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その日は朝から空が低く重い雲に覆われていて、その下を通る人々の顔も曇らせるような始まりだった為、苛立たしそうに舌打ちをして病院のドアを潜ったのはにんじん色の髪をした長身のオイゲンだったが、その顔には空に対する苛立ち以上に深く重い不機嫌さが浮かんでいて、すれ違う同僚や上司らが挨拶をしようとしても声を掛けられるような雰囲気ではなかった。
彼の胸の裡には今朝の空以上に重く暗い何かが垂れ込めていて、その正体を考えるだけでもつい口からは舌打ちの音が流れ出してしまうのだから、眉間に皺が刻まれている己に対する周囲の視線にまで思いを巡らせる余裕はなかった。
己の診察室のドアを開け、中で診察の準備をしていた看護師の挨拶を上の空で受けたオイゲンは、手早く白衣に着替えを済ませて椅子に腰を下ろすと、結婚してから初めて見るような冷たい目で見つめてきた妻の顔を脳裏に浮かべてしまい、何度目かの舌打ちをしながらデスクを拳で叩いてしまう。
妻と結婚して5年は経つが、病院内で地位を固めていけば行くほど仕事が忙しくなり、帰宅する頃には妻は寝入っている時間帯であったり、たまに早く帰宅してもいつも帰りの遅い夫を妻は待つことを放棄しているように留守にしていたりと、すれ違いの日々が増えてきていたのだ。
そんな関係になってしまえばオイゲンも妻に対して期待を抱くこともなく、ただ己の地位を一日でも早く高めようと一層仕事に力を入れては、ここの所頻繁になってしまった夫婦間での口論に発展してしまう悪循環に陥ってしまっていた。
さすがに仕事で神経をすり減らし、自宅に帰っても関係の冷め切った妻と一つ屋根の下で過ごすのは苦痛にしかならず、そんな理由から彼は早く自宅に帰る日には妻との食事を義務的に済ませ、その後は自室で好きな山の写真を見たり映画を見たりして時間を過ごすことが多くなっていたのだ。
そんな家庭内別居状態の生活を送っているからか、オイゲンは以前よりも頻繁にトレッキングに出掛けたり、叔父のドナルドを誘って手頃な登山で気分を晴らしたりしていたが、そんな彼の耳に良くない噂が流れ込むようになったのは夏の終わりの頃だった。
昨夜もその噂をベースに妻と口論になってしまった事を思い出して苛々した気分を拳の中に握り込んだ時、ふと脳裏に心配の色を湛えた友人の顔が浮かんだため、心配するなと声に出さずに囁きかけるが、我に返って自嘲しつつ額に手を宛がう。
先日友人達との食事会を抜けることになったとき、学生の頃から変わっていない心配性を発揮した友人に安心しろと伝えたが、仕事にばかりかまけていて家庭を顧みない男と妻に罵られるような働き方をしている己を振り返ってみれば到底安心させることなど出来ない事に気付き、己の言動が一致していない不愉快さに深く溜息をついたオイゲンは、永遠に友人以上の関係にはなれない彼の優しい笑顔を思い出すが、次いで思い出したのはそんな友人の傍にいて理解しがたい目で見つめてきた年下の男の顔だった。
「─────!!」
ギムナジウムの頃からずっと傍にいて見つめてきた友人の大学卒業後の女性関係について本人やその周辺から耳にしたりしていたが、最近は友人達の飲み会にも顔を出さなくなり、何だか付き合いが悪くなったと友人達と囁き合っていた理由が年下の男と付き合いだしたからだと改めて思うと、先日も感じた目の裏が赤くなりそうな怒りと胸を焼き尽くすような焦燥感に襲われてしまう。
