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「結婚しよう、綾子」
そう言った彼の顔は真剣だった。こんなにも真っ直ぐな瞳で見つめられたのは、何年ぶりだろう。
少し俯いて返事に戸惑った私の顔を、彼は少し不安そうに覗き込んだ。
私は顔を上げて、彼に微笑む。それを見て、彼も同じように柔らかく笑った。
彼ほど素敵な人はいないはずなのに、無意識に遠く昔に置いてきたはずの記憶が胸をかすめ、頭の中に響き渡った。
──────────
あやちゃん、ごめんね。
ごめんね。
ごめんね。───────
──────────
「てか、いいなぁ~綾子は!」
大学時代の友人、咲希が突然大きなため息をつく。
「いいって、なにがよ」
「葉山さん、だっけ?付き合ってもう長いし、そろそろ結婚とかあるでしょう?羨ましいなあ」
「うわぁ~寿退社ってやつだ!」
同じく友人の美香も便乗する。
「ちょっと、美香まで辞めてよ…だいたいなによそれ、古いわね」
「だってそうじゃん!」
「辞めてってば。私は今の仕事が好きだし、退社なんかしないわよ」
「え、勿体なくない~?だって京都の老舗旅館の長男でしょう?」
「じゃあ綾子は……次期女将だぁ!」
「やだ~花形!」
「冗談じゃないわよ、わたし責任なんて背負いたくないんだから」
「もー子供なんだから、綾子は」
「何よ、それ~…」
私がいじけて言うと、咲希と美香はケラケラと笑い、そういえばうちの上司ったらさ、とすぐに別の話題へと切り替わった。
(子供、か。そうだよなぁ)
葉山悠介さんは私の恋人。
私が葉山さんと付き合い始めたのは、新卒1年目の冬だった。
私は大学を卒業後Webデザインの会社に入社し、その頃上司だったのが葉山さん。
葉山さんは老舗旅館の長男。跡継ぎという親に敷かれたレールから逃げるために、大学を卒業してすぐにうちの会社へ入社したそうだ。
私は、親の反対を押し切って一人で頑張ってきた葉山さんのことを、心から尊敬していた。
私と葉山さんはそれからトントン拍子で付き合い始め、あっという間に3年が経った。そして去年の夏、葉山さんは遂に旅館を継ぐことを決意したようだった。
「夕飯できたよ。綾子、何見てるの」
食欲をそそる匂いがリビングまで届き、
振り向くとエプロン姿の葉山さんがこちらを見ていた。
「あ、ごめんなさい。すぐ行くわ、夕飯ありがとう」
私は急いでテーブルへ向かう。
「あのね、アルバムを見てたの」
「アルバムって、いつの?」
「ほら、葉山さんと初めて静岡旅行へ行った時の…」
「ねえ、綾子。そろそろその葉山さんって呼び方やめない?」
「……えっ?あ、そうだよね…恋人なのにおかしいか」
葉山さんは微笑んで、テーブルに料理を置いた。
「いや、急かすわけじゃないけどね。僕たちも長いんだし、そろそろ……」
「わっ!美味しそうなカレー!」
私は思わず話を遮ってしまった。葉山さんはふっと笑って、少し片付けがあるから先に食べててね、とキッチンへ戻って行った。
(カレー……懐かしいな)
湯気に溶けたスパイスの香りが、押し込んでいたはずの記憶を頭の奥からそっと連れ戻してくるようだった。
──────────
直人は、私が高校生の頃付き合っていた元彼。不器用で、頼りなくて、いつもヘラヘラ笑っているような人。
彼の家は母子家庭で、学校に内緒で小さなカレー屋さんでバイトをしていた。
学生ということもあってお金に余裕がなかった私たちは、ほとんどデートにも行けなかった。
だから、ときどき直人のバイト終わりに店長が彼に持たせてくれたカレーを、二人で分けて食べた。本当は母子家庭の彼のことを思って、家族のためにと持たせてくれていたものだった。それでも直人は、決まって自分の分を私に半分くれた。
