とりとめて特徴のない女の冒険者は、別れ際たった一人、遠目にゆったりとイチルの目を見つめながら手を振り、透きとおるような曇りのない声で言った。
「もしまた次の機会があったならば、必ずやまた、貴方に案内役《アライバル》を依頼をします」と――
イチルは女の言葉を適当に聞き流し、話半分で手を振り返した。 数時間、……否、数分後にこの世から消え去るであろう誰かに、感情移入するなど無駄だと知っていたからだ。
ダンジョンの最終到達点へと続く螺旋状の階段を下りていく女の姿を視線の端で見届け、イチルはすぐに次の客が待つダンジョン最深部領域、通称*ラストデザート*の入口へと向かった。
振り返れば、イチルが異世界に転生した経緯は数奇なものだった。
400年も昔のこと、国内有数のレーシングチームに所属し数多のタイトルをほしいままにした最速の男は、年間チャンピオンが決まる最終戦、ポールポジションから後続を寄せ付けず突き放し、残り数周を残すまでとなっていた。
もはや優勝は目前。独走状態のイチルは、一瞬たりとも気を抜かず、暴れるハンドルを強く握っていた。
「ピットは不要、どうやらタイヤは問題ない。残り、さらにプッシュする」
『まてイチル、残りたった二周だ。後続との差は充分にある。もう無理する必要はない!』
「それで俺の気が済むと? 俺は市部《いちべ》イチル、この世界最速の男だぜ。圧倒的な差をつけてぶっちぎる。こんなところでヘタってられるかよ」
そうイチルがアクセルを踏み込んだ時だった。 突如バチンと音を立て、左前方のタイヤが爆ぜて飛び散った。 制御を失ったイチルの車体はコースを外れ、横回転したままロード脇のガードを突き破って横転した。
朦朧とする意識の中、このままでは終われないと必死で伸ばしたイチルの指先を握ったのは、名前も顔も知らない《犬に似た男》だった――
こうしてイチルは、いちレーサーから名も知らぬ異世界の、しかも獣人の赤ん坊として転生した。 細かな事前説明は一切なく、文字通り一からのスタートだった。身体は全身毛むくじゃらで、顔は狼のようなのに、人の言葉を喋ることができた。
一歩外に出れば、見たこともない様々な種族が入り混じったその世界に、当然イチルは困惑した。ただただ最速を目指し車を走らせていた日常は露と消え、新たに獣人としての日常が始まった。
その上残念なことに、イチルに課せられた十字架は、そんじょそこらの甘いものではなかった。
約8600年前から36代続く|ダンジョンアライバルなる仕事に従事するイチルの一族は、現在進行形でなおも続く、通称『エターナルダンジョン』の最深部領域、いわゆる《ラストデザート》を受け持つ由緒正しき家系の長男として生を受けたことにより、拒否権すらなく、ダンジョンで生きていくすべを叩き込まれることとなる。
攻撃、防御、魔法など特化した技術だけでなく、逃亡術《スルースキル》や狙撃術《スナイプスキル》、無効化術《インバリデーションスキル》や捕獲術《テイムスキル》など、案内役《アライバル》に必要となる、ありとあらゆる能力を叩き込まれ育てられた。
世に聞くお気楽異世界ライフの異の字もなく、イチルはただ強制の世界で新たな人生を過ごした。しかし、一子相伝上等の環境下に置かれ、悲壮感に塗れるまま生きていくかと思いきや、異世界の、しかも案内役《アライバル》という特異な職業は、心底イチルの性格に合っていた。
「悲観的に思っていたのは最初の数年だけだったな。よくよく考えれば、ここでの生き方は俺の性格にピッタリだった。確かにあっちでトップにはなれなかったのは心残りだが、異世界は異世界で誰に気兼ねすることなく、為すべきことは単純明快。俺のスピードで最強最悪なモンスターどもを根こそぎぶっちぎり、目的を完遂するだけ。そして今となっちゃ、何の疑問もなくラストデザート《ココ》の主は俺だ。まぁ、その良し悪しはわからないけどな……」
