分の言葉遣いにも気を配りながら、ショコラに声を掛けた。彼女に対し、砕けた話し方をしなければならないというのはどうにも慣れず、何だかムズムズとする。だが、周囲への注意力が散漫になっている姿を見ると、さすがのミエルも口を出さずにはいられなかった。
「それから、言葉とその内容にも気を付けないとね。誰もお店の大きさとその在り方に、感動してはいないでしょう?だって、普通の事だもの。」
「!」
注意を受け、ショコラはハッとする。そして気合いを入れ直した。
「……そうね。気を付けるわ!慎重に、行きましょう。」
しかし、それがいつまでも続くとは思えず、ミエルは少々心配になる。さっきまでの様子は……他の場所だったら、悪目立ち以外の何物でもなかっただろう。
『ファリヌさんの危惧した通りだわ。しっかりお側に付いて、お支えしないと!』
――…そう思ったのも束の間。近くの土産物屋に入るなり、ショコラの気分はまたしても上がって行った。
「見て見て!同じ品物がこんなに沢山‼」
「……それは、工場で量産されているからよ…。」
「ここにある物は、全て売っているのよね⁇あれも??」
「あれは、内装の飾り。値札が付いている物だけね。」
「飾り付けが何て可愛らしいの!この棚のまま、お部屋へ持って帰りたいわ‼」
「(これは本気でおっしゃっている!)同じ物ばかり、こんなにあったら大変よ!お部屋がお店になってしまうわ‼」
……周りにいた人々が、度々ぎょっとしてこちらを振り向く。何とか、“冗談”に捉えて貰える範疇で収まっているだろうか?
行く先々で、ミエルはガリガリと精神を削られて行くようだった。ただの物見遊山なのに、まさかこんなにも疲れる事になるとは……。
「素敵なものが沢山ね‼――そうだわ!お姉さんに、何かお土産を買いたいの。…あっ、このお店に入ってもいい⁇」
まだまだショコラは元気一杯である。対するミエルはげっそりとして、店内を眺める気力もない。
「そう……それじゃあ、“これ”で買える物を選んでね……。私は少し疲れたから、お店の前で待っているわ……」
よろよろとしながら、彼女は主人に一枚の紙幣を渡す。するとショコラはごくりと唾を飲み込み、両手でそれを受け取った。そしてまじまじと見詰める。
「こ……これがお金……。初めて見たわ……‼」
どうも、やたらと感動しているらしい。本でしか知らなかった『お金』……。これがその実物なのか、と――。
こんなものを渡されては、どうしたって瞳がキラキラと輝いてしまうではないか。
「これを使って、お買い物をするのね⁉私が、使っていいのね!?うわあ……ありがとう、ミエル!!」
そうよ、そうよ、と小さな声で答えながらも、ミエルは内心焦っていた。『ああ、お願い‼あまり大きな声を出さないで』と念じながら……。
これはもう一度、よく言い聞かせておいた方がいいかもしれない。
「お、お店の中では、あまり喋らないようにね。それに、ちゃんと値札を確認して、計算して。これで買えるかどうかを、考えるのよ?」
……何だか、あまりにも小さな子供に言い聞かせるような内容過ぎただろうか。相手は17歳の女子だというのに。
しかし、そんな事は気にもせず、ショコラは弾ける笑顔で答えた。
「分かっているわ!行って来ます!」
そう言って、彼女が一歩を踏み出した瞬間――。ミエルはぎくりとした。
「…――ちょっと待って‼」
「?どうかしたの⁇」
ショコラはきょとんとして立ち止まる。ミエルは急に険しい表情をして、辺りを見回していた。
しかし、その顔はすぐに緩む。
「……いえ……何でもないわ。私は外で待っていますからね。終わったら、すぐに出て来て。」
不思議そうに首を傾げながら、ショコラは店へと入って行く。それを見届けると、ミエルは扉の外に張り付いた。ここなら出入りする人間を確認出来るし、中にいる彼女の様子も見守れる。
そしてふと、さっきの事を思い返した。
『……それにしても、何だったのかしら……。今、妙な視線を感じたような気が……』
誰かに「何か」を悟られてしまったのだろうか?……でも、ここまでの会話内容では、オードゥヴィ家の令嬢とまでは分からなかったはず。それとも、単なる気のせい??