冷めたカレーが、そんな彼の温かさを際立たせるようだった。
直人のバイトがない水曜日には、毎週決まって一緒に川沿いの夕焼けを見に行った。
彼の自転車の後ろに乗って、夕方の風に吹かれる時間が私の毎週の楽しみだった。
「綾子!今日カラオケ行かない?」
「あーごめん、今日直人とデートの日なんだ」
「えー…ねえ綾子、あいつの何がいいのよ、どこが好きなの?」
同じクラスの真紀が拗ねた顔で言う。
「うーん…あいつ、バカで不器用だけどさ。まあ、いいとこもあんのよ」
「はー、なんだそれ!」
真紀は知らない、私にしかわからない優しさが直人にはあった。
彼は、女手一つで育ててくれた母親とまだ小さい妹を支えるため、バイトで稼いだお金はほとんど家の生活費に回していた。
だからお金に余裕はないはずなのに、毎月記念日には必ず一緒にお祝いをしてくれた。
そして、付き合って1年が経った頃。
「じゃーん!あやちゃん、1年記念のプレゼント!」
「わぁ、なにこれ。」
「いいから、開けてみて!」
直人は早く早くと言わんばかりに、小さな箱をグイグイと押し付けてくる。わかったわよ、と呆れて包装を開けると、そこには小さな銀色の指輪が光っていた。
「えっ……ちょっとなにこれ、いいの?」
「うん!高いのは買えなかったけどさ…ほら、ペアリングなんだ!」
直人は自分の手に光る指輪を自慢げに見せた。
「すっごく嬉しい、ありがとう」
「ちょ、あやちゃん泣くなよ~!ほら、つけてみて!」
焦った表情で指輪を手に取り、私の左手の小指につけてみせた。
「左手の小指につける指輪ってな、願いを叶えるって意味があるんだってさ。」
「へえ……知らなかった。ありがとう、直人。」
正直ダサいと思った。でも、直人のその気持ちが嬉しくて。そんなところも愛おしくて、胸がいっぱいいっぱいになった。直人は照れたように笑って、私の左手に優しく触れた。
「薬指は……もうちょっと待ってくれよな、俺頑張るからさ」
直人は珍しく真剣な顔で言い、またすぐに柔らかい表情に戻った。
「なあ、指輪に願い事してみろよ。3kg痩せますように~ってさ」
何言ってんのよバカ、と直人の肩を叩くと、直人はいたずらに笑って私の手を取る。
私達はおそろいの指輪をつけた小指同士をぎゅっと繋いで、夕方の川沿いで寄り添った。
指輪を照らす夕陽を見つめながら、この幸せがずっとずっと続きますようにと心の中で願った。
──────────
「別れよう」
直人からそう告げられたのはあまりに突然の事だった。
いきなりのことで理解が追いつかず、頭が真っ白になった。悲しみや怒りがごちゃまぜで、自然に涙が溢れた。
「は……?なんで?ちゃんと話し合おうよ」
必死で引き留めようとしたけれど、直人は暫く黙ったあと、俯いたまま立ち去ろうとした。
「なんとか言ってよ……ねえ!」
私は慌てて直人の腕を掴んだ。振り払われるとばかり思っていたけれど、振り向いた直人は優しく私の頭を撫でた。
「ごめんね、あやちゃん」
そう言った直人は、温かい手からは想像もできないような強ばった表情をしていた。
何か言おうとするように、直人の唇が一瞬だけ動いた。
「直人…!」
私の声が届いたのかもわからないまま、直人は静かにその場を後にした。
直人の背中が見えなくなった瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちていくのを感じた。
「嘘つき……」
私は左手の小指から指輪を外すと、そのまま地面に叩きつけた。
銀色の輪が、乾いた音を立てて転がった。
──────────
「綾子?どうしたの、カレー食べないの?」
「……あ、ごめん。ぼーっとしちゃってた」
「ほんと、綾子はのんびり屋さんだね。そこがかわいいんだけどね」
葉山さんは私の隣に座り、いただきますと手を合わせた。私も同じように手を合わせ、スプーンを手に取る。
