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【◯◯が辛いとき】
〇〇の担当はフルート。
銀色の楽器を手にすると、嬉しい気持ちもあるけど、今はその輝きさえ重く感じてしまう。
「全調スケール、暗譜で」
顧問の声が響くたび、指がもつれてしまう。
高い音も低い音も、スムーズに繋げられない。
先輩の前で何度も間違えては注意され、視線を浴びるたびに胸がぎゅっと痛む。
「……どうして私だけ、できないんだろう」
焦りと情けなさで、また練習を休んでしまった。
ズル休みをするたびに、みんなは毎日頑張ってるのに……と自分を責める。
(きっと嫌われてるよね。私、)
その夕方、駅前で亮が待っていた。
「おつかれ。……あ、泣きそうな顔してる」
彼はお茶を差し出しながら、隣に腰掛ける。
〇〇は耐えきれず、フルートケースを抱きしめたまま俯いた。
「スケール、全然覚えられないの。先輩にも怒られて……休んじゃうことも多いし、みんな私を嫌ってるかもって」
こぼれた言葉に、亮は迷わず抱きしめてくれた。
「嫌ってるわけないだろ。……辛いのは、よく頑張ってる証拠じゃん」
彼の胸に顔を埋めると、温かい声が続く。
「逃げたっていい。俺はちゃんと味方だよ」
その夜。
リビングにフルートを持ち出すと、亮は真剣な顔で座っていた。
「じゃ、ちょっと吹いてみて?」
「笑わないでよ?」
「笑わねぇよ。俺、〇〇の一番のファンだから」
吹き始めると、やっぱり途中で音が詰まる。
「……ダメだ、また間違えた」
「今のとこ、惜しい! でも、最後のソ、綺麗に鳴ってたよ」
亮は一つ一つの音に耳を傾けて、間違えても「次いこう!」と明るく励ましてくれる。
先輩の厳しい声に怯えていた心が、少しずつほどけていった。
気づけば、いつもよりスムーズに指が動いている。
「……あれ、繋がった」
「だろ? 〇〇、やっぱすごいじゃん」
亮は子どもみたいに拍手して、フルートを持つ〇〇の頭を優しく撫でた。
「俺が横で聴いてるから、もう怖くないだろ?」
〇〇は照れくさく笑って、こくんと頷く。
その額に、亮はそっとキスを落とした。
「じゃ、これからは俺も練習係だな。……ずっと一緒にやろう」
銀色のフルートに映る二人の顔は、ほんのり赤く染まっていた。
何度か繰り返して、指がようやくスムーズに動くようになった頃。
〇〇がふぅっと大きな息を吐くと、亮がすかさず手を伸ばした。
「はい、ストップ。休憩休憩」
「え、でももうちょっとできそうで――」
「ダメ。フルートって息使うんだろ? 〇〇の顔、真っ赤になってる」
そう言って、亮は冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、グラスに注いで差し出した。
「ほら、水分補給。……俺、マネージャー向いてるかもな」
その得意げな顔に思わず笑ってしまう。
「ありがとう、亮」
「おう。笑った顔のほうが何倍も可愛い」
不意にそんなことを言うから、〇〇は耳まで熱くなる。
亮は気にせず隣に座り、背もたれに体を預けてため息をついた。
「なあ、〇〇。頑張るのもいいけど、休むのも練習の一部なんだぞ」
「……そうなのかな」
「そうだよ。俺が保証する」
彼の真っ直ぐな目に見つめられて、心の中にあった罪悪感が少しずつ溶けていく。
「よし、じゃあ休憩のあと、またちょっとだけ吹いてみような」
「うん……!」
亮の隣で飲む冷たい一口は、練習よりもずっと甘く感じられた。
翌朝。
まだ眠気の残る体を引きずりながら制服に袖を通すと、玄関の前に亮が立っていた。
「おはよ。……ほら、顔がまだ寝てる」
軽く額をつつかれて、〇〇は思わず笑ってしまう。
「今日も部活?」
「……うん。正直、行きたくないけど」
俯いた声に、亮は少しだけ眉を寄せた。
「大丈夫。俺がここで見送るから、行ってこい」
