「これより、イブキ救出についての会議を始める」
氷のように冷たい声で、マコトがそう宣言した。その瞳は怒りというよりも、もはや憎悪の色を宿して、テーブルの対面に座る風紀委員会の二人を射抜いていた。
「単刀直入に聞く。なぜ、お前たちは動かんのだ。イブキが、白昼堂々攫われたのだぞ!風紀委員会の仕事とは、一体なんだ!」
机を叩かんばかりの剣幕のマコトに対し、ヒナは表情一つ変えずに腕を組んでいた。代わりに、その隣に立つアコが、やれやれと溜息をつきながら口を開く。
「……マコト議長。お気持ちは分かりますが、感情的になるのはやめて頂きたいです。というか普段は貶す癖にこういう時に限って────」
「アコ」
アコの辛辣な言葉がヒナの静かな一声に遮られる。アコは一つ咳払いをすると手元のタブレット端末を操作した。会議室の中央にホログラムスクリーンが浮かび上がる。
「まずはこちらの情報を共有します。話はそれからです」
アコはスクリーンを指し示しながら淡々と、しかし確かな情報でこの事件がいかに『異常』であるかを語り始めた。
「初めに、今回の犯人についてですが────」
「…………万魔殿を翻さんとする組織。それも、元メンバーが所属していると」
「はい。イロハさんの仰る通り、犯人は例の犯罪組織です」
「ただ、問題なのは『元万魔殿メンバーが所属している』…………いわばこちらの事情は人一倍に詳しいってこと」
ヒナがそうひとつの議題を締めくくると、アコがリモコンを操作する。するとスクリーンにはゲヘナ自治区のとある地点の地図を示していた。
「地図に示されているのは、ゲヘナ自治区とトリニティ自治区の境界線のようですが…………」
「はい、その境界線が重要になるんです。この組織のアジトが位置する場所、丁度その境界線上に位置しているのです」
犯罪組織の制圧が難航する理由…………その内のひとつが『アジトの位置』だった。
「なるほど、要するにお隣のトリニティとの外交問題を危惧して、ってことか」
そもそもゲヘナとトリニティの間にはとても複雑な事情がいくつも存在する。一度和平条約を締結はしたのだが、それでも互いの不信感や差別的思考は即座には消えないのだ。
「それと余計な情報だとは思うけど、この組織、トリニティにまで根を伸ばしていらしいけど、今までトリニティが本格的に対応する事案は一度も無かった。ほんと、地の利を生かしているとしか言えないわ」
「なら!トリニティと連携を組んでアジトを潰せばいいだろう!?」
「だから、そんな単純でしたらこんなことなりません!」
物事を深い場所まで読むことができず、とにかく激しい怒声で指摘するマコトと、これ以上は耐えられないと思ったのか、引けを取らない声量で怒声を飛ばすアコ。再度喧騒に包まれる会場に、ヒナが再び威圧すると、二人はどこか不満な顔を見せながら大人しく座り直した。
「マコト。念のため言っておくけど、万物が君のために動く世界ではない。それは分かっているだろう?」
「なっ!?どうして先生まで!?」
「これ以上の条件がなかったとしても、ここまでの情報だけでゲヘナが本格的に動くことが不可能だ」
「言うまでもないけど、トリニティはゲヘナの勝手な事情に従順的な態度をとるとは思えないわ」
「くっ…………!」
圧倒的な冷静な判断に屈服せざる得ないマコト。イロハも彼女の心情には共感はできる。無理言ってもイブキを助けたい。その心情はマコトとイロハどころか、この場にいる全員がそうだ。ただ、マコトの情熱とは程遠い、冷たい落ち着きが代わりに宿しただけのことだ。
アコがマコトを一瞥し、「落ち着きましたか?」と皮肉めいた口調で声をかけた後、ヒナへと視線を移した。それを受け、ヒナは重々しく口を開く。
「私達が動けない最後の理由…………それは、言うまでもなくイブキの存在よ」
その存在の名前を直接口にした瞬間、まるで氷の指で心臓を鷲掴みされたかのように、イロハの呼吸が浅くなる。