学生の頃に彼が付き合っていたのは女性ばかりだった為にゲイではないと決めつけ、友人達の中での一番の親友というポジションを失いたくないために一歩を踏み出すことが出来ずに傍で見守るだけだったが、いつから男と付き合うようになったのだろうかが急に気に掛かり、先日顔を合わせたときには部長に呼び戻されたために詳しく話を聞けなかった事も思い出すと、付き合いだした経緯などを詳しく聞き出す絶好の機会を失った事に今更ながらに気付いて舌打ちをする。
己の保身のためだけに立ち回り、オイゲンが頭角を現すことを怖れて手懐けようとする部長に呼び出されてしまった事が悔やまれるが、あの夜を思い返すと同時に果たして己は友の言葉を最後まで聞くことが出来ただろうかとの疑問も芽生えてくる。
ギムナジウムの頃から見守り続けてきた自分ではなく、年下の同性を恋人に選んだ彼が自分たち以外には滅多に見せないと思っている表情-それ以上に自分たちにすら見せることのない顔を覗かせながら己の恋人の話をする、その現実を耐えられるのかと冷静な声が囁きかけてきて、いつもならば冷静に反論できる筈の理性が沈黙してしまい、短い髪に手を宛って拳を作る。
友達という立場を失いたくないために本心を押し隠して告白せず、彼が付き合う女の話を聞く度に心の何処かで常に嫉妬し、そんな自分に嫌気がさして心を洗うつもりで山に登ってきたオイゲンだったが、さすがに同性の恋人が出来たと聞かされた夜からは好きな山の写真を見ていても心が晴れず、世界の山々を紹介するドキュメンタリーを見てもただ目の前を通過するだけになっていた。
ただ傍にいて見守る-と言っているが実際は一歩を踏み出す勇気がなかっただけの己への嫌悪と、長年望んでいても手が出せなかった存在を手にした彼の恋人に対する嫉妬と彼への思いがマーブル模様になって胸の裡で渦を描き、重苦しい溜息となって口から零れ出すが、そのタイミングを見計らったように湯気が立つマグカップがそっと差し出され、白い手の持ち主を振り仰いで顔から険しさを少しだけ薄くする。
「おはようございます、先生」
「おはよう……今日は何時からの執刀だった?」
壁のホワイトボードには几帳面な字で手術の時間が書き込まれているが、もう一度確認したくなったオイゲンの問いかけに看護師が手元のスケジュール帳を開きながら10時から第2オペ室だと答えると、ようやく彼の顔に明るさが戻ってくる。
「執刀医は…部長か」
「その予定になっていますね」
看護師が告げるスケジュールを脳内で確認しつつ振り返ったオイゲンは、少しふっくらしている唇に目を留め、いつもとは唇の色が違うことに気付いたものの、特に何を言うでもなく彼女が用意してくれたマグカップを手に溜息をつく。
「今日の手術は難しいのですか?」
「いや、手術自体は簡単だが、部長が執刀すると誰かがミスでもしてしまえと大騒ぎをするから心配なんだ」
今彼の直接の上司であるクロース部長は、心臓外科医としての腕前は立派だったが、医師としてというよりは人としての倫理観を疑いたくなる言動が多く、その口のお陰で病院内に敵を増やし続けているのだ。
そんな部長の直下にいるオイゲンも部長の手足となって動くと見なされているが、幸か不幸か彼は病院長の娘婿であり、また次世代を担う第一人者と目されている為に直接であれ陰であれ悪し様に言われることは少なかった。
口さえ開かなければ医師の腕前は最高に近い部長の手術で副執刀医を務めると、必ずと言って良いほど医療ミスが発生して医師としての生命が絶たれればいいとさえ願う声が流れ込んでくるのだ。
そんな悪口を一々覚えているオイゲンではないが、何かの為にと脳味噌の中に付箋で貼り付けていた一文と一人の医師の顔を思い出し、彼は今日は出勤しているかと問いかけ、来ていないことを聞かされてあからさまに安堵の色を顔に浮かべる。
「部長の執刀が無事に終わることを祈るよ」
「本当にそうですね」
