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#7 約束と衝突の間で
wki side
同居生活が始まってから、一年が経った。時間がこんなにも穏やかに過ぎていくものだとは、正直思ってもいなかった。
大森さんは昼間、近所の印刷会社で働き始めた。規則正しい生活に慣れるまでは大変そうだったが、持ち前の真面目さで少しずつ仕事に馴染み、今ではすっかり信頼される存在になっているようだった。
夜は変わらず「セリーヌ」を手伝い、カウンターの奥から笑顔を見せてくれる。その姿はいつ見ても頼もしく、そして眩しかった。
俺たちは小さな二階建てのアパートで同居を始め、ささやかな日常を積み重ねてきた。
朝、同じテーブルでパンとコーヒーを分け合い、夜は疲れて帰ってきた大森さんの肩を揉んだり、くだらないテレビ番組を一緒に笑ったり。
特別なことは何もない。けれど、そういう毎日がたまらなく愛おしかった。
その日も特別なことは何もない、はずだった。俺は夜の仕込みを終え、居間のソファに腰掛けて本を読んでいた。
すると、大森さんがやけに真剣な顔をして、俺の正面に座った。
「……若井さん」
名前を呼ぶ声が少し震えている。胸がざわついた。
「どうしたんですか、大森さん」
彼は少しの間、言葉を探すように唇を噛み、やがて小さな箱をポケットから取り出した。見慣れないその仕草に、俺は思わず背筋を伸ばした。
ぱかっと箱が開く。中にはシンプルな銀の指輪が静かに並んでいた。
「俺と、結婚して下さい」
心臓が一瞬止まったかと思った。大森さんの黒い瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「……へ? 」
「若井さん、俺は若井さんと一緒に生きていきたいんです。法律とか、世間とか、そういうことじゃなくて。俺と若井さんだけの、小さな約束が欲しいんです」
指先が震える。大森さんは俺の左手をそっと取ると、その薬指に指輪を滑らせた。すべてが夢のようで、俺は言葉を失っていた。
「だから……結婚して下さい」
絞り出すようにもう一度言う彼に、俺はこみ上げる熱を抑えきれなかった。
「俺でよければ…よろしくお願いします」
自分の声がかすれていた。気づけば、頬を涙が伝っていた。大森さんはそんな俺を見て、ほっと微笑んだ。
その夜、俺たちはただ肩を寄せ合い、指輪を何度も確かめるように眺め続けた。
それからの日々は、さらに穏やかに流れていった。左手の薬指に光るおそろいの指輪を見るたび、胸の奥が温かくなる。
大森さんが笑っているときも、拗ねた顔をしているときも、その存在すべてが幸福に満ちていた。
けれど、幸せな時間は永遠ではなかった。些細なことがきっかけで、初めて俺たちは衝突した。
その日、大森さんは昼の仕事が長引いていた。普段なら夕方には帰ってくるのに、夜になっても帰らない。店の開店時間を過ぎても連絡がなく、俺は何度も携帯を見つめた。
「……何やってるんだろ、大森さん…」
胸の奥がざわつき、落ち着かない。心配と苛立ちが混ざって、仕事にも集中できなかった。
ようやく深夜近くになって大森さんが帰宅したとき、俺は堪えきれず声を荒げてしまった。
「大森さん、どういうことですか!遅くなるなら連絡くらいしてくれれば… 」
大森さんは驚いた顔をし、すぐにうつむいた。
「……ごめんなさい。忙しくて、電話する暇もなくて」
「暇がない?こっちは心配してたんですよ!事故にでもあったんじゃないかって……」
声が震えていた。怒りというより、不安が爆発したのだ。
だが、大森さんにはそれが伝わらなかったらしい。彼は苦しげに眉を寄せ、低い声で言い返した。
「そんなに信用できませんか?俺はちゃんと働いていただけです」
その言葉が胸に突き刺さった。俺が求めたのはただの「安心」だったのに、彼には「疑い」に聞こえてしまったのだ。
「…っそういうことじゃない!」
叫ぶ俺に、大森さんは顔をそむけた。部屋に重苦しい沈黙が落ちる。幸せな日々が崩れ落ちる音が聞こえた気がした。
その夜、俺たちは同じベッドにいながら背を向け合ったまま眠った。
左手の薬指に触れる指輪が、やけに冷たく感じられた。あれほど温かかったはずの約束が、今は重く胸を締めつけていた。
_俺たちは、本当に大丈夫なのだろうか。
暗闇の中で目を閉じながら、初めてそんな不安が頭をよぎった。
コメント
3件
やったぁ~!ご結婚だ!!っと思った矢先に、、 心配ですね😣んー二人でいるとなっても、、問題は付き物ですからね。。。
あらら、こっちも不安だなぁ😖 でも、結婚とか表現上手すぎない...