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会場の扉を開けると、ひんやりとした空気がふたりを迎えた。
奥に設置されたステージには、すでに照明が当たり始めていて、観客の視線がひとつの場所に集まりつつある。
彩夏と2人、少し遠慮がちに後方の空席に腰を下ろした。
「……うちの編集部じゃこんな大きいイベント来ること滅多にないから、ちょっと緊張するかも」
彩夏が小さく笑って言う。
「うん。あたしも、こういう空気って慣れないかも」
声を落としながら返す。
背筋を伸ばすと、壇上でひとりの男性がマイクの前に立ち、ゆっくりと一礼した。
岡崎だった。
壇上に立つその姿は、ふだんよりも少しだけよそゆきで、真剣だった。
マイクに口を近づける。
場内がすっと静まった。
「えー……本日はご多用の中、ご来場いただきありがとうございます。
本プロジェクトは、“観光×テクノロジー”を軸に、地域資源の新たな魅力を創出することを目的としてスタートしました」
落ち着いた声だった。
けれどその口調には、まだどこか温度がなかった。
「自治体、企業、そしてメディアが連携し、それぞれの視点を掛け合わせることで──
今までにないアプローチによる観光PRが可能になると考えています。
本日お披露目となるサービスは、その第一歩となる試みです」
淡々と原稿を追うような話し方。
整ってはいるけれど、どこか“岡崎らしくない”気がした。
思い返す。
さっき、あんなふうに笑いながら文句を言っていた。
──でな?俺なりにこう話そうとか色々考えてたわけよ?
したらさっき部長が「岡崎くん台本これね」って渡してきて。いやいや、早よ言えやって感じ。
それでも今、壇上の彼は、その台本をしっかり読んでいる。
……そう見えた。
ほんの少し前までは。
ふいに、岡崎の手が止まった。
視線が紙から客席へと移り、その顔つきがすっと変わる。
「──という、難しい話は置いといて」
一瞬間を置いて、やわらかく笑ったように見えた。
「このプロジェクトには、いろんな人の想いと努力が詰まってます」
それは、明らかに台本にはなかった言葉だった。
「現場で感じた空気や、そこで出会った人の温度を、どうすればちゃんと伝えられるか──
正直、今も答えは出てません。
でも、画面の向こうにいる誰かが、“ちょっと行ってみたいな”って思ってくれたら、それが一番だと思ってます」
口調は少し照れたように、けれど穏やかに響く。
それはまぎれもなく、岡崎自身の言葉だった。
拍手が会場を満たす中、岡崎が壇上を下りる。
照明が戻っていくと、ステージから離れた彼の背中が、わずかに遠く感じられた。
彩夏がとなりで、小さく笑った。
「……ろくちゃん、ほんと相変わらずだなあ」
懐かしそうに目を細める。
「昔からああいうとこ、ちゃんとしてるの。不器用なくらい、まっすぐで、でも手は抜かない人。
ああ見えて、ほんとに真面目なんだよ。口では適当なことばっかり言ってるくせにねぇ」
その言葉のひとつひとつが、岡崎の輪郭を浮かび上がらせる。
何年も積み重ねてきた関係でしか知り得ない“理解”が、その声に滲んでいた。
胸が静かに軋む。
岡崎が語った言葉──
「でも、画面の向こうにいる誰かが、“ちょっと行ってみたいな”って思ってくれたら──」
それは、目の前の誰かひとりに向けたというより、不特定多数の“誰か”に届いてほしいという、あたたかな願いだった。
岡崎はきっと、“全員に向けて”まっすぐに語っていた。
そのことは、ちゃんとわかっていた。
それでも。
あの“誰か”が、今となりで微笑んでいる彼女に向けられていたような気がしてならなかった。
静かな空気の中、彩夏がふとこちらを向いた。
「ねぇ、香澄ちゃん!このあと、もし良かったら三人でごはん行かない?せっかくだしっ!
ろくちゃん戻ってきたら、声かけてみようよ?」
明るくて、無邪気な誘い。
けれど、それが鋭く胸に刺さる。
正直。
もうこれ以上、このふたりと同じ空間にはいたくなかった。
ただの嫉妬や、気まずさじゃない。
二人のあたたかい記憶や空気に触れ続けることで、自分の中の何かが確実に壊れてしまう気がした。
あの視線や言葉、知らない思い出の断片が、向けられるたびに喉を締めつけていく。
そんな時間を、耐えて過ごす自信はなかった。
「……ごめん。今日、このあと予定があって」
静かに、けれど確かに、言葉を返す。
一瞬だけ目を丸くした彩夏が、すぐに笑顔を浮かべる。
「あっ、そっか。そだよね、急にごめんっ。香澄ちゃん忙しいのに」
どこか気をつかうような声色だった。
「でもまたさ、時間あるときに三人でごはん行こ?
今度はちゃんと前もって予定立てよ。ね?」
「……うん。そうだね」
短く返したあと、少し呼吸を整えて、視線を彩夏に向ける。
「──ごめんね。先に失礼するね。社の人たちにも挨拶しておきたくて」
「そっか、そうだよね。うん、大丈夫!今日は急に誘っちゃってごめんね」
彩夏が軽やかに笑う。
声の調子も、仕草も、最後まで変わらず明るかった。
「香澄ちゃんに会えて嬉しかった。またゆっくり話そ?」
「うん。……ありがとう」
小さく会釈をして、軽く笑みを浮かべる。
それ以上、言葉を足す余裕はなかった。
少し早足でその場を離れると、足音が妙に響く気がした。
会場の出口に向かう途中、人ごみのざわめきもスピーチの余韻も、すでに遠くのことのようだった。
誰にも見られないところまで来たとき、胸の奥で静かに押さえつけていたものが、じわじわと広がりはじめる。
──逃げた、という思いがあった。
でも、それでよかった、という思いも、確かにあった。
彩夏と岡崎が並ぶあの空間に、これ以上いることはできなかった。
踏みとどまるには、まだ心の輪郭が脆すぎる。
エントランスのドアを抜けた瞬間、夜の風が頬を撫でた。
ひんやりとした空気が、張りつめていたものを少しだけゆるめていく。
駅へと続く通りを歩き出したところで、ポケットの中が小さく震えた。
スマートフォンを取り出すと、画面に浮かんだのは、あの名前。
まどか:やっほー!香澄なにしてんの? 暇だったらご飯いこうよ!
ただそれだけのメッセージだった。
けれど、緩く投げかけられたその言葉に、張り詰めていた感情がすっと溶けていく。
返事を打つ指先がかすかに揺れた。
「行く。すぐ会いたい」
送信ボタンを押したあと、胸の奥がふっと軽くなる。
たった一言のやりとりが、暗がりのなかに小さな灯りをともしていた。