看護師と顔を見合わせて肩を竦めた彼は、彼女がいつも付けている口紅の色が違っていることに気付いてそれを口にしようかと思案するが、交友関係も交際関係もない彼女にメイクについて何か言えばセクハラで訴えられかねないと己を戒めてもう一度肩を竦めると、唇だけが視野の中でクローズアップされ、見た事のない化粧をした妻の顔にゆっくりと変化していく。
結婚して5年になる妻だが、いつからか彼が出勤する時に行ってらっしゃいのキスも無ければ見送りもないことを思い出し、結婚当初は毎朝見送って戻ってくれば出迎えてくれていたのにと、たかが5年前が遙か遠い昔の出来事のように感じる過去を思い出し、首を傾げる彼女に自嘲に歪む顔を見せて肩を竦める。
オイゲンの耳に妻の悪い噂が流れ込むようになったのは夏の終わり頃だが、その頃に噂の種を植えるような事があったのかと脳内のカレンダーを遡ると、妻が同級生と一緒にスイスに旅行に行った事を思い出す。
あの頃から彼女の化粧も少しずつオイゲンの好みから離れていき、彼女を飾る服やアクセサリーも自然な物が好みのオイゲンからすれば目を疑うほど派手で高価な物ばかりになっていた。
妻が身につけるアクセサリーなどはあまり興味もなかった為、また実家の父親に頼んで買って貰ったのだろうとしか思っていなかったが、噂の通りに彼氏に買って貰った物だとすれば彼女の趣味が変化している理由も納得できた。
己の妻が浮気をしている、その噂は恐らく病院内でまことしやかに囁かれ、尾ひれ背びれがついて回遊した後自分や院長である妻の父の周りをくるりと楽しげに泳いでいる様がまざまざと思い浮かび、鉛を混ぜ込んだような重苦しい溜息を零してしまうが、その時ドアがノックされ、平静さを装って椅子に座り直し、看護師がドアを開けてノックの主を招き入れる。
やってきたのはオイゲンの直接の上司でありたった今彼女と話題にしたばかりのクロースで、白衣の裾を翻しながら勢いよく飛び込んでくるなりドアを開けた彼女を一瞥し、オイゲンと二人だけにしろと尊大な態度で言い放つ。
友人達の言葉通りに早くこの部長を追い落としてしまいたいと腹の中で一頻り悪態をついたオイゲンは彼女に目で合図を送って二人きりになると、デスクの椅子ではなく小さな応接セットに上司を案内するが、クロースの口から流れ出した嫌な響きを持つ言葉に眉を寄せる。
「……きみは結婚して何年になるんだったかな」
「5年ですね」
5年前の盛大な結婚式に出席しただろうと暗に返したオイゲンは、上司の口振りからプライベートな話題に口を出すつもりだと気付くが、5年も経てば夫婦の間では様々な問題があるだろうと告げられて眉間の険しさを増幅させる。
「それは色々ありますね。結婚生活が私よりも長い部長の方がご存じでしょう」
人生経験も医師としての経験も自分よりも遙かに長く多く積んでいるあなたの方が詳しいでしょうと、椅子の背もたれにもたれ掛かりながら見ようによっては相手を嘲るような笑みを浮かべて掌を上に向けたオイゲンは、部長の目が不気味に光ったことが気に掛かるがその態度を崩さずに出てくる言葉を待ち構え、彼の口から意外な言葉が流れ出した瞬間に顔色を変えて再び眉間に険しさを浮かべてしまう。
「それはもちろん、私にも色々な事があるが……きみにも色々ありそうだね」
「何がですか?」
もしも許されるのならばその口を手術用の金具で縫い止めたいと願い、部長が苦しむ姿を脳内で再生していた彼は、短い足を組み替えながら不気味な笑みを浮かべて己を見つめてくる上司に警戒したように姿勢を正すと、きみの奥さんではないのかなともったいぶった言い回しをしながら茶封筒をテーブルに投げ出した後、椅子の背もたれに腕を回していかにも尊大な態度で己の部下を見下ろす。
