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暗い座敷に香が焚かれ、一人の大柄な侍が奇妙な格好で座らされていた。
侍は、正座した膝の上に丸めた布団を乗せられて、その布団を抱える様にこうべを垂れている。
張り詰めた空気の中、濃紺の作務衣を着た男だけが、まるで鼻唄を唄うように、何の緊張感も漂わせずに動き回っていた。
その背後には、養生所見廻り与力の三好次郎左衛門と三人の蘭方医が控えている。
先程から、準備を進める作務衣の男に三好が、「白川殿、白川流霊枢治療の雨祓いは、門外不出の秘伝と聞き及んでおります。我らごときが立ち会っても問題ないのでしょうか?」と何度も確認していた。
その度に「問題ありません。いつまでも秘伝、秘伝と、門を閉ざすような時代ではありませんから」と作務衣の男が断言するのだが、それでも落ち着かない様子の三好は、一人で右往左往している。
それよりも、張り詰めた空気は三人の蘭方医から発せられていた。
坊主頭の蘭方医が隣の若い総髪の蘭方医に向かって、興奮を抑えながらも声を落として囁くように話し掛ける。
「中川さん、お聞きになりましたか?
朝廷医療の至宝と謳われる白川流霊枢治療の雨祓いが、今から行われるようです」
中川と呼ばれた総髪の若い蘭方医も、緊張を隠せない様子でガクガクと頷いていた。
「ええ。本日の腑分けが事故により取り止めになったと聞かされた時は、無駄足を踏んでしまったかと肩を落としましたが、その代わり、白川流霊枢治療を目の前で見学できるとは、まことに僥倖(ぎょうこう)と言わざる得ません」
しかし、その言葉を耳にした年嵩の総髪が落ち着いた様子で言葉を返す。
「杉田さんも中川さんも、何をそう興奮することが有るというのです。
白川家といえば、大昔に朝廷から全国の神社を支配する神祇伯(じんぎはく)に任じられて、代々王号の世襲を許された家柄ですが、その権勢も今は昔、徳川様の御世(みよ)となり、諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)が発布されると、権力とは無縁の名ばかりの名家に成り下がりました。
その経緯から考えても、白川家に代々受け継がれてきた怪しげな治療なんて、お祓いの類いと何ら変わりませんよ」
しかし、中川と呼ばれた若い総髪は静かに首を振った。
「前野さん、私はそうは思いません。
元々、白川家が朝廷で重んじられてきたのは、唐最古の医学書、失われた黄帝内経(こうていだいけい)を弘法大師様から密かに受け継ぎ、そこに記されていた秘伝を基に、白川流霊枢治療を生み出したからです。
それが誠であれば、その来歴から鑑みて、白川流霊枢治療が本物だと言わざる得ません。
しかも、今から蘭語の医学書を和解しようと考えている我らよりも、遥かに進んでいると思いませんか」
大きく頷いた坊主頭の蘭方医も、「確かに、先進的だといわれる蘭方医学も、肉体的な治療に偏っています。本来、肉体の健康とは、その基となる、心の有り様に大きな影響を受けるのです」と力説する。
「もし、評判通り白川流霊枢治療が心の有り様まで治せるとすれば、それは凄いことだと思いませんか?」
しかし、その言葉が終わらない内に、作務衣男が、今まで聞いたこともない呪い詞(まじないことば)を唱え始めると、大柄な侍のうなじに突き刺さった鍼の尻から、白く光る霧が噴き出してきた。
その異様な光景に、作務衣の男以外の四人は「あっ!」と驚きの声を上げる。
しかも、驚いたことに噴き出した霧は、まるで生き物のように空中をクルクルと彷徨い始めたのだ。
それは、禍々しくも幻想的な光景だった。
すると作務衣の男は、その霧にゆっくりと顔を近づけて、深呼吸をする要領でその霧を吸い込み始める。
それを目撃した三好は、驚きと共に「私が聞き及んでいた雨祓いと手順が違う」という呟きを漏らしていた。
「取り出した邪気は、その場で焼き祓うのが鉄則だと聞いている。
まさか、取り出した邪気を自らに取り込んでしまうとは、そんな危険な行為が許されているのだろうか…」
全ての霧を吸い込み終えた作務衣の男は、内側から込み上げてくる激痛に一瞬顔を歪めたが、大きな身震いをすると、その顔に不適な笑みを浮かべたのだ。
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