スプーンの銀色が、あの小さな指輪を思い出させるようだった。
──────────
葉山さんのプロポーズから数ヶ月後。
仕事帰りの駅前は、人波で少し騒がしかった。
その中で、見覚えのある背中がふと目に入った。
振り向いた横顔を見て、喉が詰まった。
直人だった。
自転車の後ろで見ていたときより、少し広くなった背中。
だらしなかった髪の毛も短く整えられ、あの頃よりもずっと大人になっている気がした。
「あやちゃん…?」
直人もこちらに気が付き、まるで時が止まったようだった。
──────────
「そっか、県外で…だから会わなかったんだね」
「うん、あの後すぐに就職したから……。」
「そっか」
「うん」
「…ねえ、直人。なんで私を振ったの」
「……」
「教えてよ。この数年間、ずっと気がかりだったんだから。」
どこか気まずい空気が流れて、ぬるくなったコーヒーを勢いよく流し込んだ。すると大きくむせてしまい、直人は呆れたように笑った。
「あやちゃん、ほんと変わってないな。見栄っ張りだけどドジなところとか」
「うるさいわよ」
「あーあ、かわいくねーな相変わらず」
ああ、そうだ。私はきっと直人のこういうところが好きだったんだ。
私はカップの中で揺れているコーヒーを見ながら、ぽつりと呟いた。
「楽しかったね」
直人はじっと遠くを見つめたまま、静かに口を開いた。
「ごめん。あの頃、かなり家計が苦しくなってて、俺、卒業したらすぐに就職しようって思ってて。……とにかく、このままじゃ大好きなあやちゃんを不幸にしてしまうと思ったんだ」
「なによそれ、私は直人と一緒なら……」
途中まで言いかけて、自分を制御するようにコーヒーを一気に飲み干した。
苦い味が、喉の奥に残る。
「あのさ、俺たち……」
直人が何か言いたげな表情で口を開いた時、
私はゆっくりとカップを置いた。
「私、今度結婚するの」
直人は驚いた表情のまま顔を上げ、しばらく黙っていた。
それから小さく息を吐いて言った。
「そっか」
そのまま私の目を真っ直ぐ見つめる。そして、あの頃のように優しく笑った。
「おめでとう」
「うん……じゃあ、そういうことだから」
私は席を立ち、背を向ける。直人が私を呼び止め、小さく言った。
「幸せでいろよ」
私は黙ったまま頷き、振り向かずにその場を後にした。
日が落ち始めた水曜日の喫茶店から、夕焼けは見えなかった。まるで、もう私たちが会うことはないんだと悟らせるようだった。
夜、家に着くと、スパイスの香りが空腹を誘った。
「あっ、おかえり綾子。今晩はカレーだよ」
「ただいま。うわぁ美味しそう、ありがとう!」
「……?綾子、なんか今日はいつもに増してご機嫌だね」
「え、そうかな?」
「うん、なんだか表情が明るいよ」
「ふふ、葉山さんに会えたから嬉しくて」
「なにそれ、かわいい。あ、そういえばこれ、この前貸してもらったペン、ありがとう。」
「あ、うん。ちょっと仕舞ってくるね」
リビングの引き出しを開けると、懐かしい乾いた音が響く。奥の方に何かが光って見えた気がした。
「…気のせいか」
私はそのまま引き出しを閉め、テーブルへと向かった。
「綾子、外寒かったでしょ?はいこれ、ミルクコーヒーとお砂糖」
「ありがとう、悠介さん」
「えっ……えっ!今悠介さんって言った!?」
「なによ、そんなことくらいで」
「うわぁ~嬉しいな、なんか実感湧くね」
「もう、ほら早く食べよ」
テーブルに座ると、カレーの暖かい湯気が前髪にかかる。
「…………」
「どうしたの、綾子。」
「…ううん、なんでもないよ。」
私はスプーンを手に取って笑った。
「ねえ悠介さん、指輪。どんなのにしようか。」
カレーの湯気の向こうで、彼が楽しそうに笑った。
──────────
おわり