「失礼します」
茶封筒を開く前に凡そのことは想像していたが、中から出てきた数枚の写真をじっくりと見つめて己の想像が間違っていなかった事に気付くと、写真を乱雑な手付きで封筒に戻してそれを再びテーブルに投げ出す。
「……これを何処で?」
「いつだったかな、週末に奥さんが留守にしたことがあっただろう」
その時の写真だと思うが、夫であるきみには思い当たることがあるのかと、今度は逆に嘲るような笑みを投げ掛けられたオイゲンが腿の上で拳を握って視線をそらせると、その態度が部長には妻の不倫を初めて知った男のように見えたのか、ますます尊大な態度を取るように椅子の中で仰け反りながら身動ぎする。
「部長」
「何かね」
「この写真……戴いてもよろしいですか」
「おお、もちろん。きみ以外の人間が目にしてはマズイと思って真っ先に持ってきたんだよ」
だからこれはきみが持ち帰ってくれたまえと鷹揚に頷く上司にオイゲンも神妙な面持ちで頷き、部長がこれを持ってきて下さって色々と考えることが出来ますと頭を下げると上司の顎がますます上がり、そのまま背後に倒れてしまえと胸の裡で毒突いた彼だが、時計へと視線を投げ掛けた後で表情を切り替えてこの後の手術の段取りについて問いかけると、きみがサブでつくのだからきみが仕切ればいいと返されて再度腿の上で拳を握る。
オイゲンに手術をさせて無事に終われば己が主導したかのように見せかけ、万が一医療ミスでも起これば間違いなく己の責任にされてしまうことは火を見るよりも明らかだったが、悲しい事に人としてどれほど問題のある部長であっても上司なのだからうまく立ち回らないと己の首を絞めることになりかねなかった。
そこまで思案を巡らせたオイゲンだったが、妻の父が院長であるという事実を自ら進んで利用する気持ちなど毛頭無く、友人達に告げた様に己の力で登り詰めてやろうと思っている為、この部長はいずれ追いつき追い越し遙か下に見下ろす小さな岩のようなものだと決めつける。
雪で白く冷たく化粧をしたり、目にも鮮やかな緑の素肌で出迎えてくれる山々を一歩ずつ慎重に確実に登っていく姿が脳裏に浮かび、プライベートでは季節によってさまざまな貌を見せてくれる山だが、仕事では角度を変えるだけで違うようにも見える山を登るのと同じだと気付き、山登りならば得意だと誰に告でもなく太い笑みを浮かべて目を光らせる。
目の前で己の地位をいずれ脅かす部下の妻が不倫をしている現場を押さえたことでオイゲンに首輪を付けたと勘違いし反り返る小さな男などあっという間に乗り越えられる岩だと己に言い聞かせ、いつも登山で感じている困難に立ち向かう挑戦者の気持ちと乗り越えた後の達成感を思い出すと自然と笑みが深くなってしまう。
「どうかしたのかね?」
「いえ、久しぶりに部長が執刀するのを見て勉強したいと思ったのですが、それは次の機会にします」
殊勝な態度で頭を下げたオイゲンの言葉にクロースの顔が興奮に赤くなるが、それを堪えるように咳払いをし、次の手術では私が直々にやろうと大きく頷く。
「よろしくおねがいします」
「ああ」
彼が滅多に口にすることのないお世辞だが、そうとも悟らずに浮き足立つ上司が何とも情けなくて胸の裡で後数年の間だと告げたオイゲンは、部長が立ち上がるよりも先に立ち上がってこの後の手術の指導をよろしくお願いしますと一礼をする。
鷹揚に頷き意気揚々と出て行く己より頭二つも低い癖に横幅だけはある背中を見送ったオイゲンは、ドアが閉まると同時に茶封筒の写真を再度取りだし、出会った頃のように笑う妻の姿と彼女の肩を親しげに抱くまだ若く見える男の姿を目に焼き付けて封筒に戻し、己のデスクに無造作に放り込むと、別室に控えていた看護師が静かに戻ってきて手術の準備が整ったことを伝えてくれる。