手渡されたのは、小さなチョコの包み。
「お守りな。部活前に食べて、エネルギー補給」
「……ありがとう」
玄関を出て歩き出す背中に、亮の声が追いかけてきた。
「辛くなったら、夕方また俺が迎えに行くから!」
その言葉に背中を押されて、重かった足取りが少しだけ軽くなった。
夕方。
練習を終えた〇〇は、楽器ケースを抱えて校門を出た瞬間、ふっと力が抜けた。
「はぁ……今日も怒られちゃった」
落ち込んでいると、門の前で亮が手を振っていた。
「おつかれ!」
駆け寄ってきた彼は、〇〇の手からケースを取り上げて肩に掛ける。
「はい、これは俺が持つ。〇〇は頑張ったからもうお姫様待遇」
「……そんな大げさ」
「いいんだよ。毎日朝から夕方まで吹いてんだから。偉いよ、ほんと」
歩きながら亮は話を聞いてくれる。
「スケール、まだダメで……」
「それでも続けてるだけで凄いって。俺には絶対できない」
そう言って、彼はコンビニに寄り道し、アイスを買ってくれた。
「頑張った人の特権な」
並んで食べながら家まで歩く道は、昼間の練習のキツさを少し忘れさせてくれた。
亮の迎えがあるから、明日もなんとか頑張れそうだ――そう思えた。
その日は朝から調子が悪かった。
フルートを構えても、指が思うように動かない。音もかすれて、スケールで何度もつまずく。
「〇〇、またそこ間違えてる!」
先輩の声に肩がびくりと揺れる。
「ごめんなさい……」
謝る声は震えて、唇を噛むのがやっとだった。
(なんでこんなにできないんだろう。みんなはできてるのに……)
夕方、校門を出た瞬間、堪えていた涙が視界をぼやかした。
「もう無理……」
力なく歩く〇〇を、門の前で待っていた亮が見つける。
「おつか――って、おい」
泣き顔を見て、彼は慌てて駆け寄った。
「〇〇、どうした」
問いかけられるだけで胸がいっぱいになって、言葉が出ない。
代わりに、フルートケースをぎゅっと抱えたまま泣き崩れた。
「頑張ってもできない……! 毎日怒られて、みんなに嫌われてる気がして……っ」
嗚咽まじりの声を聞いた亮は、迷わず抱きしめた。
「バカ。嫌われてるわけないだろ」
彼の声は少し震えていて、それが余計に胸に沁みる。
「できなくたっていいんだよ。今日まで続けてるだけで、俺からしたらすごい。 ……もう限界なら、逃げたっていい。俺が全部守るから」
耳元で囁かれる言葉に、涙が止まらなかった。
「……亮……」
「うん。泣いていい。俺の前では、頑張らなくていい」
背中を優しく撫でる手の温もりに、張りつめていたものがすべて溶けていく。
人通りも気にせず泣き続ける〇〇を、亮はただ黙って抱きしめていた。
やがて少し落ち着いた頃、彼は〇〇のフルートケースを持ち上げて肩に掛けた。
「ほら、今日はもう俺んち来い。あったかいご飯食べて、寝ろ。練習のことは明日考えりゃいい」
強引なくらいの優しさに、〇〇は小さく頷いた。
亮の部屋に着くと、温かい匂いが迎えてくれた。
冷蔵庫の中から手際よく食材を出して、彼はフライパンを鳴らす。
「今日は特製チャーハン。俺の得意料理」
「え、そんなの作れるの?」
「バカにすんなよ。ほら、座って見てろ」
炒める音と、漂う香ばしい匂いにお腹が鳴る。
やがて大皿に盛られたチャーハンがテーブルに置かれた。
「いただきます……」
一口食べた瞬間、思わず笑みがこぼれた。
「おいしい!」
その顔を見て、亮が嬉しそうに頷く。
「な? 泣き顔より、やっぱこっちのほうが何倍も可愛い」
そう言って軽くおでこを指でつつく。
照れながらも、自然と胸の奥の重さが少し軽くなっていた。
「……ありがとう、亮。今日、迎えに来てくれて」
「当たり前だろ。俺は〇〇の一番の味方だから」
真っ直ぐな瞳に見つめられて、涙じゃなく笑顔で返せた。
温かいご飯と、彼の隣。
その二つがあれば、明日もきっと頑張れる。
――そんな確信とともに、夜は静かに更けていった。