「ご丁寧に、風紀委員会宛に脅迫状まで届いているわ。『シャーレ含め、両間の公的組織が介入した瞬間、人質の命はない』とね」
ヒナは忌々しげにそう吐き捨てた。
「私が単独で奇襲をかけたとしても、これだけ防備が固められていては、確実にイブキを巻き込む。ゲヘナの最終戦力ですら、この状況では切り札になり得ない。完全に、手足を縛られているのよ」
「詰み…………ですか…………」
イロハの唇から、か細い声が漏れた。
────詰み…………?いや、私が犯した罪だ。
────私が弱かったから。
────私が油断したから。
────私がイブキを危険な目に遭わせたから。
────私が…………私が、私が。私が。
後悔の言葉が、呪いの如く頭の中で反響する。イロハの視界から、急速に色が失われる。先生やヒナの声が、水中にように遠く不明瞭に響き出す。自分だけが、狭い箱に閉じ込められるように、世界から隔離されていく。
「────ハ、イロハ!!」
「うぇっ!?は、はい?」
「大丈夫?さっきまで呼吸荒れてたけど…………」
「へ、平気です…………!」
平気という言葉は平気でない時に出る言葉だ。先生はこれ以上詮索せずとも、イロハの心情をよく理解できた。
「以上の理由を踏まえて、この組織は政治的観点から防衛線を張り巡るらし、安全地帯で叛逆を狙っている状況です。いわば『詰み』です」
「そうかそうか…………なら仕方がないか…………」
アコからの報告を聞いたマコトは納得したように縦に首を振る────とここで終わるマコトではないと分かっている。
「────なわけないだろぉ!!!!このマコト様が!こんな理屈で屈すると思ったか!!!いいか!?イブキは私とって、ゲヘナにとって、世界にとってかけがえのない存在だ!!そんな子が誘拐されるという一大事を指を咥えて眺めろと!?それに、マコト様のプライドが黙っていない!!イブキの誘拐を許してしまった自分が憎い!そして我々の宝玉を無闇に!雑に!扱うあいつらがもっと憎い!!!」
マコトは激昂し、勢いよく机を叩き立ち上がると、台本が用意されているのかと勘違いしてしまうほどに、洗礼された己の心情を篤く語った。
「そうだ!私はゲヘナを統べる帝王だ!今すぐにでもあいつらのアジトを火の海に────」
「────少しだけ、頭を冷やしたら?」
篤く語るマコトに、対照的な冷静で冷たい声が遮る。そしてマコトが反応する間もなく、彼女の額に一筋の弾丸が直撃する。
「あ“あ“っ“!!?」
「ま、マコトちゃん!?」
「先輩!大丈ですか!?」
抵抗の兆しを見せず、勢いよく倒れるマコトに、チアキやサツキが彼女の身を案じて駆け寄る。イロハも同様に駆け寄ろうとしたが、彼女の太腿が悲鳴をあげたため、仕方なく身を引っ込る。
「……あの、先生? さすがにこれは、止めるべきでは?」
「うーん、でも『頭を冷やした方がいい』っていうのには、私も賛成だったからなぁ」
「そういう問題じゃありません……」
この大人はやはりどこかズレている。イロハは本日何度目か分からない深いため息をついた。
「……さて、少しは頭が冷えたかしら、マコト」
ヒナは倒れているマコトを一瞥すると、その視線をまっすぐに先生へと向けた。
「表向きの戦力では手詰まり。……でも、それで終わりじゃない。違うかしら、先生?」
額に手を被せながら、静かに睨みつけるマコトの威圧に意を返さず、ヒナは先生に話を振る。
「その通りだよ、ヒナ。万魔殿も、風紀委員会も、そしてシャーレも、『公式には』介入できない」
先生は、あえて『公式には』という部分を強調した。その言葉の意味を、そこにいる誰もが考えあぐねる。
「……つまり、どういうことだ?」
「簡単な話さ。『公式』でなければいいんだ。どの組織にも属さない、誰の指揮も受けない────たった一つの目的のためだけに動く、『非公式の』特殊部隊を、今ここで作ればね」