「分かった……あんな男でも部長は部長か。仕方ないな」
「お疲れさまです」
さまざまな思いを込めた労いの言葉をくれる彼女に小さな笑みを浮かべたオイゲンは、己の戦場である手術室に向かうために部屋を出て行くが、その脳裏には自分と違うタイプの男と楽しそうに笑っている妻の写真と、あの夜に友人が見せた心配そうな顔が剥がれることなく貼り付けられているのだった。
いつものようにクリニックを訪れる患者の心の不安を少しでも軽くしようと、己が持ちうる言葉と医療的な技術で一人一人と真正面から向かい合い、彼らの俯いた心と顔を上げさせようとしていたウーヴェは、一日にあまり多くの患者を診察できない己に不甲斐なさを感じつつも、少ないのならば少ないなりに全力を尽くすだけだと己に言い聞かせていた。
精神科を持つ大病院ならば何名かの医師が常勤したり非常勤で勤務している為に万が一その医師に何かがあっても交代要員の確保は出来るが、個人で経営しているウーヴェには己の代わりはいなかった。
だからウーヴェは己の体調管理には十分の注意を払い、己が倒れてしまえば救えるはずの人も救えないのだという強い戒めがあったが、それは彼が医師の国家試験に優秀な成績で合格し恩師のアイヒェンドルフに結果といずれ開業する事を伝え、愛弟子が独り立ちする嬉しさと寂しさを遙かに凌ぐ信頼の言葉を恩師から受け取ったからだった。
一人の患者を救いたいのであればまず自らの心身を健康に保つこと、それを第一にしなさいと、厳しくも温かな目で見守り指導しながら医師の背中をいつも見せてくれていた恩師の言葉が医師として働きだした今もウーヴェの心の奥深くに刻み込まれていた。
恩師の言葉を忠実に守っているウーヴェは、午後の診察が終わった後で疲労困憊している心身への栄養補給を兼ねて必ずお茶の時間を設けているが、リアが働くようになってからは更に癒しを与えてくれる甘いものが付くようになった。
疲れて力が出ないときにキャラメルやキャンディーを一つ口にするだけで力が出る事を彼自身も経験上から良く理解しており、診察が終わって疲れた身体にご褒美のように今日もまたリアが用意してくれるシフォンケーキと紅茶を目の前に満足の溜息を零していた。
「今日もお疲れさまでした」
「リアもお疲れさま」
窓際のデザイナーズチェアにゆったりと腰を下ろして足を組み、二重窓の外をぼんやりと見つめていたウーヴェは、声を掛けられて視線だけを向けて同じように少しだけ疲れた色を見せる彼女に目を細め、今日のシフォンケーキも美味しいと告げて向き直る。
「そう?良かった」
お世辞ではない言葉だと理解している彼女も嬉しそうに頷き、今度は彼女が窓の外へと視線を投げ掛け、灰色の雲が立ちこめる空から冬の使者が舞い降りだしたことに気付いて小さく溜息を零す。
「降ってきたわね」
「……本当だな」
確かにアパート全体を暖める暖房も強くなっているようで、室内も暖かさが増しているが、そろそろ気分も空も重く沈みがちな冬に突入したと肩を竦めると、冬用のショールを明日の休みを利用して買いに出掛ける事を告げられて眼鏡の下で目を丸くする。
「何か良いものがあったのか?」
「ええ。まだまだ名前の知られていないブランドだけど、デザインがステキだったの」
それに高級ブランドでもないので値段も手頃で何枚持っていても邪魔にならないからと、明日の予定を思い描いて嬉しそうに声を弾ませる彼女にウーヴェも楽しそうに目を細め、リアが望むものが買えると良いなと告げつつ紅茶のカップを手に取る。
「俺もそろそろクリスマスプレゼントを選ばないといけないな」
「まだ選んで無かったの?去年はブーツだったかしら」
「まだなんだ」
