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きなこ猫
紫宮 叶夢
【箸休め】と書いてあるやつは、エロなしの日常回です。
CHIKA視点
昼下がりのスタジオは、照明の熱と人の気配で少し息苦しかった。
機材の転がる音、飛び交う指示、秒単位で進んでいく準備。
現場特有の張り詰めた空気の中で、私は壁際に立ちながら、小さなメモ帳を開いていた。
〇〇さん、照明チーフ。
□□さん、音声。右耳が少し聞こえづらい。
マイク、切り忘れない。
一度聞いた名前を忘れないように。
注意されたことは、二度と繰り返さないように、必ずメモをとっている。
別に、誰かに気に入られたいわけじゃなくて、この場所で働く人たちに失礼でいたくなかったからだ。
自分ひとりでできるステージなんて、どこにもないと知っているから。
「CHIKAちゃん、立ち位置ここ変更でお願い!」
「はい、了解です!」
返事をして、すぐに動く。
その背中に、「助かるよ」と声が飛ぶたび、少しだけ胸が軽くなる。
(ちゃんとできている、迷惑はかけてない)
そう思えた、その時だった。
「チカさんって、スタッフの名前とか全部覚えてきますよね」
通路の奥、半開きの扉の向こう。
休憩スペースから、笑い混じりの声が漏れてきた。
「正直ちょっとやりすぎじゃない?」
「わかる。いい子ちゃんすぎるというか、ちゃんとしてます感がすごいよね」
軽い調子の、たぶん悪気もない雑談。
なのに、その言葉は驚くほど深く刺さった。
「チカさん、五分後スタンバイです!」
別のスタッフの声に、はっとする。
「……はい、今行きます」
いつも通りの声が出た。
鏡の前に立てば笑顔も作れた。
リハーサルも本番も、たぶん何事もなくこなせる。
それでも胸の奥のどこかが、静かに崩れていた。
(……私のしてきたことって、独りよがりやったんかな)
本番が終わっても、その声は頭から離れなかった。
「今日みんなでご飯行こー!」
撮影後の楽屋に、誰かの明るい声が響く。
「行く行くー!」
「駅前のあそこ空いてるかな」
一気に和む空気の中で、私はバッグを肩にかけた。
「ごめん、今日ちょっと寄ってくとこあるけん。今回はパス」
「あ、そっかー! また今度ね!」
「おつかれ!」
「うん、おつかれ」
手を振って、背を向ける。
外へ出ると、夕方の風が肌にひんやり触れた。
現場の熱気がやっと抜けていく。
このまま練習室にでも行こうか。
それとも、どこか一人になれる場所へ行こうか。
考えながら駅へ向かっていると、後ろから小走りの足音がした。
「チカちゃーん」
振り返るまでもなく分かる声だった。
「……何してんの」
息を少し弾ませながら、NAOKOが隣に並ぶ。
「ナオも寄るとこあって」
「絶対うそやん」
「ばれた?」
けろっと笑う。
いつもの、ふわっとした笑い方。
綿毛みたいに軽くて、見ている方まで力が抜ける笑顔。
「みんなとご飯行けばよかったじゃん」
「うん。でもチカちゃん、一人で帰らせたらあかん気がして」
足が止まりそうになる。
「……意味わからん」
「ナオもあんまり分かってない」
平然と言って、NAOKOは前を向いたまま歩き続ける。
そのまま少し沈黙が続いた。
駅前の信号で立ち止まった時に、NAOKOがふいに言う。
「なんかあった?」
「別に」
即答だった。
「そっか」
青信号になって、また歩き出す。
歩道に上がったところで、NAOKOが小さく続けた。
「……なおは、なんかあったなぁ」
「…え?」
「いつも妖精さんみたいに笑う子が、今日ずっと引きつって笑ってた」
思わず立ち止まる。
「誰の話」
「さあ、誰やろ」
とぼけた横顔が、やたら優しい。
喉の奥が熱くなった。
「……別に、大したことじゃない。ほんとに、どうでもいい話」
「うん」
「……聞こえたんよね」
NAOKOがこちらを見る。
急かさない目だった。
言っても、言わなくてもいいと言っている目。
「スタッフさんの名前覚えてるの、やりすぎやって。いい子ちゃんぶってるみたいって、」
「……そげんこと気にしとう自分も、嫌や」
言い終えて、視線を落とす。
「今は、“気にしちゃダメ”とか、“こんなん大したことない”とか、無理にせんほうがいい」
「……え?」
「……嫌やったんやろ?」
夕方の風が、静かに吹き抜ける。
「ちゃんとやってきたこと、軽く言われたみたいで」
胸の奥が、かすかに揺れた。
名前を覚えたことじゃない。
メモをしてきたことでもない。
そこに込めてきた気持ちごと、雑に笑われた気がしたのだ。
「それにさ、傷ついた時って無理に片づけようとすると、余計こじれるやん」
「……なおこって、よくそういうこと考えつくよね」
ぽつりとこぼすと、NAOKOは肩をすくめた。
「考えんと、すぐ巻き込まれるから」
「巻き込まれる?」
「人の気分とか、言葉とか。そのまま全部受け取ってたら、忙しいねん、心が」
何でもないことみたいに言う。
思わず笑ってしまった。
「……なにそれ」
「ほんまに。もうずっと一人ブラック企業」
「例え最悪」
「でも分かりやすいやろ?」
少しだけ、呼吸がしやすくなる。
「やから、すぐ答え出さんようにしてる」
「答え?」
「この人は敵だ、とか。私が全部悪い、とか。