先生の口から告げられた、常識外れの対抗策。その言葉に、会議室の空気は一瞬だけ期待に揺らめいた。だが、すぐに「しかし、どうやって?」という新たな疑問が、その場の全員の顔に浮かんでいた。
疑問に満ちた沈黙を破ったのは、やはりイロハだった。
「……失礼ですが、先生。その『非公式の部隊』とは、具体的にどういうものです? まさか、その辺の一般生徒を寄せ集めて特攻させる、などという無茶な話ではありませんよね?」
その問いかけには、わずかな苛立ちと、藁にもすがるような真剣さが滲んでいた。先生は、一瞬だけ言葉に詰まると、落ち着きを取り戻すように一つ咳払いをした。
「もちろん違うよ。……敵の思考を読んでみよう。彼らが最も警戒しているのは何か? それは二つ。『ヒナのような、単独で戦況を覆せる規格外の戦力』と、『風紀委員会そのものという、物量による制圧力』だ。だからこそ、彼らは脅迫という手段で、その二つをピンポイントで封じ込めてきた」
「ごく少数かつ、ヒナ委員長率いる風紀委員会以外の生徒で構成された部隊が必要ですか…………」
アコが納得できたように静かに呟く。
「だけど、問題はその人選よね。正直言うと、風紀委員長以外はそこまで強いとは…………」
「そう。だから、残された数少ない時間で鍛錬を積み重ねるって言うのはどうかな?」
「けど、今更鍛錬なの?そこまで悠長な時間は残されていないとは思うけど…………」
議論に進展がない中、イロハは俯いたまま、強く拳を握りしめた。
────だめだ。みんなは、イブキのためにこの瞬間まで勤しんでいるというのに、元凶の私は…………。
心を締め付けるは、後悔と申し訳なさ。
────そうだ。私があの時、もっとしっかりしてれば…………。
悔やむたびに心の底から現れる言葉。
────いや、ここで静かに悔やむのはもうやめだ。私が…………。
懺悔の時間に終止符を打つ。俯いていた顔をゆっくり上げる。
────これは、誰でもない、私の問題。私が蒔いた種だ。ら、この手で刈り取るしかない。どんな無茶な作戦だろうと、どんな危険な場所だろうと、関係ない。
ようやく彼女の瞳に光が差し込む。
「その作戦、私に任せてもらえますか?」
イロハの決意は、この会議に転換点をもたらした。
「い、イロハさん?急にどうして……………いや、イロハさんが出るとなると────」
「ええ、分かってます。私といえど、万魔殿の戦車長として名が知れてますね。しかし、そう呼ばれる所以は『私が戦車の扱いに長けている』から。おそらく戦場は敵アジト内部でしょう。となると私の得意分野である戦車は使えませんね?」
「た、確かにそうですが…………いやっ、別に馬鹿には────」
「お気遣いは無用です、行政官。それに、私がそのボスと対面した時に『弱い』と吐き捨てられましたからね」
イロハの意見は志望理由としては十分だった。しかしそれでも適切な人員なのか、また別の議論を呼び起こす。
「い、イロハちゃん?流石に今回は、下がったほうがいいわよ?」
「…………どうしても気がかりなんです。私が蒔いた種だというのに、他人任せでいいのかと」
心配するサツキに、イロハはどこかぶっきらぼうに感じる言葉を返す。すると先生が彼女に声をかけた。
「イロハ…………さっきからすごく冷静に、理路整然と話しているけど……本当は違うんじゃないかな」
「…………」
「本当は怖くて、不安で今にも泣き出しそうなんじゃないかな。そうでしょ?」
イロハの肩が微かに震える。
「それでも、心の中の本音を押し殺してでも、戦いたいんだね?」
「はい、先生の言う通りです。もちろん怖いし、不安ですよ。でも…………それでも立ち向かわないとって」
「なら、私からは言うことはないよ」
イロハの本心を聞き遂げた先生は、マコトに視線を向ける。
「この作戦は、イロハに任せようと思うんだけど…………どうかな?」