後少しで皆が待ち望むクリスマスシーズンに突入するのだが、恋人へのクリスマスプレゼントは何にしようと呟くと、準備万端のあなたならばもっと早くに目星を付けているものだと思っていたと笑われ、今年は何も思い浮かばないと肩を竦めて二人で窓の外を見る。
クリスマスを控えたこの季節だから空はすでに暗く灰色で重く低く垂れ込めるようになり、もう少し日が経てば世界が灰色から白へと変化をするのだ。
そうなれば当然ながら彼女が期待しているショールなども役に立つだろうし、恋人への昨年のプレゼントのマウンテンブーツも役に立つが、今年は本当に何も思い浮かばないと目を伏せると、アクセサリーはどうかと問われて顔を上げる。
「ピアスか?」
「リングも良いでしょうけど、リオンならやはりピアスという感じかしら」
出会った頃がそうだったからか、リオンの印象にはまだまだ学生気分が抜けきっていないような姿があり、ついついピアスを思い浮かべる事を好意的な笑み混じりに告げられて視線を天井へと投げ掛けた彼は、確かにその通りだと頷いて今とはまた違うものを探してみても良いだろうと苦笑し、紅茶とシフォンケーキで心身の疲れを癒すが、初めて贈ったピアスを買った店に行ってみようと呟くと、今度紹介して欲しいとリアに頼まれてひとつ頷き、チェアの上で背筋を伸ばして大きく息を吸い込んで体内に新鮮な空気を取り入れる。
「思い通りのピアスがあればそれを買うことにしようかな」
「あなたが買ったものだから、あの子、一生の宝物とか言いそうね」
「……そうかな」
「ええ、きっとそう。それに絶対に私に見せに来るでしょうね」
それを楽しみにしているわと笑う彼女にもう一度頷き、今日も食べる事の出来たケーキとお茶への礼を言いつつ立ち上がるが、ふと脳裏に遠い昔の出来事が蘇り、小首を傾げてその映像を鮮明に思い出す。
ウーヴェの脳裏に浮かんだのはギムナジウムの卒業祝いのパーティの時、オイゲンが小箱を差し出した場面だった。
何故唐突にその木箱が脳裏に浮かんだのかが理解出来なかった彼は、彼女と交わした言葉の中で己の記憶の引き出しを開け放つ何かがあっただろうかと言葉の数々をふるいに掛けていくが、宝物という単語が小さな砂金のように煌めいていることに気付いて軽く目を瞠る。
先日の仲間達との飲み会に彼女も恋人も参加し、その夜、散らかっていても不思議と安らげる恋人の部屋で朝を迎えた時、夢の中でにんじん色の髪をした友人が冗談めかして告げた言葉であることを思い出す。
宝物という言葉は日常で生活していればメディアを通してなり会話を通じてなり見聞する言葉だった為に何故今己の脳裏に引っかかるのかが疑問だったが、己の心が重要に感じているのは単語ではなく木箱だろうとひとまず思考を落ち着かせてもう一度伸びをして身体の凝りを解していると、診察室のドアがリズムを付けて叩かれる。
そんなノック-決して彼と彼女はそれをノックとは認めない-をする人間がただ一人であることをよく知る二人が顔を見合わせると同時に条件反射のように溜息を零し、立っていることを口実にドアを開けると、何故いつもそんなに笑っていられるんだと問いかけたくなるような笑みを浮かべたリオンがジーンズの尻ポケットに手を突っ込んで立っていた。
「ハロ、オーヴェ」
「ああ、お疲れ様」
ブルゾンの襟を立てて寒さと降り出した雪から防御しているらしいが、それでもやはり寒いと手を出し、己の息を吹きかけて温める。
「あれ、リアは?」
「仕事お疲れ様、リオン」
ウーヴェの肩越しに診察室の奥を覗き込んだリオンは、テーブルの上を片付けながら立ち上がるリアに気付いて片手を挙げ、労いの言葉を掛けられて蒼い瞳を嬉しそうに細める。
「オーヴェ、腹減った!」
