北欧神話の最高神であるオーディンの息子であり、北欧神話最強の戦神だ。彼の逸話は北欧神話を詳しく知らない典晶でも知っているくらい有名で、数々のゲームでも登場する人気の神様だ。実際、ヴァイキングや農民、入植者達からはオーディンよりもトールが信仰の対象だった。その神様が、典晶のスマホを片手に、床に正座をしてスマホを充電している事が、未だに信じられない。
典晶がトールを見ていると、トールは深く息を吐き出して、額に浮かび上がった玉の汗を拭った。
「とりあえず、半分ほどだが、十分だろう」
トールは携帯を差し出してくる。
「ありがとうございました」
礼を言い、典晶はトールから携帯を受け取った。
「よし! 典晶! ソウルビジョンとポケコンを起動しろ」
典晶はスマホの電源を入れ、ソウルビジョンとポケコンを起動させる。
「那由多さん! いけます!」
アナレティックを振り回し、凶霊の攻撃を捌いている那由多の背中に典晶は叫んだ。
「よし!」
那由多は凶霊の顔面を踏みつけ、その反動で大きく後退した。空中で一回転した那由多は、着地する前に転神を解き、ヴァレフォールを凶霊との間に展開した。
「頼むぜ! 来い! マルコシアス!」
着地と同時に、那由多は床に右手を叩きつけた。まるで、水面を叩き、水滴が飛び散るように、床から闇色の粒が水滴のように飛び散った。闇色の粒は、地面に落ちると大きく弾け、更に無数の小さな水滴を生み出した。そして、その水滴が一カ所に集まると、巨大な犬が姿を現した。
動物園で見るライオンを一回り大きくしたサイズの犬だった。黒い毛並みに、光彩のない緑色の瞳。背中にはコウモリを思わせる翼がついている。
グルルルルルゥゥゥ…………
マルコシアスが獲物を狙うように身を屈め、低く唸り声を上げると、口元に覗くナイフのように鋭く尖った牙の隙間から炎が吹きだす。
「マルコシアス、頼むぞ! 典晶君! 理亜さんの体から、凶霊を引っ張り出してくれ!」
「転神!」と、言うが早いか那由多はマルコシアスをその身に纏っていた。ヴァレフォールの時は黒一色の動きやすそうな装束だったが、今回、マルコシアスとの転神では、上半身が裸で、下は黒いズボンを履いている。裸の上半身には、入れ墨のような黒い模様が体中を覆っていた。奇抜な衣装よりも典晶の目を引いたのは、那由多が手にしている武器だった。二振りの剣だが、一振りは右手、もう一振りは、右足首に付いている。握りの部分には、大きな輪が付いている。二振りを一つとしてみると、それは剣と言うよりも、ハサミ。刃を取り外しできるハサミのようだった。そして、典晶の直感は間違っていなかった。
「典晶君が凶霊を引っ張り上げた瞬間、理亜さんとの魂の繋がりを、このハサミ、『ソウル・リッパー』で切る!」
「はい……!」
典晶は頷き、スマホの画面を見た。那由多の肩越しに凶霊が見える。典晶は凶霊をタップした。凶霊の動きが制限される。やはり、先ほどと同じように典晶の指を弾こうとしてくるが、典晶は力強く指先を画面に押しつけた。
「そのままタップじゃ! そして、上側にフリックするのじゃ!」
凶霊を押さえている指を、画面の上面に向かって動かしていく。指の動きに合わせ、凶霊が持ち上げられる。丁度、凶霊が取り付いている理亜の体が精一杯背伸びをした状態で典晶の指は止まった。
「もうちょっとだ! 典晶君!」
獲物を狙うネコ科の動物の様に、那由多は低く身を屈めた。ソウル・リッパーが青白く輝き出す。
典晶は更に指を押し上げる。見えない手によって動きを制限されているように、典晶の指はなかなか上に上がらない。典晶は携帯の画面が悲鳴を上げるのも気にせず、強く押し込み、上方へフリックした。瞬間、理亜の体から凶霊が持ち上げられた。赤い煙の様に見える魂、おぞましい人の顔を浮かべた煙が、苦悶の表情を浮かべ天井付近まで登っていった。
「那由多さん! お願いします!」
「那由多! 今じゃ!」
典晶と八意は同時に叫んだ。
風のように動いた那由多は、声にならない声を上げる凶霊に走り寄った。そして、机を蹴って飛び上がると、右手と右足に付いているソウル・リッパーを器用に組み合わせ、足を蹴り出すようにして理亜と凶霊の繋がりを断ちきった。
音も、感覚も何もない、ほんの一瞬の出来事だった。那由多は空気を切るかのように、理亜と凶霊の魂の繋がりを切った。そして、繋がりがなくなり逃げようとする凶霊を、右手に持ったハサミの片割れで切り裂いた。
那由多は糸の切れた操り人形のように倒れようとした理亜を支えると、こちらを見て一つ頷いた。
「………終わったな」
隣で見ていたイナリが、何処か寂しそうに呟いたのが印象的だったが、それ以上に、典晶は美穂子も理亜も救えたことに安堵していた。
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