マコトはすぐさま反論するわけではなく、ただ静かに目を閉じ、長考するかのように腕を組んだ。
「…………ああ、今回の作戦の担当はイロハが適任だな」
マコトの意外な即決に、会議室にいた誰もが驚いた。その沈黙を破ったのは、テーブルの対面に座るヒナだった。彼女は値踏みするように細めた目でマコトを見つめ、静かに問いかけた。
「あなたが、そうあっさりと認めるなんて。明日は槍でも降るのかしら?」
「勘違いするなよ風紀委員長。このマコト様が見込んだ人材だぞ? イロハがサボり癖のある怠け者なのは事実だが……いざという時に、やるべきことをやる覚悟を持っていることも、この私が見抜いていたわ!」
そして一度言葉を区切り、「それに…………」と呟きながらイロハへ近寄り、ぐいっと肩を抱き寄せた。
「ここで万魔殿が大きな功績を残せば、風紀委員会共に一泡吹かせられるからな!キキキッ!」
「はぁ…………」
結局調子に乗るマコトに、ヒナはため息を吐く。
「まあ。何はともあれ、これで方針は決まったわね。後は────」
「ええ。イロハさんの鍛錬については、私たち風紀委員会に一任していただきます」
その申し出に、先生は安堵の表情を浮かべた。
「助かるよ、ヒナ、アコ。ありがとう」
「礼には及ばないわ」
ヒナはそっけなく言うと、その鋭い視線をまっすぐイロハへと向けた。
「棗イロハ。あなたの覚悟は認める。けれど、私たちの訓練は甘くない。途中で泣き言を言うくらいなら、今すぐ辞退しなさい」
「……覚悟の上です」
「よろしい。訓練は、明日の午前5時きっかりに開始する。場所は風紀委員会の第一練兵場。……遅刻は、許さないわよ」
その有無を言わさぬ言葉に、イロハはただ「はい」と頷くことしかできなかった。
「キキッ!せいぜいしごかれてくるがいいわ、イロハ!そして、必ずやイブキを連れ戻し、この私の偉大さの証明となるのだ!」
マコトがいつもの調子で激励の言葉を叫び、先生が苦笑しながらそれを宥める。
こうしてゲヘナの未来を揺るがすかもしれない、奇妙で混沌としたゲヘナ緊急会議は幕を閉じ、新たなステップに移った。
「はぁ……っ、はぁ……!な、何なんですか……これっ!?」
現在、棗イロハは、人生で味わったことのない地獄の只中にいた。
早朝、まだ陽も昇りきらない練兵場に叩き起こされるなり、何の準備運動もなく言い渡されたのは『グラウンド10周』。肺は灼けるように熱く、一歩踏み出すごとに太腿の筋肉が悲鳴をあげていた。額から流れ落ちた汗が目に染みて、思考すらまともに働かない。
怠け切った体には到底耐えられない苦痛だった。
「あら?昨日は泣き言は言わないと聞いたようだけど…………」
「そんなこと……一回も……言ってませんよ……!」
既に疲労困憊のイロハに、余裕綽々のヒナが駆け寄る。ヒナは一度冗談を言ったものの、彼女の状態を鑑みてその態度を取るのを控えた。
「…………まだまだ序の口よ。もっと死ぬ気で頑張りなさい」
「は…………はい…………」
切れかけたエンジンを、イブキとの記憶だけを燃料にして、無理やり再点火させる。そんな地獄のような時間が、どれだけ続いただろうか。
グラウンドを走り終えれば、次は銃器の分解・組立のタイムトライアル。指先の感覚がなくなるまで、何度も繰り返させられた。
昼食を摂る間もなく、午後は近接戦闘術の基礎訓練。屈強な風紀委員の生徒を相手に、受け身の取り方だけを、日が暮れるまで叩き込まれた。
全ての訓練が終わる頃には、イロハの身体は泥のように重く、指一本動かすことすら億劫だった。
(……ああ、もう、無理……。明日は、サボろう……)
風紀委員会の仮眠室のベッドに倒れ込み、意識を失うように眠りに落ちる。そして、また夜明けと共に叩き起こされる。
────そんな悪夢のような日々が始まった。そして時が経つにつれ、風紀委員会の鍛錬メニューは段々と過酷さを増させる。
「ぐっ……!?」