「………お前が腹を空かせていない時など無いんじゃないのか?」
「あ、何だそれ、それじゃあ俺がまるで万年欠食児童みたいじゃねぇか」
酷いことを言うなよハニーと呟いて眉尻を下げるリオンは、じろりと冷たい目で見つめられて更に眉尻を下げ、1ユーロだぞと宣言されて肩を落とす。
「そろそろいい加減に覚えればどう?」
「………くそぅ…どーしてハニーって呼ばせてくれないんだよっ!」
呼んだところで減るわけではないのにオーヴェのケチと、彼にしてみれば聞き捨てならない事を捲し立てたリオンは、顎の下に差し入れられたキレイな指が己の顎を人差し指で持ち上げたことに気付き、ホールドアップの姿勢になる。
「何か言ったか、リオン・フーベルト?」
「ハニーって呼びたいって言っただけ!」
「合計3ユーロだな」
リオンの宣言に冷たく返したウーヴェは、目の前で何やらごそごそ始めたリオンの行動を瞬きをして見守るが、言葉とともに突きつけられた紙幣に目を丸くしてしまう。
「20ユーロ!持ってけドロボー!これであと17回はハニーと呼ぶからな!」
「────俺はハニーなのか?それとも泥棒なのか?」
「ハニーでもあるし泥棒でもあるかな」
泥棒などと聞き捨てならないと呟くウーヴェに真夏の高く突き抜ける青空を連想させる笑みを浮かべたリオンがウーヴェの腰に宛がわれている左手を掴んで手を開かせたかと思うと、己の胸にぴたりと宛がう。
「ここから持っていっただろ?」
「────っ!!」
どうしてそんな言葉を恥ずかし気もなく言えるんだとウーヴェが視線を彷徨わせつつ羞恥から腕を引こうとするが、不思議なことに力が入っているとは思えないリオンの手はびくともしなかった。
悔しい事に職業上どうしても鍛えざるを得ないリオンと違い、ウーヴェはどれほど重いものを運んだとしても参考資料等の本だった為にたかが知れており、こんな所で己の恋人の逞しさを見せつけられて悔しそうに視線を逸らしたウーヴェは、胸に宛がったままの掌に規則正しい鼓動が伝わってきたために感じていた悔しさも羞恥も一瞬のうちに掻き消してしまう。
この鼓動を傍で感じ、同じ屋根の下で夜を越えて朝を迎えるようになって長いようで実際はまだまだ短い時間が過ぎたが、今ではこの鼓動の存在を知らなかった頃がウソのように思えてくる不思議に小さく笑い声を零すと、背後から遠慮がちな咳払いが響き、自分たちが唯一の出入り口であるドアの前にいる為にリアが出て行けなかったことを知らされてリオンを力任せに突き飛ばす。
「んがっ!!」
「……ごめんなさいね、リオン」
彼女の控えめな言葉に一瞬尖りそうだったリオンの口が元に戻り、目元を赤く染めて肘を掴みながらそっぽを向くウーヴェを細めた目で見つめると、腰に手を宛がって上体を軽く折る。
「オーヴェったら恥ずかしがり屋さんなんだからー」
そんな恥ずかしがりの性格を大学の友人達は知っているのか、知らないのならば暴露してやろうかと意地の悪い問いを放つリオンに肩をひとつ跳ね上げたウーヴェは、誰が恥ずかしがり屋なんだと納得のいかない声を挙げつつ眼鏡のフレームを指で押し上げるが、更にリオンの顔に笑みが広がって不愉快そうに眉を寄せる。
「……なんだ」
「別にー?本当に恥ずかしがり屋だなって思っただけ。それよりもさ、本当にアニキやマウリッツ達はオーヴェが恥ずかしがり屋だって知らないのか?」
「だから別に恥ずかしがり屋ではないと…」
「はいはい。俺を突き飛ばしておいてそんなことを言っても誰も信じませんっての」
恥ずかしがり屋の上に素直じゃないんだからと、さすがに呆れた色を隠さないリオンに目元を更に赤くしたウーヴェは、ドアの向こうからリアに今日は帰ると告げられて我に返り、慌てて診察室から出て行って彼女と毎日の恒例になっている言葉でお互いを労いあい、咳払いをしながら戻ってくる。
