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午後のフロアは、午前よりも疲労が濃く漂っていた。謝罪の声は乾き、指先の動きも鈍くなる。しかし、着信音だけは平等に鳴る。無情に、規則正しく。リズムは途切れない。
彼はモニターをじっと見つめる。昼休みの会話が胸に沈んでいる――踏みつけられているほうが、楽なんです。あの言葉は冗談でも誇張でもなかった。彼女は本当に、そうやって均衡を保っているのだ。理解はした。しかし納得はできない。危うい平衡。脆い均衡。
そのとき、画面に見覚えのある番号が表示された。ブラックリスト最上位。胸が強く打つ。周囲の空気がわずかに硬くなる。誰もが気づいている。着信ランプが明滅し、世界が一瞬静止したかのように思える。
取るしかない。彼はヘッドセットを押さえる手を固く握った。
「お電話ありがとうございます――」
怒号が挨拶を切り裂く。鼓膜が震え、背筋が冷える。これを四十分以上、受け止めるのだ。
隣席に彼女がいる。視線が合う。焦りも催促もない。ただ待つだけだ。彼女の目は落ち着き、呼吸は一定で、圧力を受け入れる準備をしている。
彼の指が転送ボタンの上で止まる。触れないのはきつい。昼休みの会話が蘇る。守るとは何か。止めることか。奪うことか。問いかけは心の中で渦巻く。
「少々お待ちください。担当の者に代わります」
転送。一拍の無音。
「お電話代わりました」
あの声。低く、安定している。怒声は止まらない。
「お前らみたいなのがいるから世の中が腐るんだ!」
彼女の呼吸がわずかに深くなる。そのリズムを彼は知っている。圧力を受け入れ、内側でほどいていく呼吸。しかし今日はわずかに違う。彼女の指先がいつもより強く机を握り、唇がきつく結ばれている。抑えている。見られていることを意識している。
「謝って済む問題じゃないんだよ!」
「申し訳ございません」
わずかな震えが声に乗る。快楽を含まない、純粋に削ぎ落とした震え。彼女はまっすぐ前を見ている。しかし頬の奥では微細な動きがある。怒号が重なるたび、喉仏がゆっくり上下する。飲み込む。溢れ出そうとする何かを。
彼の胸が締め付けられる。守りたいのか。それとも、彼女が自分を抑え込む姿に安堵しているのか。怒りは勢いを失い、言葉が重複し、息が荒くなる。四十分、四十二分、四十五分――。
「……もういい」
終息。フロアに安堵が広がる。「助かりました」「さすがですね」――いつもの光景。彼女は小さく頷く。
そして、彼のほうを見る。一瞬だけ、問いかけも責めもない。ただ、分かっているという目で。今日は抑えましたよ、と言っているかのようだ。彼は胸の奥に奇妙な熱を感じる。自分は何をしたのだろう。彼女を守ったのか。それとも、より巧妙な形で差し出したのか。
業務が落ち着くころ、彼は立ち上がり、彼女の席の横に立つ。
「……無理、しないでくださいね」
自分でも曖昧な言葉だと思う。彼女は少しだけ驚き、それから静かに笑った。
「大丈夫です」
その声は柔らかい。「今回は、ちゃんと我慢しました」――冗談のように聞こえるが、冗談ではない。彼の喉がひりつく。
「我慢、しなくても……」
言葉が止まる。何を許そうとしているのか。彼女は首を横に振る。
「それもまた、愉楽ですから」
あなたが知っていても、成り立つ形にします――そんな含みが漂う。
次の着信音が鳴る。彼女は迷わず受話器を取る。怒号が再び漏れ聞こえる。誰もが顔をしかめるその声は、今日も彼女にだけ優しい。
彼はモニターを見つめ、理解する。止めないことを選んだのは自分だ。暴かず距離を保ち、目を逸らさないことを選んだ。それは善意か、あるいは静かな共犯か。
着信ランプがまた一つ、光る。鬼は怒りを受け止める。その背中を見つめながら、彼は初めて気づく。自分もまた、あの怒号の行方を、どこかで待っていることに。