腹部に叩き込まれた模擬弾の衝撃に、視界が白く染まる。ヒナ委員長を仮想敵とした模擬戦は「訓練というより、一方的な蹂躙に近かった。数で勝るはずの風紀委員の部隊が、たった一人の前になすすべもなく壊滅していく。もちろん、イロハも例外ではなく、毎度数分と経たずに地面に転がされるのがお約束だった。
肉体を苛め抜かれた後には、精神を削る座学が待っていた。
「────というわけで、この状況下における最適戦術解は、デルタ-7パターンに移行し、各個の射線を確保しつつ、制圧射撃によって敵の足止めを図るのが定石です。何か質問は?」
アコ行政官による戦術理論の講義は、普段の業務で触れることのない専門用語の嵐。正直、半分も頭に入ってこない。致死量レベルの知識を無理やり脳に詰め込まれ、イロハの貧弱なキャパシティは、毎日パンク寸前だった。
そして、唯一の実践の場が、ゲヘナ自治区のパトロールだった。
「イロハさん! 右翼から敵増援! 15以上です!」
「こんな数、正面からぶつかったらダメです! 一部は私と正面で引き付けます! 残りは路地から回り込んでください!」
不思議なことに、模擬戦ではパニックに陥る頭が、ここでは冷静に活路を見つけ出していた。連携の取れていない不良生徒を相手にするなら、いつも万魔殿でやっている『面倒事の采配』と、やることはそう変わらない。風紀委員会の若い子たちに的確な指示を飛ばし、最小限の被害で敵を撃退する。
そんなことが、何度か続いた。もちろん、そんなささやかな成功で地獄が終わるはずもない。むしろ、イロハの才能を見抜いたのか、それとも隊長としての運命なのか、訓練メニューはさらに過酷さを増していくのだった。
「ほんとっ!容赦はないんですか!?」
「戦場に手加減は禁物よ」
イロハの感情的な悪態に、ヒナはそっけなく、冷たく返し、無慈悲に弾丸の雨を放つ。
現在イロハが行なっているのは、ヒナとのワンツーマンの模擬戦だ。流石に一対一ということで、ヒナも手加減して常識の範疇内の実力に抑えた、つもりだが…………やはりイロハにとって、今し方の状況も理不尽だと思えてしまうようだ。
(このまま障害物に隠れていても、結局決着をつけられてしまう。今回の目標は少しでも『委員長の意表をつくこと』。だったら……………)
迫り来る弾丸の軌道に焦りながらも、ヒナの意表をつける最大の一手を探り出す。そして────
「……?」
ヒナの目に映ったのは、障害物から躍り出る大きな影。イロハしかいない。可哀想だが訓練は訓練なのでしっかりと撃ち落として上げよう。そう心の中で謝りながら、容赦なく影に向って発砲した。ところが────
「っ!?違う、ドラム缶?」
ヒナが撃ち抜いたのはイロハではなく、赤いドラム缶という雑な身代わりだった。彼女が不意を突かれたと感じた瞬間、背後から物音が響く。
「……でも、まだまだね」
「かはっ!?」
身代わりを駆使し、一度はヒナの意表をついて背後をとったイロハだったが、まるで数秒先の未来を読んでいるとしか思えないヒナの一手によって、一瞬にして決着をつけられてしまった。
「イロハ。作戦に専念しすぎで、迂闊に前へ出てしまったわね。油断は禁物よ?」
「いや、あんなの初めて見ましたよ。ノールックで羽を羽ばたかせて弾を弾き返すなんて…………」
「でも、私の意表はつけたようね」
「え、ええ。ありがとうございます……?」
「それじゃあ、次の訓練頑張ってね」
「…………はい」
一時期の成功も虚しく、次の訓練の為に見送りとなってしまった。
ヒナにボロボロにされた身体を引きずってたどり着いた先は、風紀委員会の作戦司令室だった。待ち構えていたのはアコ行政官だ。
「はぁ…………今回も」
「はい。今回もあなたの指揮能力をテスト、及び訓練をしてもらいます」
目の前に置かれたタブレットには、無数のユニットが入り乱れる、複雑怪奇なRTSの画面が映し出されていた。