『とにかく、警戒はした方がよさそうね。ここでは私しかお守り出来る者がいないのだから。しっかりするのよ、ミエル‼』
気を引き締めるようにして、ミエルはパチンと自身の両頬を叩く。 そして店の窓越しに、ちらりとショコラの姿を確認した。
この警戒心には気付く様子もなく、彼女はそこにある商品に目を奪われているようだった。
――さて。
ショコラが入ったのは、硝子細工の店である。大小様々な花瓶やら食器やらはもちろんの事、他にも装身具類や置物など――。色々な物が、きらきらと美しく輝いていた。
「どれにしようかしら……」
みな素敵で迷ってしまう。ショコラが悩みに悩んでいると、ここの店主らしき恰幅の良い初老の男性が声を掛けて来た。
「お嬢ちゃん、何かお探しかい?」
ハッとして、ショコラは戸惑った。……ミエルには、あまり喋らないようにと言い付けられているのだが……。
――…言葉にさえ気を付ければ、いいのでは??
そう考えて、にこっと笑って返事をした。
「姉へのお土産を探しているのです。」
「ほう、そりゃあいい店を選んだね。この硝子細工はシャルトルーズの伝統工芸品でね、工房で職人が一つ一つ手作りしている物なんだよ。だからどれ一つとして同じ物が無い。」
「まあ、本当に?それは素敵ね!ますます迷ってしまうわ……」
困っているのに楽しそうに品物を選ぶショコラを、店主はくすりと笑って見ていた。
「お嬢ちゃんが一生懸命に選んだものなら、お姉さんは何だって喜んでくれるさ!ほらご覧。宝石とは行かないが、どれもキラキラ光って綺麗なもんだろう?」
彼が一つ手に取り光にかざすと、それは棚に置いてあった時とはまた違った輝き方をしている。本当に、宝石でなくとも、何て綺麗なのだろう……。
それを見ながら、ショコラは姉・フィナンシェの事を思い浮かべた。
『お姉様に差し上げるなら……そうだわ。あの美しい髪に、付ける物がいいわね。それならこれ……これだわ!』
彼女は沢山の品の中から、七色に透き通った髪飾りを一つ、 選び出した。
“ちゃんと値札を…”ミエルの言葉通りそれを確認すると、よし、渡された紙幣に記された数字内に収まる。大丈夫だ。
「これを頂くわ‼」
「まいど。」
品物を決めると、初めての会計である。ドキドキとしながら紙幣を渡すと、店主は手慣れた様子で計算をする。そして何か別の紙幣やら硬貨やらを数え、逆にショコラの掌の上へと渡して来た。
「??お金が増えたわ……⁇」
……なぜ?と彼女は目をぱちくりさせる。
お金とは、その金額内までの物と引き換えられる券、ではなかったのか……??
「……?お嬢ちゃん、“増えた”って……これはお釣りだよ??さっきより、減っただろう。…アッハハ、面白い子だねえ!」
彼はキョトンとした後、大笑いをした。これにはさすがのショコラも、何かおかしな事を言ってしまったのだと自覚する。そして少し、恥ずかしくなってしまった。
『そうか、“お釣り”……。余った分は返してくれるのね。……あら?では、これもお金なのだから、まだお買い物が出来るという事よね⁇――…それじゃあ!』
ショコラは急いで売り場へ戻ると、返って来た額を確認し、別の品物を二つ選んでまた店主へと渡す。
「これとこれもお願い!……いいかしら?」
「おや、追加で買ってくれるのかい?そりゃあもちろん、大歓迎さ‼」
――そうしてしばらくが経った頃、ようやくショコラが店から出て来た。
ミエルは笑顔で出迎える。
「良い物は見付かった?」
「ええ、とっても‼」
初めて自分一人で選び、自分一人で買う事が出来た。ほくほくとしたその顔には、喜びなどが全て詰まっているようだった。
「荷物を持つわね。」
そう言ってミエルが手を出したが、ショコラはキョロキョロと周りを見回している。
「いいえ、自分で持つ!大して重くはないし、普通はみんな、自分で持つものでしょう?」
まさか、ショコラの方からそんな事を言われる時が来るとは……。ミエルは驚いた。色々と心配もしたが、今日一日で彼女は確実に成長している。そう、しみじみと思った。
「…そうね……。それじゃあ、落とさないように気を付けて。」
二人はその店を後にして、歩き出した。
『あれから、妙な気配は無くなったようだし。良かったわ……。』
ミエルはホッとしながらショコラを見る。彼女はまだ、嬉しそうに浮かれている。よほどお買い物が楽しかったらしい。「うふふ」と笑いながら前に出ると、くるりと後ろ向きになって歩き出した。
「!ショコラさん、そんな歩き方をしていたら危な…」
ドンッ!
忠告したが間に合わず、ショコラは人にぶつかってしまった。ミエルは慌てて駆け寄る。
「大丈夫⁉ああ、だから今言おうと……」
自分の事より、買った物は無事だろうか……。ショコラは一瞬、そっちを心配してしまった。が、ハッと気付く。
その前に、言わなければならない事があるではないか!