「オーヴェ、もう帰るか?」
「うん?ああ、そうだな…後片付けをすれば帰ろうか」
先程の照れ屋ぶりを暴露することを何処かへと放置したことにあからさまに安堵し、あと少し片付ければ帰られることを告げたウーヴェは、じゃあその片付けの間ここで待っていても良いかと問われて頷き、それならばすぐに支度をすると言いながら診察室横の小部屋のドアを開け、大切なカルテや書類を棚に戻して診察用のジャケットをハンガーに吊すと、革のコートに手を通しながら出てくる。
「リオン?」
「ん?どうした?」
デザイナーズチェアの肘置きに尻を乗せて窓の外を見ていたのか、ウーヴェの呼びかけに肩越しに振り返ったリオンは、どうしたと聞きたいのはこちらだと苦笑されてしまい、青い眼を瞬かせる。
「ああ、うん、もうすぐアドヴェントだよなぁって思ってさ」
「……ああ、そうだな」
クリスマスまでに4回ある日曜日にはクランツに立てた蝋燭に火を灯し、砂糖を塗されてしっとりと味が染みこんだシュトレンを食べる日がもうすぐ来ると、開いた足の間に手を置いて笑うリオンに一瞬だけ返事を遅らせてしまったウーヴェだが、己の胸中に溢れる言葉を飲み込んで確かにそうだと頷き、マザー・カタリーナは今年もシュトレンを作るのかと問いながら横に立つ。
「作るって言ってた。昔マザーが忙しくて作れなかった時があったんだけど、その時は俺とゼップとカインが大暴れしたもんなぁ」
「………まったく」
「や、だってさ、一年でこの時期しか食えないんだぜ?ゾフィーとか他のシスターも作ろうとしてくれたけど、マザーのが食いたいって礼拝堂に立て籠もってやった」
己の過去の悪行を表面上は淡々と、だが内心はかなり恐れながら告白したリオンは、己の頭がそっと抱え込まれて革のコートに頬が押し当てられる冷たさに目を閉じる。
「────リーオ」
「礼拝堂に立て籠もられたら困るからって作ってくれて、無事にアドヴェントで食えた」
シュトレンに対してはその思い出がある為にやはり時期が来ればどうしても食べたくなることを苦笑混じりに革のコートに告白し、腰に腕を回してしがみつくリオンの髪を無言で撫で続けたウーヴェは、今年もマザー・カタリーナのシュトレンが食べられると良いなと囁き、そろそろ帰ろうかとも囁いて立ち上がる事を告げると、リオンがそっと離れて伸びをする。
「腹減った、オーヴェ」
「今日は何を食べたいんだ?」
「トルコ料理」
「良い店があるか?」
「うん。この間ボスが奥さんと行って美味かったって言ってた」
「そうか。じゃあそこにしようか」
そのお望みのトルコ料理を食べさせてくれる店まで案内をよろしくと片目を閉じながらスパイダーのキーを差し出すと至極真面目な顔と恭しい態度でリオンがキーを受け取るが、それをしげしげと見つめたかと思うと、何かに気付いた様に頷いて一度宙に放り投げる。
「じゃあ行こうぜ、オーヴェ」
「ああ」
しっかりと戸締まりを確かめて両開きの木の扉にも鍵を掛けたウーヴェは、廊下の先で早く来いと爪先をリズムを付けて廊下に軽く叩き付ける姿に苦笑し、初めて行く店が自分たち好みの雰囲気と味であれば良いと願いながらリオンと肩を並べて階段を下りていくのだった。
クリニックが入居するアパートの外、灰色の低く垂れ込めた雲が冷たい雪を次から次へと地上に向けて落とし始め、空の下を身を竦めて歩く人々に本格的な冬の到来を告げていたが、雪を降らせる空を運転席のフロント越しに恨みがましく見上げたリオンに苦笑したウーヴェは、リオンと同じように助手席から空を見上げながらも言葉では捉えきれない何かを感じ取り、僅かに胸をざわつかせるのだった。