「――制限時間は45分。この盤面を、損耗率5%以下で完全勝利させてください。なお、同様のシミュレーションを、本日はあと10回行います」
「……やっぱり多いですね」 「何か問題でも? この程度の情報処理で音を上げるようでは、隊長の任は務まりませんよ?着実にあなたの能力を上げてもらいたいのですよ」
アコの正論に、イロハはぐうの音も出ず、画面と向き合うしかなかった。
それから、どれだけの時間が経っただろうか。何度目かのシミュレーションを終えた時、ふと、隣でタイムを計測していたアコが、信じられないものを見るような目でこちらを見ていることに気づいた。
「……どうしました?」
「……いえ。初回クリアタイムから、20分も短縮している……。マップも変わってますし、難易度も上がってるはずですが…………私の予測を、遥かに上回る速度です。もしかして……既にプレイした経験が?」
「いえ、サボりはよくしますが、読書しかしないので」
イロハはなんとなくアコの意図を汲み取り、どこか的外れ気味な回答を言う。当然、アコの顔は何言ってんだ?と言いたそうな不満そうな顔だった。彼女は次の盤面の動きを考えるのにも必死で、尚且つ疲労が溜まっているのだった。
肉体的な苦痛とは違う、脳が焼き切れそうになるような疲労感。それをノンストップで味わい、アコの訓練が終わった時には心も、目も多大なダメージを喰らっていた。
休憩を挟んで、次は再び肉体に悲鳴を上げる訓練だ。
「ほら!目が泳いでるぞ!」
「お、泳がせてるわけでは……いてっ」
今度はイオリによる反射神経を育む訓練だ。内容はシンプル、高速のイオリの猛攻を避けてたりいなしたりして、攻撃を掻い潜るだけの訓練だが、やはり指揮官側がおかしいという一言に尽きる。
言ってしまえば、イオリが速すぎるのだ。そんな質量を持つ人間が出せるわけのスピードを、彼女は悠々と越えることができる。イオリはヒナに余裕で負けるほどの実力らしいが、どっちみちイオリも化け物だ。
そんな目で捉えることすらできないものと、イロハは対峙している。確かに目が彼女の動きに追いつかないのは事実だが、所々で一瞬だけだが捉えることができる。
(イオリさんは一瞬、特に方向転換する瞬間、足を踏み込む隙ができる。あとはここから動きの展開を予測すれば……!)
奇しくも、アコとの訓練で培った頭の回転が役に立っている。だが、頭では分かっていても体が追いつかない。
何度も体を打たれながら、策はないかと長考するイロハ。ふと、小耳に挟んだ話を思い出した。
「……何やってるんだ?」
突然動きを停止したイロハに疑問を持つイオリ。だがイロハがすぐに動きを再開させたため、そんな疑問もふわりと消えた。イオリがイロハの周りを旋回し、隙をついて接近しようとした瞬間。
「なっ……!?」
何かにつまずき、速度を抑えきれず盛大にすっ転んでしまう。
「おっと、どうされましたか?そんなに盛大に転んで」
「なっ、何をした?」
「なんのことですか?私はただ、足を出しただけですが…………」
そう言ったイロハは、小悪魔的に笑う。
勿論、偶然ではなくイロハが計画した結果なのだ。イロハが思い出したこと、それはイオリは搦手に弱いことだ。そこでイロハはイオリが旋回するために足を踏み込んだ瞬間から、細かい仕草を読み取り、方向を予測、進行方向にちょいと足を出したのだ。
「というか、この訓練の趣旨が違うだろ!」
「んなこと言いますけど、常人が神速に追いつけるわけないじゃないですか」
イロハのあまりにも正論な開き直りに、イオリはぐうの音も出なかった。足には自信がある自分が、こんな原始的な奇襲で地面に転がされている。プライドがズタズタに引き裂かれるようだった。
(……だが、あれは偶然じゃない。私の動きを、完全に読み切った上での一手……)