「あのっ、ごめんなさい…」
「……ちょっと。言うのが遅くない?」
機嫌の悪そうな声が返って来た。ぶつかった相手は、自分と同じ年頃の少女である。
彼女は眉間に皺を寄せながら立ち上がり、パンパンと服の埃を払っていた。
「ほ、本当にごめんなさい!お怪我は……」
「別に怪我なんてしてないけど。ったく、どこ見て歩いてるわけ?浮かれてんじゃないわよ。」
「ごもっともです……。」
ショコラはしょんぼりとした。
相手はお怒りのご様子。それも当然の事だろう。返す言葉がない。
……失敗した。今のは完全に自分が悪い。色々と、気を付けなければならなかったのに……。
だが、ミエルの方は彼女の言い方にカチンと来てしまったようだ。
「ちゃんと謝ったじゃないの!そんな言い方はないんじゃないかしら⁉」
「ちょ、ちょっとやめて、ミエル…。悪いのは私なのだから……。」
少女は、薄目でじろりとこちらを睨んだ。
「……さっきから聞いてりゃ、何その言葉遣い!もしかしてあんたたち、どっかのオジョーサマ?」
二人はドキリとした。
しかし、“今”はそこまであからさまな喋り方はしていなかったと思うのだが――…
「…えっええ、私たち、それなりの資産家の娘よ!」
破れかぶれにミエルは答える。ショコラはギョッとした。一体何を言い出すのか⁇と……。
「姉妹って事?それにしちゃ、呼び方がおかしくない⁇姉が妹を“さん付け”なんてさあ。」
何て鋭い。少女はなおも疑り深い目で見て来る。二人は更に焦った。
「〰〰この子の父親が、資産家なのよ!私の母は後妻として入って玉の輿に乗ったの!私たち、義理の姉妹よ‼…そういう訳だから、複雑な関係なのよ!!」
錯乱したのか、ミエルはペラペラととんでもない設定を作り上げている。それを少女は、奇妙な顔して聞いていた。
「……複雑な関係の姉妹なのに、仲良く旅行……?ヘンなの!」
一蹴された。ミエルの作った“設定”は、更に疑念を深めてしまっただけのようである。
「ま、どうでもいいけどね。気を付けなさいよ?そんな風に“お金持ち感”出してると、後で痛い目に遭うんだから。ぶつかったのがあたしで、良かったわね!」
少女はすげなく「ふんっ」と言うと、そのまま立ち去って行ったのだった。
「……何て失礼な子なのかしら……!ショコラ様に対して!!」
「しっ!さん、でしょう?……仕方ないわ。彼女、私の事なんて知らないんだもの。怒っては駄目よ。」
ショコラはミエルの側で、小声で話した。
「――でも、優しい方ね。」
「はい⁇どこが…」
「だって、何の関係もない私たちを心配して、色々と教えてくれたじゃない。」
「はあ……。」
普段身の回りには素直じゃない人間が多いせいか、ショコラは天の邪鬼語の翻訳が出来るようになったらしい。いや、意訳と言った方が正しいか……
冷静になると、ミエルは改めて考えてみた。
『“私たちの関係の設定”……。確かにこれは、きちんと詰めておくべき事項だったわ。戻ったらファリヌさんに報告して、話し合っておかないと。』
――それからもうしばらく商店を回ってから、迎えが来る場所へと向かった。
無事にショコラたちを乗せた馬車は、シャルトルーズ伯爵家の屋敷へ向けて走り出す。
「ミエル!はい、これ。」
車内で、ショコラはあの硝子細工の店で買った物を一つ、ミエルに渡した。
「何でしょう?これは……」
包みを開けると、そこには小さな耳飾りが入っている。
「いつもありがとう、と、これからもよろしくねっていう、証よ。……今日も、色々と迷惑を掛けてしまったけれど……。」
ショコラは照れ臭そうに「えへへ」と笑う。そしてそれを隠そうと、わたわたとした。
「あっ、ファリヌにもあるのよ!タイの留め具なのだけど……。渡すまで、内緒にしていてね?」
そう言って、今度は照れ笑いをしながら口元で人差し指を立てた。それを見ていたミエルは、感激で胸が一杯になる。
そして目には涙が溢れた。
「……勿体ない贈り物ですわ……!ありがとうございます。大切にいたしますねっ‼」
彼女は小さな耳飾りを、ぎゅうっと握り締めた。
――翌日。
ミエルとファリヌ、二人の耳元と胸元には、それぞれ耳飾りと留め具が煌めいていたのだった。
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