200年程前に異世界の父親が死に、それから変えたことと言えば、名前を転生前の『イチル』に戻したことくらいだった。
変えた理由は漠然としていたが、転生前を思い出す機会が減り、少しでも自分の過去を覚えておきたいと願ったからかもしれない――
仕事用にあつらえたダッシュスロープを巧みに操り、ダンジョンにはびこる凶悪なモンスターを朝飯前で躱し、ラストデザートの入口へと戻ったイチルは、予約時刻の五分前、集合場所の目印として置かれた円形の大きな石に腰掛けた。
ただ薄暗く湿った香りのするダンジョンからは、常に阿鼻叫喚の叫び声や、モンスターの猛り狂う声が聞こえていた。しかしイチルはいつも、喧騒を子守唄のようにたしなみながら、静かに時がくるのを待つのが好きだった。
言葉にできない緊張感と、落ち着き払いすぎた自身の感情とが混じり合う瞬間。 前世でドライバーズシートに腰掛けた時の極限状態に近い感情が蘇り、血湧き肉躍る感覚を取り戻すことが病みつきになり、イチルは400年もの間、迷いなくこの仕事を続けてきたのかもしれない。
「……人の足音が二つ。一つは聞き慣れたプロのもの。もう一つは、足を引きずり、既に満身創痍の男。約束は16人のパーティーだったはずだが、さてさて」
薄暗い通路の奥に、暗闇をボウッと照らす、たいまつの明かりがゆっくりと浮かび上がった。
明かりを手に、常人には聞き分けることすらできない微かな足音で近付いた小洒落た雰囲気の男は、小脇に抱えていた小さな荷物を、まるでトスするかのようにイチルへと投げた。 無言で受け取ったイチルは、微かに届く松明の明かりで中身を確認し、後続の何者かに気付かれぬよう小さく頷いた。
松明の男に続いて、今度は壁に手を付き、這いずるようにした男の冒険者が姿を現した。 全身は傷つきボロボロで、恐らくは最高クラスに設えた装備も半壊状態だった。 見るからに半死人で、これ以上の戦闘などは望めず、指一本で押すだけで倒れてしまうほど疲弊している様子だった。
「どうも、最深部《ラストデザート》を受け持つイチルだ。エターナルダンジョン最後の案内人《アライバル》として、以降は私が担当させていただく」
イチルの自己紹介に対し、声すら届いていない様子の冒険者は、精神的に追い詰められ、今にも呪い殺されそうな顔で、すがるようにイチルに抱きついた。
イチルは心配するふりをしながら、一番安価な回復薬を冒険者にふりかけた。しかし、決してそれ以上のことはしない。
なぜならば、それ以上の行為がすぐ無駄になることを知っていたから――
「ご予約いただいた内容によると、パーティーメンバーは全部で16名とあるが。まだお集まりでは?」
「し、し、死んだ。俺以外、みんな死んだ。アシュリーは蟻に食われ、デスクスはゴーレムに潰され、ミンテも、ギグズもみんな死んだ。俺はコルヴァント公爵様の命により、絶対にここを攻略しなきゃならない。頼む、俺一人で構わない、アンタの力でここをクリアさせてくれ。でないと死んでいった仲間にも、公爵様にも顔向けできん!」
悲壮感に塗れた顔ですがり付く冒険者に、イチルはうんうんとうなずいてから、諭すように言った。
「残念だけど、俺にできるのはアンタを最終到達点へ連れて行くことだけだ。そこから先のことは何もしてやれない。戦うことも、助けることも、何も」
「だったら教えてくれ。俺がここを、ここをクリアできる確率はどれくらいある。あるんだろ、どうにかなる裏技が?!」
口元だけを柔らかに崩し、イチルは慈悲深く伝えた。
「ありません。階段を降りてすぐに、アンタは何事もなく殺される。……一瞬で」
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