その事実を認めてしまうと、悔しさで顔から火が出そうだった。だから、イオリは何も言えず、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。そんな気まずい沈黙を破ったのは、訓練場の扉を開けて入ってきた、救護騎士団のチナツだった。
「イロハさん、そろそろ時間です。次の……あら? イオリさん、どうかなさいましたか? 地面で体育座りなんて」
「……別に。少し、地球の重力を感じていただけだ」
苦し紛れの言い訳を呟くと、イオリは顔を真っ赤にしながら立ち上がり、そそくさと訓練場から出て行ってしまった。
「??……よく分かりませんが、行きましょうか、イロハさん」
不思議そうに首を傾げるチナツに、イロハは「はい」と一礼し、その後ろ姿を追った。
地獄の戦闘訓練を終えたイロハにとって、チナツとセナによる衛生講義は、天の助けのように思えた。
(ふふん、ようやく私の得意分野ですね。これならサボりながらでも……)
そんな彼女の甘い考えは、セナが無言でマネキンに包丁を突き立てた瞬間、木っ端微塵に砕け散った。
「まず理解してください。銃創と違い、刺創は内部組織の損傷が深刻です。キヴォトス人の頑丈な肉体でも、臓器を直接傷つけられれば致命傷になり得ます」
セナの一切の感情を排した淡々とした説明に、ゴクリと唾を飲む。
「ですから、まず重要なのは決して刃物を抜かないこと。そして迅速な圧迫止血です。イロハさん、このガーゼを傷口の根本に強く押し当ててください」
チナツに言われるがまま、イロハは震える手で、マネキンに突き刺さった包丁の周りにガーゼを巻き付けた。
────ふと抱いた違和感。この対処法はきっと私の為にあるだろう。だが妙に引っかかる。まるで私のためではないという感覚だ。仲間…………でもない気がする。
だがこの疑問は解決されないまま、衛生講義も終わってしまった。
「はぁ…………疲れた…………もうやりたくない……………」
時刻は既に12時を回っていた。イロハは、疲労によっとどっしり重くなった体を、そのままベットに預ける。確かに成長を感じ、どことない達成感は得られているが、やはり面倒臭さ、苦しみが勝ってしまう。
明日はサボりたいと、怠惰な願いを唱えるイロハだったが、彼女の脳裏に例の記憶が呼び起こされた。
「……いえ、イブキのためにも最後まで頑張り切らないとですね」
イロハはそう誓うと、そのまま眠りに落ちてしまった。
地獄の特訓が始まってから、どれだけの時間が経っただろうか。イロハの身体には無数の痣が刻まれ、サボりたいという本音は今も心の片隅に燻っている。
だが確実に何かが変わった。ヒナの動きがほんの少しだけ見えるようになった。アコ行政官の出す難問に最適解を叩き出せるようになった。
彼女自身が強くなったという実感はまだない。ただ、あの日のような無力感だけはもう感じなかった。
その日、イロハはほんの束の間の休息を与えられ、風紀委員会の休憩室でぼんやりと窓の外を眺めていた。
(……終わったら、まずは三日くらい眠り続けたい……)
そんなありふれた怠惰な夢想に浸っていた、その時だった。
「――棗イロハ」
背後から静かだが決して聞き間違えることのない声が響いた。
「はっ!?はい!」
まるで兵士のように反射的に立ち上がり、敬礼までしかけて慌てて手を下ろす。休憩室の入り口には、腕を組んだヒナが氷のような瞳でこちらを見つめていた。
「な、なんでしょうか、委員長」
「……これで、あなたの訓練は終わりよ」
「……え?」
あまりにも突然の言葉に、イロハの思考は一瞬停止する。
────終わり? 何が? あの地獄の日々が?
そんなイロハの混乱を見透かすように、ヒナは静かに、しかし何よりも重い言葉を告げた。
「勘違いしないで。これは『終わり』じゃない。本当の『始まり』よ」
彼女は、一枚のデータチップをこちらに差し出した。
「────作戦は、今夜決行する。準備しなさい、隊長」
その言葉に、イロハの思考全てが覚醒した。