そうやって早押しみたいに決めると、だいたいしんどい」
横顔はいつも通り柔らかいのに、言葉だけ妙に芯があった。
「……なおこも、そうなる時あるんや」
「あるある。めっちゃある」
即答だった。
「落ち込むし、拗ねるし、ひとり反省会もするし」
「するんや」
「する。三時間コース」
「なが」
「しかもアンコール付き」
ふっと吹き出す。
NAOKOはそれを見て、安心したみたいに目を細めた。
「ナオはチカちゃんの丁寧で誠実なところめっちゃ尊敬してる」
「……別に」
「だからこそさ」
NAOKOが少しだけ視線を落とす。
「傷ついた時まで、“ちゃんとしてなきゃ”ってなってそうやなって、ちょっと思った」
胸の奥が、ひゅっと縮む。
図星だった。
「……うるさい」
「違った?」
「……なおこ」
「はい」
「うるさい」
「二回言った」
また笑ってしまう。
その時、NAOKOが急に足を止めた。
「……あ」
「なに?」
「見て」
指さした先、駅前の歩道脇。
少し古びたセブンティーンアイスの販売機が、夕焼けの中で妙にきらきらしていた。
「これ食べたい」
「急やな」
「いま食べるべきって声した」
「誰の」
「私の中の私」
意味が分からない。
NAOKOはもう販売機の前に立っていた。
「チカちゃん、どれにする?」
「……え、いや、別にいらん」
「落ち込んでる人には選ぶ権利があります」
「なんやその制度」
パネルを見る。
バニラ。チョコ。クッキー&クリーム。抹茶。期間限定ストロベリーチーズケーキ。
「……え、待って全部美味しそう」
「やっぱ抹茶かなぁ。でもこういう時ってバニラも捨てがたいよな …クッキー&クリームもおいしそうやし」
「うわぁ〜どうしよ」
私が唸るのを見て、NAOKOは笑いをこらえているのが分かった。
「……なに」
「チカちゃん、真剣に悩んでる顔かわいい」
「バカにしてんの?」
「アイスで人生の分岐点みたいになってる」
「なるやろ」
「なるんだ笑」
「じゃあ……ナオはこれにする」
NAOKOはボタンを押した。
「早っ」
ガコン、と落ちてくる音がする。
見てみると、塩キャラメルナッツプレッツェルみたいな、情報量の多い味だった。
「なにそれ」
「知らん」
「知らんのに押したん?」
「見たことない味やったから」
「怖ないん?」
NAOKOはけろっと笑った。
「美味しいかそうじゃないかの二択にロマンを感じるんですよ」
「へー、そうなんだー」
結局、私は悩みに悩んで普通のチーズケーキ味になった。
「なんか毎回同じじゃない?」
「ちゃんとおいしいって分かってるやつ選びたかってん」
「チカちゃんっぽ」
近くの公園のベンチに座る。
包みを開ける音。
夕方の空。
遠くで子どもの笑い声。
ひとくち食べて、NAOKOが少しだけ動きを止めた。
「……どうしたん」
「プレッツェル、思ったより主張強い」
吹き出してしまう。
「失敗やん」
「いや、これは経験」
「強がりやろ」
「まあでも、普通に美味しいので良し」
「切り変えすご」
私は自分のアイスをひとくち食べる。
ちゃんとおいしい。安定に。
「……なおこ」
「ん?」
「ありがと」
小さく言うと、NAOKOはアイスをひとくちかじってから、
「うん」
とだけ返した。
余計なことは言わない。
その“うん”が、なんだかすごく優しかった。
「でも、まだちょっと腹立つ」
「まぁね〜」
「こういうのってすぐ忘れられへんし。たぶん明日も、ちょっと思い出すと思う」
NAOKOは頷く。
「じゃあ、ナオも明日一緒に腹立っとく」
思わず顔を見る。
「……なにそれ」
「期間限定サポート」
夕焼けが、少しずつ紫色に変わっていく。
胸の痛みは、まだ消えていない。
でも、さっきよりは少しだけ軽かった。
終わりです!
NAOKOって、安易に「気にしなくていいよ」とか「その人ひどいね!」って言うんじゃなくて、ただ静かに隣にいてくれるタイプな気がするんですよね。
あと今回この話を書こうと思ったきっかけは、MAHINAが新聞のインタビューで、
「CHIKAはめちゃくちゃ真面目。一回注意されたことはやらないように、人一倍心掛けてる」
「スタッフさんの名前をメモしたりもしていて、優等生な面がある」
みたいなことを話していたのを見たからです。
CHIKAのそういう丁寧さとか誠実さって、きっと本人にとっては“当たり前”なんだろうけど、だからこそ周りの何気ない言葉で傷ついてしまう瞬間もあるのかな、と思って書いてみました。
読んでくださってありがとうございました!
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コメント
1件
あーねさん、第10話読ませていただきました。「箸休め」とありましたが、めちゃくちゃ沁みました……。 チカがメモを取る誠実さを「やりすぎ」と笑われて傷つくシーン、胸がぎゅっとなりました。でも、それを無理に片づけさせず、「じゃあナオも明日一緒に腹立っとく」って言えるナオコの距離感が、本当に優しくて。 アイスを選ぶやりとりも、チカらしさ VS 好奇心のナオコの対比が可愛くて、ほっとしました。 あーねさんの描く静かな日常に、いつも救われています。ありがとうございます🌷